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2006年5月

2006年5月31日 (水)

W杯日本代表が「サムライ」じゃなかったら!?

Photo_17

 つい数日前に気づいたのだが、サッカー日本代表が「サムライ」って呼ばれていた。朝日新聞の見出しで「サムライ日本に歓声」と書かれているのを見て、「オイオイ、いつからサムライになったの」と本気で驚いてしまったのだ。
 というわけで、最近、日本代表が「サムライ」だと知った少数派(たぶんね)に向けて今回の記事を発信したい。

 この「サムライ化」は日本代表のキャッチフレーズに由来する。
 昨年の10月1~14日に5つ候補のうち1つをネット投票し、今年1月末に「SAMURAI BLUE 2006」になったと発表した。
 知ってた?
 ジーコ監督もこのコピーをたいそう気に入ったようで、コピーが印刷されたブルーのボードにポルトガル語で「侍パワーこそ日本選手が素晴らしい成績を収められる力となる」(『スポーツニッポン新聞』06年1月28日)と書いたとか。
 で、しつこいけど、知ってた?
 
 まあ、この投票した時期に知っていた人は少なかったことは確かみたい。なんたって総投票数が2万4208票しかなかったのだから。ちなみに昨年のオールスターのファン投票トップはダイエーホークスの城島健司選手で70万5999票だった。2万4000票なんて数字ではオールスターへの出場はもちろんかなわない。
 こうしてひっそりと行われた投票によって「SAMURAI BLUE 2006」に決定したわけだが、じつは、ここに投票した人はかなり偉かった。というのもコピー案が「SAMURAI BLUE 2006」以外、けっこう悲惨だったのよ。

第1位  「SAMURAI BLUE 2006」 10,111票      
第2位  「Make the HISTORY」  4,542票      
第3位  「世界を驚かせよう。」  4,248票      
第4位  「頂点へ、全員で。」   3,108票      
第5位  「WIN NOW!」      2,199票 

 どう?
 もし「Make the HISTORY」がトップだったら、今、ドイツのボンで日本サッカー協会の情報発信拠点までの道しるべとして、あるいはレストランの店先で歓迎ムードを盛り上げるグッズとして、街中に「Make the HISTORY」と染め抜かれた旗がひらめいているところだったのだ。もちろん「頂点へ、全員で。」だった可能性もあるわけで、そんなことになった日にゃ、旗に書かれた文字の意味をたずねるドイツ人に恥じてしまう日本人が続出したに違いない。サッカー後進国である日本が前回準優勝のドイツで、歴史作りや優勝を声高に叫ぶのはさすがに時期尚早だろう。

 逆を考えてみればいい。柔道ドイツ代表のキャンプ地周辺に「頂点へ、全員で。」と書かれた旗が山ほど掲げてあったら、どう? 腹が立つというよりはカワイイって感じでしょう。いきがっている中学生のような。
 改めてサイレントマジョリティーである大衆の判断の的確さに驚いてしまった。

 いまやワールドカップは巨大商業イベントである。電通の試算によれば、日本が決勝トーナメントに出場すると、4759億円もの波及効果を日本経済に与えるという。消費についても、ユニホームなどワールドカップ関連商品の「グッズ購入費」が426億円にものぼり「飲食関連費」も413億円だと。
 ドイツにはいけないけれど、グッズを買ってスポーツバーで応援だとか、自宅で日本代表を応援するビールで乾杯だとか、そんな庶民の応援にもコピーは刷り込まれる。
 応援グッズに大きな投資をしているキリンなどは投票結果が気になって仕方なかったに違いない。KIRIN WORLD CHALLENGE 2006のスタジアムで配布したゴム製のリング「ブルーリング」が「Make the HISTORY リング」だったらあらぬ想像を招きかねないし、日本代表応援グッズ樽生専用サーバーに「世界を驚かせよう。」と印刷するのはデザイナー泣かせで、サポーターすら欲しがらなかったかしれない。僕がキリンの社長なら社員にいっせい投票を強制していたところだ。

 原油の高騰もあり、日本経済の腰折れが心配されている。こんな状態を打開するためにもワールドカップの経済効果は重要だろう。景気が良くなれば、ノンフィクションが売れると信じる私としては「SAMURAI」でよかったと心から思うのである。

 ただ勝利に貢献するコピーかは少し疑問だという情報も付け加えておきたい。
 広辞苑によれば、侍の語源は「さぶらう」。「目上の人のそばに控える」という意味が元にあるという。日本代表が誰のそばに「控える」気なのかは分からないが、せめて同組のブラジルに控えてほしい。クロアチアやオーストラリアなんかに控えた日には、その時点で決勝トーナメント進出は不可能(まあ、もともと順当にいけば不可能なわけだが……)。
 とりあえずワールドカップの後に「SAMURAIって防戦一方なのな」とか、「やっぱりSAMURAI自決かよ」とかいう言葉だけは聞きたくない。

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2006年5月30日 (火)

若者の希望を搾取に変える小泉マジック

とにかく不思議なのは小泉政権の支持がいまだに5割近くあることだ。各種世論調査によると若者と女性の支持が多いという。女性が「小泉という時代」を支持するとかわいいわが子を戦場に送って誉れの家になれてめでたいね、みたいな話を以前書いたので今回は若者の方にしたい。

小泉政権がやったのは大都会出身以外の若者の故郷を廃墟にして住めなくし、地場産業の正社員の道を閉ざし、正社員の代わりに臨時雇いの身分に格下げし、どちらにせよ「成果主義」「実力主義」の名の下に働きづめに働かせ、一握りの成功者を金の亡者にして大多数の敗者を低賃金生活者に陥れる「人類ジャングル化計画」である。なのに若者は支持する。なぜだろう。
実は10年ほど前から10代後半から20代前半の若者に対して「終身雇用」「年功序列」と「成果主義」「実力主義」のどちらがいいかと質問し続けてきた。その結果は圧倒的に後者の支持だった。秀才ばかりを取材したわけではない。フリーターなどにも万遍なく聞いた結果だ。

実に不可解である。「成果主義」「実力主義」になると一握りの成功者以外は「終身雇用」「年功序列」よりも損をするのは明白である。だとしたら自分はその一握りになれると思っているのかというと3年ぐらい前からハイと答えるのもまた一握りとなり、多くが沈黙するようになった。だが「いいえ」は皆無に近い。
この沈黙してしまう大多数の背景には素朴な「希望」があるらしいのだ。つまり今は主観的にも客観的な数値でもパッとしないが必ず逆転してみせるという願いである。では「ハイ」と答えればいいはずだが、そこまでの自信はない。
「成果主義」「実力主義」に賛同する若者は10年前から圧倒的だった。ただし10年前はかなりの数がハイと答えた。若者らしい無謀さや無垢を率直に反映していたのだ。だが今ではそうでもない。「希望的観測の希望」に変わってきているようなのである。

小泉純一郎という人物は、「ハイ」と言えない若者に代わって散々連呼してきたといえよう。ハイの代弁者だ。まず自分を多数の敵に囲まれた辛抱立ち役に擬する。ワンフレーズだ政策の中身がない、人の意見を聞かないなどの批判も「頭が悪い」「成績がちょっと振るわない」「協調性に欠ける」と沈黙する若者が散々浴びせられている否定的な言葉のアナロジーと受け止める。
要するにテレビや他の報道からイメージするコイズミは沈黙する若者が置かれている立場・状況とよく似ているのだ。似せているといった方が正しいかな。
それでも小泉首相は立ち向かう。多数決で敗北した郵政民営化関連法案の失敗を認めない。回りはライバルだらけで実は自分はさほどではないのではないかと自問する若者はその勇気に自分を重ね合わせる。彼のように私もできるとの希望を与えるわけだ。だから支持する・・・・という分析は粗雑だろうか。

だが本当は違うのである。小泉魔術は自らを「弱者と認めない弱者」になぞらえる。すると「弱者と認めない弱者」が賛同する。ならば「弱者と認めない弱者」を多数作り出す社会を作ればいい。それは弱肉強食である。
本来は沈黙しなくてすむ社会を作るべきなのに「ぶっ壊し」て沈黙せざるを得ないところに若者を追い込む。いたぶればいたぶるほど「弱者と認めない弱者」を大量生産できる。
その半面でいたぶって搾取できる強者は小泉首相の辛抱立ち役的サル芝居をサル芝居と指摘しない。なぜならば得をしているからである。そして彼らも支持する。うまいものだ。殴って殴って殴って抱きしめると単に抱きしめるより効果的なわけだ。

私が許せないのは本来は無垢である若者の希望をこうした形で吸い込むカルト的仕組みにある。希望は希望としてかなえてあげようと考えるのが政治のはずだ。
現実は厳しい・・・・などと私のようなオッサンが言い聞かせても無意味であるのもコイズミは知っている。確かにそうであろう。現に私が若者だった時にそう説教されても「あんたが無能だからだろ」と馬耳東風だったに違いない。
「いいえ」の人集まれ・・・・みたいな共産・社民両党の訴えも同様に少数にしか響かない。私も若い頃は「いいえ」とはいえなかった。今ならば声を大にしていえるのだが。
「終身雇用」「年功序列」という言葉に深くしみ込んだ「怠惰なオッサンの方が頑張る若者よりも給料が高い」といった悪いイメージはもはや払拭できまい。事実としてそうした部分もあったし「成果主義」「実力主義」導入によって「怠惰なオッサン」が叩き出されるの図を見れば若者は拍手喝采したくなる。実はそれが自分の親父だったりもするのだが・・・・。

したがって小泉という時代(小泉首相退陣とイコールでないのにご注意を)を終わらせるには「ハイ」「いいえ」のどちらも言えない若者を振り向かせる新たな魔術か真っ向微塵の明確な政策を示す必要があろう。
私は終身雇用の復活に尽きると考えている。ただし「終身雇用の復活」という言葉ではダメだ。先述の悪印象が強すぎるから。
これは識者の多くが指摘しているがそもそもわが国で終身雇用などなかったのである。例えば小社は終身雇用だ。それで社員は一応安心する。だが小社自身が風前の代物だから幻想に過ぎない。社勢も伸びない。でもそれでいいのである。

もう1つ。小泉政権は従来の組織人間的組織における「終身雇用」「年功序列」から非常に不安定なフリーター的雇用に置き換えていった。その間がないのである。おそらく「ハイ」「いいえ」と言えない若者にとって居心地のいいのは「その間」の正社員に違いない。ビジネスなどと大層で冷酷な響きではない何か。私たち大人は説教の代わりに、その「何か」を示す必要がある。
それは業種や職種でさまざまであろう。小社の場合は「売れない分野の本で当てる」だ。当たった試しはないが、だからこそ面白い。社勢は低迷し続けようが売れている類書の後追いするよりよほど笑える。ドン引きでさえ楽しい。取次様には大変申し訳ないが「当てる」意欲と努力は満々なので可能性を信じていただけるとありがたい(切実)。それでもダメになったらその時に考えればいい。
つまり一言でいうならば「何か」とは遊び半分である。それでいけないのかなあ。(編集長)

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2006年5月29日 (月)

自信を失ってコレを読むのは間違いでしょ!

Ko 好きなタイプの本じゃない。それは何となく分かるものだ。でも、大ベストセラーともなれば、やはり読んでおかなけりゃイカンかなとも思う。そんなこんなで手に取ったのが『国家の品格』(藤原正彦著/新潮新書)。
 いやいや売れているらしい。発行から7ヵ月で200万部を突破したというのだから尋常ではない。200万部達成までの時間は新書の日本最高記録だとか。景気のいい話じゃないか! この新潮社の好景気に、私は1冊貢献してしまったわけだが……。

 帯には「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論!」とある。 言いたいことは、日本を始めとする現在の先進諸国社会は荒廃している。だから日本古来の「情緒と形の文明」を取り戻せ、と。さらに近代合理精神は限界にきているし、自由や平等や民主主義も疑え、と。
 まあ、自然への感受性を取り戻せと主張するもいいでしょう、情緒の優位性を説くのもよい。でも、それで武士道精神を取り戻せって!、あんた。
 
 すんません。無理ッス。自分、農民出身ですから。

 だって大畑だよ。大きな畑を夢見ていた小作農でしょ、この名前は! よく調べことはないが、少なくとも武士じゃない。先祖代々さかのぼっても武士道なんか触れたことないはずだ。「取り戻」そうにも経験がありませんって。

 だいたい江戸時代、都市部に住んでいたのは全体の3割足らず。そのほかは農山漁村の住民だった。そんな住民の大半が武士ではなかったことは明白。じゃあ、残り3割のすべてが武士だったかというと、武士が異常に多かった江戸でさえ半数しかいなかったらしい。てことは、多めに見積もっても全体の1割5分!

 だいたい当時の武士の多くが武士道を信奉していたかも怪しい。この本書でも卑怯な行為として取り上げている「弱い者いじめ」が武家社会で、あるいは農民に向けて行われていなかったとも思えない。
 かつての日本の高い道徳性について本書でも触れているが、まさか当時の農村社会が乱交文化だったことを知らないわけではあるまい。少なくても性に限って言えば、現在の渋谷の女子高生はかつての「道徳」を復活させているってことだ。つい数年前までは顔に「隈取り」しているヤツも多かったしね。

 で、さらに驚いたのが次の文章。
「国民は得家印に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。
 それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対に必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです」
 この文章を読んで上で聞きたい。
 まさかと思うが、著者の藤原正彦先生は60歳を過ぎて自身をエリートの階層に組み入れていないでしょうね。「散り際」に美しさを求め、「老害」なんぞを絶対に許さない武士道に習うならば、もう隠居してしかるべき年齢とも思うのだが。隠居しないなら、非エリート同士肩組んで、一緒に「えーじゃないか」と叫びながら踊りませんか?

 GHQが日本人の順法精神のなさに驚いたという記述を、かつて何か本で読んだ。闇市だ、物資の横流しだと、あらゆる違法がまかり通る状況に驚いたらしい。それを道徳の退廃と捉えることもできよう。しかし私はそこに日本人の力強さを感じた。占領されても唯々諾々とは従わない。自分の生活のために走り回る。法律なんかクソくらえだ、という力強さ、柔軟性こそが人間としての魅力である、と。
 張り詰めた感性、道徳観は揺さぶりに弱い。意に沿わぬからと「散り際」を求めるのは格好がよいが、死んだら跡に残された者はどうするのか。変化した世の中を受け止め、しぶとく生き残ることこそ人間に課せられた使命じゃないか?
「品格ある国家を保つ」ことで、日本人が世界を救えを言われてもね~。

 思い起こせば、わずか20年前ほどまで日本人の誇りを支えていたのは経済だった。その経済がバブル崩壊とともに崩れさり、終身雇用制などの社会システムも大きく変化した。現在、多くの人々はリストラに怯え、格差社会を恐れ、アイデンティティーのよりどころをなくしている。そんなとき、かつの日本文化を懐かしむナショナリズムが跋扈する。
 でも、そんなもん解決策になるの??? 回顧している人たちを陥れて金儲けするヤツラが喜ぶだけだと思うのだが……。

 でも、繰り返すが、この本が売れているのだ。つまりシンパシーを感じている人も多いのだろう。
 やれやれ。
Supi  どうせキワモノに人生哲学を求めるなら『スピリチュアルな人生に目覚めるために』(江原啓之著/新潮文庫)あたりの方がマシじゃない。
「すべての存在はもともと一まとまりの類魂であり、ともに神を目指して向上している仲間である」なんていいんじゃない。みんな仲間なら戦争も起きないし、エリートに国家運営を任せないでも戦争を回避できそうだぞ!

 まあ、私は江戸文化と聞くと「やれ突けそれ突け」あたりを思い出す腐れ外道なので、武士道ともスピリチュアルとも縁遠い生活をしているわけですけどね(大畑)。

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2006年5月27日 (土)

書店めぐりには

書店を巡るときには読書好きの友人を連れて行くといいですね。
先日書店バイト暦4年の友人と連れ立って書店に行ってきました。
私は児童書が好き。友人は翻訳物が好きということで、お互いに知らない本を紹介しあえてとても有意義でした。
ただ、一緒に行くと読みたいと思う本が増えすぎてお金が・・・
あまりにも本代がかかるので、読みたい本貯金でもしようかという話になりました。
読みたい本のリストを作ってその金額を貯金する。
そしてその本は図書館で借りるというものですが・・・
やっぱり本は自分で買って読むのが良いんですよね。
だからお金がたまらないのか・・・。(S)

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2006年5月26日 (金)

で、いったい誰を逮捕したいの共謀罪?

「誰でも逃げる」と言うキャッチコピーが使われたトム・クルーズ主演の『マイノリティ・リポート』は2054年の近未来を描いた映画だ。未来を予知できる超能力者の力を使い犯罪が発生前に犯人を逮捕する。そんな完璧な防犯システムによって殺人者と予告された捜査官の物語。
 たしかにこんな「容疑」で逮捕されてしまうなら「誰でも逃げる」。

 ところが、法務省はこの映画と同じようなシステムを作ろうとしている。
 そう、共謀罪だ。
 この法律は「重大な犯罪を実行する団体」が「犯罪実行に必要な準備、その他の行為」をしたときに逮捕できるとされる。つまり犯罪を犯す前の準備段階で逮捕できるというわけだ。
 今国会で強行採決される可能性が高いと言われていたが、採決予定日にほかの法案を優先したい小泉純一郎首相の指示によって採決取りやめ。とりあえず今国会で成立は難しくなったと報じられている。

 この法律は近年にないヤバイ代物だ。ここ数年、うさんくさい法律がいくつも成立した。個人情報保護法や盗聴法などはその代表だろう。そんな法律でさえ、なるべく「凶暴」に見えないよう化粧をほどこし、成立してから本性を現すような「工夫」がされていた。それが、この共謀罪にいたっては牙むき出し! 
 
 一番驚いたのは、与党が野党側との法案修正協議で「対象犯罪を国際的なものに限るべき」という主張を一切にはねつけたことだ。もともと、この法律は119ヵ国が締結した国際組織犯罪防止条約の批准に必要だという説明だった。まあ、国際テロ組織なんかがテロを計画したら、みんなでとっつかまえましょうって条約だ。
 この説明が本当なら「国際犯罪」だけを対象にしても何ら問題ないはずである。しかも与党は法案成立に向け、民主党の修正にたびたび応じてきたのだ。適応対象が「団体」から「組織的犯罪集団」に変えたり、処罰に必要な行為として政府案では共謀だけだったに再修正案では共謀以外に「犯罪の実行に必要な準備その他の行為」が加わった。つまり誰にでも網をかぶせられる法案を少しだけ「自己規制」したわけだ。
 ところが「国際犯罪」に限る修正だけは頑としてはねつけ、強行採決に突入しようとしていた。法務省幹部が「テロに見舞われた気分」(『朝日新聞』2006年5月20日)と評した小泉首相の「気まぐれ」がなければ、そのまま法案は成立していたはずだ。

 で、法務省はいったい何を取り締まりたいのか? 報道では市民運動や労働組合が危ないと報じられているが、実際にはもっと広範囲な団体ではなかろうか。

 4月30日、DJが音楽をかけてデモする「サウンドデモ」がいきなり摘発され、DJの家宅捜索まで行った。サウンドデモだと警察にも届け、警察の指示に従ってDJの人数を減らしたのに、である。逮捕された人物は政治団体に所属もしていなければ、逮捕歴もないという。デモで訴えた内容も「フリーターのためのメーデーを」というユルイもの。「○○法案撤廃!」なんて看板を持って歩いたわけでもない。

 労組や市民運動団体の集める人数は警察も長年の経験で把握している。そうした団体の力を削ぐことに「努力」し、それなりに「成果」もあげてきた。しかしネット上で集合がかかり、誰が代表かも分からないまま人が集まる状況は警察にとって労組より恐ろしいのではないか。

 逮捕された後に待つのは言わずと知れた暗黒司法。起訴されれば、ほぼ100%有罪。ちなみにエボラ・ウィルスの致死率より、名門附属中学の系列大学への進学よりも高い有罪率である。
 想像してほしい。幼稚舎から慶應大学に進学するより、村人がエボラ・ウィルスによって血を吐いてバタバタ倒れ始めた土地から生還するより、有罪の確率が高いのだ。もう、誤認逮捕が無罪なる確率に比べたら、スキルスのガンが治る確率はビックリするほど高い。

 そう、つまり私たちはけっこう追いつめられている。相談だけで逮捕されると法律と、確実に有罪にする裁判って……。どこかの思想統制を笑ってなんかいられない。

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2006年5月25日 (木)

村上の時間 阪神の時間

アロワナ、ハイギョ、シーラカンスといった魚類の生態を調べていると「進化しないという進化」があるのだとつくづく感心する。武田信玄の「風林火山」の「山」しかない。一芸の取得やマイナーチェンジぐらいはするのだが根本的な進化はない。それが強みになって生き残るのである。
もっとも大半の生物はそんなようでは絶滅する。さまざまな要因が重なって起きる奇跡といえよう。

タイトルはむろん「ゾウの時間 ネズミの時間」をもじっている。村上某の村上ファンドが阪神電気鉄道株を約3割から4割買い占めていたと相次いでわかったのは05年9月末から10月上旬にかけて。それから8ヶ月たった本稿執筆時点の06年5月末に至っても決着がついていない。「物言う村上某」は阪神の資産をはき出させることも株の売り抜けもできないままだ。そろそろ某へ投資したガリガリ亡者の心にもさざ波が立っていよう。
買い占め判明から今日まで阪神がしたことはまさに「山」であった。何週間とか、よくて2・3ヶ月の時間を生きる某と1899年の創立以来、目立った進化を何一つしないまま100年以上の社歴を重ねた「不動の経営」に流れる時間はまったく違っていたというわけだ。

その「動かざること山の如し」経営を傘下の阪神タイガースで見てみよう。タイガースは甲子園阪神パークという遊園地に隣接した甲子園球場をホームとした戦前からの職業野球チームだ。鉄道が旅客誘致施設として遊園地と球団を持つというのは阪急の小林一三が1911年に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)と阪急職業野球団(35年)を設立したのを嚆矢とする古いビジネスモデルである。同じように関西では南海がさやま遊園とホークス、近鉄が玉手山遊園地・あやめ池遊園地とバファローズを経営した。
何しろ20世紀初頭のモデルであるから今を生きている方がおかしい。現に阪神以外の球団はすべて他企業に譲渡ないしは合併で消滅、遊園地に至っては全滅である。
ところがタイガースだけは冒頭の魚類のように生き残る。どころか今や日本一の人気球団である。古いビジネスモデルが元気いっぱいなのだ。

なぜか。通常考えられるのは親会社の阪神電鉄が他の親会社と比較にならないほど努力した結果との答えだが現実はまったく違う。むしろ「他の親会社と比較にならないほど努力」しなかったというのが実態だ。ために長い低迷を味わった。
その低迷が今日の人気の秘訣というのだからすごい。電鉄が走る関西の元は労働者が多く住んでいた地帯と東京の山の手イメージの強い読売球団との対比が鮮烈で巨人阪神戦は関東と関西、資本家と労働者の対決の縮図となった。
この縮図は「結局は負ける」でいいのであるから低迷でも阪神ファンは離れない。むしろそれで安心するのである。勝てばそれに越したことはないから大いに喜ぶ。喜びつつも「こんな風に勝ち続けるはずがない」と確信を持っている、心理学でいう「期待不安」の状態だからダメ虎に舞い戻っても大丈夫。かくして村上某が信じる経済合理性とは別世界を築きあげる。
今日の好調も野村克也・星野仙一といった名監督を外部から招くという「他の親会社」ならば通常の「努力」を何もしないはずの親会社がしたから、通常ではありえないほどの衝撃を選手に与えた結果であろう。

村上某による電鉄株買収でも進化を求めない「不動の経営」が遺憾なく発揮されている。そもそも東証1部上場企業ともあろうものが株式の3割・4割を買い占められていることに気づかなかったというのがすごい。
私は零細企業経営者だから偉そうなことは言わぬつもりだが、その私でさえ阪神の経営者だったら事前に気づくとの確信がある。これが大口を叩いているのではなく謙遜しても謙遜しても確信が持てるからすごさが際立つのである。
そんな経営者だから村上某に手もなくひねられると予想していた。事実私が経営者だったらあらゆる可能性を吟味して先手を打とうと策を練る。それを某も待っていたに違いない。相手が策を弄せば、それを上回る一撃を食らわせて手仕舞おうと手ぐすね引いていたはずだ。
だが、ここからまたすごい点だが電鉄経営陣は無策に徹した。ヤドカリのようにカラにこもってしまったのである。某が堪らず攻勢を仕掛けてもナシのつぶて。
だが一芸はあるのが「進化しないという進化」の怖ろしさである。06年4月13日の記者発表資料「一部報道について」までは否定とも取れるリリースを出しておきながら28日に阪急ホールディングスとの関係強化を発表してしまった。一部報道によると阪急との経営統合は村上某社の提案だったという。身動き取れなくなるまで閉じこもり埒が明かなくなると敵の提案を自分の提案のようにして逆襲する。
す・・・・すごすぎる。ここまで本稿は「すごい」の連発だ。どうしていいかわからず何の逆襲もできないのを普通は無能と呼ぶが、この戦法は無能ゆえの逆襲だ。変な言葉使いになったが他に表現のしようがない。

このままいくと大変なことになる。阪急は阪神電鉄とは比較にならぬほどの凄腕だから某のボロもうけになるようなTOB価格に容易には応じるまい。となると某は阪神電鉄の株主総会で・・・・何と実業家になってしまう。それこそ某の最も恐れるシナリオのはずだ。ファンドとは虚業である。某は虚業家でこそ力を発揮する。「物言う株主」であればこその某なのに物を言われる経営者になってどうする。
こんな戦い方を私は知らない。経営権という玉座を指さして「嫌だったらどうぞ」と脅す?経営者が後にも先にもいたであろうか。しかもその脅しが効果的だから驚く。

・・・・なんて私は阪神電鉄の経営陣をほめたのであろうか。けなしたのか。やっぱりけなしたかなあ。某が公共性の高い企業の経営権を握るとする。横井英樹がホテルニュージャパンの経営者になったに似る。その結果どうなったか。たしかに横井は断罪されたが企業も信用を失墜した。阪神電鉄が同じ轍を踏んだら元も子もない。

ただそれでもなおハッキリしていることが1つ。何がどうなろうがタイガースファンは離れぬという点だ。ここは敬服する。最近はめっきり興味を失った巨人ファンの一人として心から頭を下げる。あなた方は良心である。(編集長)

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2006年5月24日 (水)

「部下が分かららねぇ~」と思った上司たちへ

Photo_15 『他人を見下す若者たち』(速水敏彦/講談社現代新書)が売れているようだ。つまり何だか理解できない人種が威張ってる。その理由を探りたい人が増えているってことだろう。
 ここで説明されている「若者たち」とは、やる気がなく、すぐにキレて怒り、根拠のない有能感で他人を軽視する人たちである。著者は教育心理学が専門の大学教授なので、データを元にこのような若者がいることを説明し続ける。

 で、それだけなのだ!

 なぜ彼らのような人格が多くなってきたのかは解明されない。どうやらそんな若者が多いらしい、と警鐘を鳴らしたところで終了! 「なんか不気味な若いのが増えている。どんな性格なんだ」と疑問に感じている人なら眼からウロコだろうが、「なんでコイツらは根拠のない自信で威張ってるんだ」と思っている人は欲求不満の書籍だ。読み終わった途端、「知ってるよ。いるのは!」とキレかねない。
 ただ本書は重要なことを1つだけ教えてくれる。それは世の中に理解できない若者がいるという事実だ。

_  こうした事実を再確認したら次に読んでもらいたいのが、既婚女性の恋愛をルポした拙書『妻の恋』(アストラ)だ(ハイ! 宣伝です!! 悪いか!?)。
 さまざまなタイプの計12人の不倫話を掲載しているが、男性読者なら妻が浮気してないのか不安に思えてくるはずだ。
 正直、取材した私自身、彼女たちの心理が正確にはつかめなかった。ただ、取材した女性の多くは良き母であり、良き妻であった。彼女たちの不倫を夫が見抜くのは容易ではないだろう。ウソもうまいし、何より男の操縦術に長けている。私の婚期がさらに遠ざかった取材だったと思う……。

 ライターになって12年以上たったが、これほど取材対象者に主導権を握られたことはないように思う。頭の回転がすこぶる速い官僚より、狂暴なゲリラより、口のうまい詐欺師より、はるかにウワテだった。濃厚な不倫シーンを語られた後、「じゃあ、カップル喫茶でも行ってみる」などとからかわれ本気で動揺していたのだから。30男が赤くなって笑われた。あの取材以来、心理的な駆け引きで女性に勝てる気がしなくなった。正直、トラウマです……。

 さて、この2冊を読み終わり、妻の不倫なんぞを一通り疑ってみると、1つの実感がわく。他人なんて分からないんだってことを。若者だろうと、女性だろうと、親しかろうと、家族だろうと、人間なんてよく分からん。そんなあきらめが心を支配するようになると、あら不思議、部下に怒る必要もなくなる。小社のように個人個人が変わり者過ぎて互いに絶対理解できない、と入社した途端に分かるような職場環境の人以外にお勧めである。

Photo_16  で、これじゃあ、人間寂しすぎるよという方には『バッテリー』(あさのあつこ・角川文庫)でもどうぞ。
 中学生の天才ピッチャーとバッテリーを組むキャッチャーの友情を描いた作品だ。大人には分かりにくい行動の裏にある繊細な心情が丁寧につづられている。「分かりにくくても、人って理解しあえるのね」という幻想を読んでる間は保てる。

※注意 バッテリーだけ読んで部下を理解しようとするのは危険です!(大畑)

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2006年5月23日 (火)

日本の検察取り調べはスタートレックファンもビックリ

「あなたが準備することは何もありません。ご主人の判決は、既に有罪と決まっているのです。裁判では有罪に至った過程が公開されるだけです。カーデシアの犯罪捜査システムは、宇宙域一ですから。お望みなら、傍聴することもできますよ(後略)」

スタートレックDS9の45話「疑惑の法廷」で出てくるセリフだ。「ご主人」とは地球人も属する惑星連邦の1人でカーデシアとは惑星連邦と対立する種族とされる。冒頭は地球人がカーデシア人に拘束された場面でカーデシア執政官が地球人の妻に述べた言葉である〔“Star Trek -USS Kyushu”(http://www.usskyushu.com/)より引用。引用個所の詳細はhttp://www.usskyushu.com/ds9/45.htmlに掲載されている〕。なお原題はTribunalつまり「裁判所」だ。
要するにカーデシアでは身柄拘束の時点で有罪判決は決まったも同然で「裁判では有罪に至った過程が公開されるだけ」だ。何という暗黒裁判・・・・という意味で私がたまたま見たテレビの画面を覚えていたわけではない。私はトレッキーではないので。印象に残った理由はズバリ日本の裁判制度をまざまざとさせたからだ。

まったく同じとまではいうまい。警察が身柄拘束後に「検察に送らない」判断をしたり検察が取り調べ後に「起訴しない」とする場合があるから。だが起訴されたらカーデシアとほとんど変わらない有罪率が待っている。日本の「犯罪捜査システムは、宇宙域一ですから」ね。

09年に導入予定の裁判員制度に合わせて最高検が決めた検察官の取り調べ段階を映像と音声で記録する「試み」が「一部」で始まることになった。
片方だけ待ったを100回許される将棋のルールを改正して「待ったは90回」としたら、これを改善と呼ぶのか。私は呼ばない。むしろ暗闇を暗闇と暗闇の主催者が認めたような行為である。
今回の試行は「一部の重大犯罪」に限って「自白の任意性が裁判で問題になりそうだと検察官がとらえた場合のみ」「いつ、どこを映像と音声で記録するのは検察側の判断で」行われるという。かぎカッコの部分が「待った」に当たる。スタートレックの脚本家陣に教えてやりたいような掟である。
これでも最高検にしては隠密裏に運んだ末のスーパープレーというのだから頭が痛くなる。

まず重大事件に限るとした理由がおかしい。裁判員が投入される事案だからという以外の何ものでもあるまい。微罪になればなるほど起訴独占主義下の検察官の判断は重要になる。「起訴しない」か「起訴=有罪」かの分かれ道だから。
経済事犯の場合は物証もなく自白によってのみ成立する案件が多い。従犯の場合は「認めたら起訴しないよ」とほのめかされれば白も黒と歌ってしまう。その結果が「起訴しない」だと裁判で争うことさえない。そのくせ調書は主犯の裁判の証拠に採用されよう。他の犯罪でも詐欺罪のように欺罔のあるなしは自白で補うのが効果的な場合はどうなるのか。

次に「自白の任意性が裁判で問題になりそう」な場合とは何かだ。重大事件で物証や目撃証拠が字義通りの「動かぬ証拠」になる事案では「自白の任意性」云々は大した問題ではない。多数いる街中で柳葉包丁を振り回して人を殺傷して現行犯逮捕されて包丁が押収されたといった例だ。
ということは「自白の任意性が」問われるのは街中で柳葉包丁を・・・・のような明白さに欠ける事件であろう。言い換えれば自白にかなりを頼らざるを得ない場合だ。ということは何とか自白を引き出したい場合ともいえる。ということは・・・・と「ということは」ばかりで御免なさいだが引き出そうと強引ないしは巧みに被疑者に迫って歌わせた場面となる。結論としてこの言葉は「自白が重要な事件で任意性が疑われる取り調べをした場合」とイコールとなる。
そんなものは撮影しないに決まっている。現に「いつ、どこを」「記録するのは検察側の判断」だからね。散々脅かして震え上がらせたまでは写さずに、その後の優しいダメ押しの声と被疑者の歌だけをトリミングしようよ。トリミングは秋霜烈日が持つ伝統芸だから訳もあるまい。
自白の決定版である秘密の暴露もあらかじめ仕込んでおいた「犯人しか知り得ない情報」を、つまり実は検察も犯人も知っていた情報をほのめかし、被疑者に反復させて秘密の暴露できあがりの図を「記録するのは検察側の判断」では崩せない。

そんなに信用できないのか。検察への侮辱だとの反論もあろう。だがそうはならない。本当に秋霜烈日が誇り高いならば何もかも映像と音声に残しても不都合ゼロのはずだ。撮影が被疑者を萎縮させるというならば弁護士を同席させればいい。何でそうしないの?
これがグローバルスタンダードだというならばトーンも落とすが一般に先進国とされる国々で映像と音声の撮影は当たり前だから引くわけにはいかない。あえて検察を擁護するとすれば無謬性の幻影に過度にこだわる必要はないという点だ。何もかもさらけ出した方が案外と痛くもない腹を探られるより楽になれるのではないか。

警察に適用されない件は多くの識者が述べているので「言語道断である」と書くに止める。その上で、さまざまな被疑者のあらゆる供述調書が、まるで同一人物がしゃべっているようにそっくりな記載・文体で粛々と書かれているのはなぜか、との問題提起だけはしておきたい。(編集長)

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2006年5月22日 (月)

駅名がおかしい!? 『向ヶ丘遊園』編

小田急電鉄が経営していた向ヶ丘遊園が閉園したのは2002年。1927年の小田急線開通と同時に開園し、ピークの90年には実に95万人が訪れたが、そのご来園者は減少し続け、とうとう75年の歴史にピリオドが打たれた。
今から4年も前に閉園したにもかかわらず「向ヶ丘遊園」の駅名は依然そのままだ。遊園がなくなったのに、いまだにその名前が使われ続けるってどうなんだろう。
閉園後、観覧車やプールなどの各種施設はきれいに整理されてしまったが、遊園内の「ばら苑」だけはそのまま残された。Bara
ばら苑には世界中から533種、4700株のバラが集められており、1年に2度、5月と11月に一般開放される。21日に訪れたが、好天に恵まれてかなりの人が訪れていた。ばら苑園長の斎藤さんはものすごく忙しそうだった。
「今日はほんとに朝から問い合わせの電話が鳴りっぱなし。遊園がなくなってからも毎年この盛況ぶりは続いてますよ」。そう言う横でまた電話が鳴る。この日の来園は6000人を超えるという。
遊園は小田急電鉄の経営だったが、ばら苑は市民の「残してほしい」との声から川崎市が管理することになり、今では200人のボランティアが運営の手伝いをしている。
「向ヶ丘遊園」という駅名がそのまま残されていることについてどう思うかを斎藤さんにたずねた。
「いや、特に違和感はないですよ。歴史が浅いならまだしも、ずうっと使われてきた名前ですからね」
これだけ盛況なら「ばら苑」という駅名でもいいのではないかとも思ったが、「愛着があるんですよ。ずっと残してほしいんです」と言う様子からも、駅名の変更は望まれていないようだった。

向ヶ丘遊園の跡地は今後どうなるのだろうか? 実はこんな計画が進みつつある。藤子・F・不二雄の原画類などを置く展示館の建設だ。川崎市は藤子氏夫妻が長年住んだ場所だ。2010年までにオープンすることが見込まれているこの施設には、原画類の他に机や仕事道具などが展示される。
そして、藤子プロはこの施設の名称を公募する予定だという。
施設の名前を公募するんだから、ついでに新しい駅の名前も公募してもいいんじゃないのか? いや、むしろ駅名を先にどうにかすると言うべきか。それでも、ばら苑に来ていた地元のご婦人は「いや、『向ヶ丘遊園』の名前は変えてほしくない。このまま残してほしいんです。わたしが子どものころからずうっとこの名前だったんですから」と譲らない。
思っていたよりはるかに「向ヶ丘遊園」の定着度は高かった。でも、これから何十年も駅名の変更がなければ、地元の若者たちが「ところでウチらの駅名の向ヶ丘ユーエンってナニ?」と言い合う時代が来るのは必至なのだ。果たしてこれでいいのか住民さん!
どうでしょうか? 展示館も駅の名前も「ドラえもん園」で統一してみては。で、駅の出口が「ドラえ門」とかで。(宮崎)

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2006年5月20日 (土)

GWの過ごし方

 皆様楽しいGWを過ごしましたでしょうか?

 当方毎日が休日のような怠惰な学生なので大して変わった生活はしていないのですが、休みと聞くと何だか嬉しくなってしまうものですね。

 天候にも恵まれたし友人と散歩にも出かけてきました。

 出かけたのは近くの公園だったのですが、その公園には子供が泥まみれで遊べる広場があります。

 その広場に聳え立つ木のタワーには「ハイリスク ハイリターン」の文字が!(写真参照)

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 こんな子供のうちからそんなばくち打ちみたいな感覚持たなくても・・・と思ってしまいましたよ。

 私もここで遊んで育っているのでその素質はあるのかなぁ(いや、ないな・・・)

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2006年5月19日 (金)

看護師さん(クリーム色のナース服&赤い聴診器着用)の職場環境を守れ

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 私的な話で申し訳ないが、20年ほど前クリーム色のナース服を見て感動した。研修中の看護師がクリーム色だと聞き、「本当のひよこちゃんだ~」とガン研を飛び跳ねてもいた。コスプレに興味はないが、この体験が影響したのか黄色のナース服と赤い聴診器の組み合わせは、いまだにツボだ。おかげで医療関係の女性と知り合いになるたび「クリーム色のナース服で赤い聴診器を下げてくれたらウマイ飯ご馳走する」と言い寄り、あちこちで気味悪がられている。

 何でこんな話を書いたのかといえば、4月からの診療報酬改定により看護師不足に拍車が掛かっていると報じられたからだ。今回、看護師1人の受け持つ入院患者数が15人を超えると採算が取れない報酬に変更されたという。おかげで看護師の引き抜き合戦が起こり、しまいには看護師が足りず、病棟を閉鎖している病院もあるというから驚いた。

 この改革によって条件の良い病院に移籍するナースが増えたのは、クリーム色のナース服の味方である僕にとっても嬉しい。

 改めて言うまでもないかもしれないが看護師は本当に大変なのだ。病院には夜勤もあるし、何より生死に携わる緊張感に絶えずさらされる。
 15年ほど前だろうか、看護師の友人から「某病院の看護師から覚せい剤が流出している」という噂を聞いた。本当かどうかは分からない。ただ、看護師が眠気と闘うために覚せい剤を打っていたことがクスリ売買の発端だったという話に、多くの看護師が頷いていたという。ヤク打ってでも仕事しなくちゃいけない。覚せい剤は別にしても、そんな追いつめられた状況で仕事をしている看護師はやはり多かったのだろう。

 実際、この看護師さんは肝炎患者に使った注射針の保管問題に巻き込まれて忙しくなり、僕との連絡も途絶えてしまった(彼女が本当に忙しかったのかについては、一切考えないようにしている! 友人からの放たれたこの手の質問にも僕は一度も答えていないのだ!!)。
 しかも看護師の給料は仕事内容を考えると安い。2001年に厚生労働省がまとめた「賃金構造基本統計調査」によれば、15年以上働いた看護師の平均給与が33万4000円。これが男性の薬剤師や臨床検査技師なら40万円を超えるのに。ちなみに15年以上働いた医師は116万1400円だぜ! なんと3倍以上の格差。

 さらにさらに最近では看護師が業務上過失致死に問われる事件も多くなってきた。もちろん医療事故をヤミからヤミへと葬ろうとしてきたこれまでの病院のあり方は問題だ。しかし体力・気力ともギリギリまで追いつめる職場環境で働かされ、一瞬のミスで刑事被告人となり、ヘタをすると病院側の責任まで負わされるなんて、やってられる? 金融系のバイヤーのように若いうちに大きく稼いでセミリタイアできるなら、そんな環境で働く手もあるかとは思うが……。
 
 しかも看護師を雇う立場にある病院が大赤字ときている。特に地方自治体の病院なんて、ほとんどがまっかっかなのだ。現在、政府は老人から医療費を分捕ろうと画策しているが、その程度の改革では追いつくまい。となると今回の診療報酬改定で得た看護師の労働環境が持続できるか疑問だ。ある程度、病院が淘汰されたら元の木阿弥かも。

 今後、病院経営に市場原理を働かせるような改革が進めば、トヨタ式病院なんのもできるかもしれない。救急車の入り時間が決まっていて、「ジャストインタイム」じゃないと急患看なかったらどうしよう~。5秒で1人注射針を刺す訓練を看護師が受けているとかね……。

 病院ぐらいは安い値段で通いたい。またクリーム色ナース好きとして、看護師さんには余裕を持って働いてもらいたい。無駄遣いさえなければ、病院に税金が使われていても文句を言う気も起こらないし。

 まあ簡単にまとめると、迷走する医療改革でつかの間看護師さんの待遇が良くなっても、その反動が怖いと。そんな看護師イジメは許さんと。そんな感じですな。
 僕が許さなくても、自公の議員は関係ないのだが。とりあえず人形にデモ行進させといたよ!(大畑)

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2006年5月18日 (木)

5月病をぶっ飛ばせ! ウツウツを振り払うブックガイド

『きょうの猫村さん』で和むことはできるが、これからの季節に必要なのはなんてったって「元気」だ。
Hon まずは『本の雑誌血風録』(椎名誠・新潮文庫)。椎名が編集長だったあの型破りな『本の雑誌』誕生の様子を描いた文字通りの血風録。読書狂・目黒考二のほとんど個人的な読書レポートとして始まった『メグロ・ジャーナル』が、椎名やその仲間と共に雑誌として成長していく過程を生々しく描いている。『本の雑誌』創刊は1976年。出版が舞台の話なので、その頃の出版事情を知る手がかりとしても読める。1973年のオイルショックで紙が値上がりし、ハードカバー本が一気に高騰した時代的エピソードなども随所に。
手書きの誌面から活字組みされた紙面へ変わる。売り込みにいった書店にはじめて雑誌を置いてもらう。謝礼はカツドンのみという学生のアルバイトを雇って書店に届ける原始的、かつたくましい配本制度の開始。
「『本の雑誌』十号はエイヤッと一万部刷った。初めての一万部だったが、売れ行きはよかった。」
わずか20部足らずの『メグロ・ジャーナル』が荒々しく成長する様と椎名の昭和軽薄体が濃密に絡み合い、出版界に興味がなくとも一度読み出したら手放せない引力を持つ一冊。

To 太宰なのだ。『人間失格』『晩年』のイメージが強烈ゆえ、その他の作品も陰鬱なトーンであると、特に若い人たちにはそういう太宰像がすりこまれているかもしれない。しかしここで言わせていただきたい。『お伽草紙』を読んでから太宰を語れ、と。
「こぶとりじいさん」「浦島太郎」「かちかち山」「舌切りスズメ」という古典的な題材の4作品を太宰流に大胆にアレンジしたものが本書。「あ、鳴った。」という書き出しは印象的。
「こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。」
4つの話に入る前に、この作品が防空壕の中で、父親から子に聞かせるという設定であることを示している。しかし、子どもに聞かせるにはいささか奥が深く、含蓄に富んだ内容になっている。
『浦島太郎』を題材とした『浦島さん』では、竜宮の亀と浦島太郎の会話がおもしろい。
「なんだ、お前。こないだ助けてやった亀ではないか。(中略)また子供たちに見つかったら、どうする。こんどは、生きては帰られまい。」
「気取っていやがる。また捕まえられたら、また若旦那に買ってもらうつもりさ。心意気を買ってくんな。」
もちろん本当の面白さは、おとぎ話では語られなかった最も核心の部分に太宰が切り込んでいるところにある。どうして、竜宮の姫は開けてはいけない玉手箱など浦島に渡したのか。この部分に切り込んでいるのだ。
この至上のパロディに込められた想像力が、そして不気味なほどアッケラカンとして明るい太宰の語り口が、私たちに新しいドアを与えてくれるのである。(宮崎)

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2006年5月17日 (水)

新聞の特殊指定反対への疑問

公正取引委員会(公取)が新聞の特殊指定を廃止するかもしれない・・・・というので新聞各社は大騒ぎ。再販売価格維持制度(再販)と特殊指定が一体になってこそ文字文化や知る権利が守られるというのが反対の大意である。再販に関してはわが出版界にも多大な影響があるので無視できない。

その是非を論じる前に一言。特殊指定は公取の告示だから政治家に働きかけてつぶそうという行為はみっともない。権力にすり寄ってもみ消してもらった結果としての「知る権利」とは何ほどのものか。本気でそう信じているならば毎日毎日1面から終面まで「特殊指定廃止反対」を書き続ければいい。そうしないのは後ろめたいからでしょ?
個人情報保護法の時も除外対象に「新聞」と明記された途端に腰砕けになった醜態を明記してもらえなかった出版界は忘れない。

私は「一体」論に疑問を持っている。再販とは簡単にいえばメーカー(出版社)の決めた定価で小売り(書店)は売らなければならない制度だ。新聞の場合は新聞社の指定した定価で新聞販売店やキオスクなどは売らなければならないとなる。
出版の場合、再販と「一体」になっているのは委託販売制度だ。定価売りを小売りに義務づける代わりに商品は原則として卸すのではなく貸すだけ(委託)となる。だから小売り(書店)は在庫リスクを返品という形でメーカーに負わせられる。そのリスクの見返りが出版における再販なのだ。
なぜこんな面倒な形態かというと委託ゆえに全国の書店は小社のような零細版元の本も置いてくれるからだ。もし再販がなければ小社はアッという間に淘汰される危険性99.9%、大化けする可能性0.01%という究極の選択を迫られよう。結果として多様な視点からの出版物が書店に並ばなくなる。
だから大版元だけが生き残るとも限らない。通常の卸と小売りの関係になれば雑誌・単行本合わせて3兆円弱という小さな市場である出版界は別の業界の大資本に駆逐されかねない。やろうと思えば「トヨタ出版」以外の出版社はすべて消えてなくなるという可能性さえあるのだ。その意味で出版再販は文字文化や知る権利を守る役割があるといえよう。ブックオフなどのあだ花は生み出したが・・・・

ひるがえって新聞はどうか。大新聞は専売の新聞販売店を販売拠点としている。つまり1種類の版元の本しか扱わない書店と同じだ。したがって再販と委託販売といった出版のような関係ではない。大新聞からの命令は放射状に専売店に及ぶ。

だから再販といっても新聞と出版は大きく異なる。書店の棚獲得にしのぎを削る版元各社は少しでも読者を獲得しようと定価に存分の工夫と我慢をこらす。書店内の本の並びの裏には実はそうした激しい版元の読み合いがある。だが新聞にはスタンド売りで勝負する夕刊紙などを除いてそうした争いに無縁である。特殊指定のお陰だ。

公取は因果関係を認めていないが私も特殊指定を廃止すれば専売店の生命線である宅配制度はピンチに陥ると思う。だから反対・・・・という気になれない。書店で棚の取り合いをして「涙が出るぜ」みたいな気持ちで定価をつけているのに全国津々浦々から小社めがけて返品攻撃を受けている身からすると宅配制度が守れないと文字文化や知る権利が損なわれるという主張は甘えに聞こえる。
まず宅配が文字文化や知る権利を支えているのか疑問である。今時宅配のお陰で朝起きて朝食の際に朝刊を広げるという習慣が多数あるのだろうか。「早寝・早起き・朝ご飯」が推奨されている時代だよ(オレはしつこいんだ)。それがないのならばスタンド売りだけで構わないはずだ。要するに宅配は惰性で存在する因習となる。
次に特殊指定が廃止されて数紙から選べる現在の状況が一変し、読者の新聞選択権が損なわれるという新聞側の主張は正しいか。仮に取れなくなる新聞があるとしよう。それで何だ。多数の新聞を併読しているのは新聞記者や広報など職業上の理由の人達だけだ。
朝毎読以外は国内記事を共同・時事の配信という援軍・・・・というより4番バッターに支えてもらっている。産経やブロック紙や県紙のメーンは共同。皆共同の記事を読んでいるのだ。選択権も何もあるまい。
では朝毎読に大きな違いがあるかというと多少の抜き抜かれ以外は記者クラブ記事と広告で埋まっている。仮に抜かれがあっても夕刊や朝刊で追っかけてくるから読者に大きな打撃はない。

つまり新聞社自身が文字文化や知る権利を擁護すべき努力を怠っている。宅配制度はそれを覆い隠す便利な制度である。だいたいどう考えても、いかな過疎地でも朝読か地元で暴風雨のような威力を発揮する地方紙は残ろう。その姿は現在とどれほど違うのか。
さらにいえば暴風雨地方紙の登場は1941年公布の新聞事業令が1県1紙の原則で新聞社の統合を進めた結果だ。悪名高き1940年体制の残滓でもある。

再販の上に特殊指定がないと困るという本心は「地域や読者によって異なる定価をつけたり値引きできない」という指定が消えると新聞購読料の安売り合戦が起こるのを心配しているのだろう。でも現状の「各紙似たような値段。同じ日の新聞休刊日。記者クラブ」などこそカルテルと疑われても仕方がない状態なのだ。つまり排除の論理は公取がもたらす以前に自身が働かせている。
カルテルに吠えない公取など無用の番犬であるのは論を待たない。このような旧態依然とした姿勢を改めなければ読者は新聞の言い分を支持しない。朝読の記者などは「一体」のお陰で高禄を食んでいると。だが実際には朝読でさえ目が回るほど働いている。だから高禄は当然だと。それもまた旧態依然の発想なのだ。
アメリカで見られるように発表モノを書く記者は別枠で採用して給与を下げて、その分を調査報道主体の記者の増員に充てるなどの工夫をすればいい。連日連夕各紙を併読しなければ世の中から置いていかれると読者が焦るほど各社の紙面充実があれば公取に吠えられることすらなかったであろうに。・・・・なんてね。記者の皆様はそんなことを百も承知でいらっしゃるから困るのだ。(編集長)

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2006年5月16日 (火)

今度は食育!勘弁してよ

今度は食育だそうな。「早寝・早起き・朝ご飯」を全国規模で展開するんだってさ。既に野菜を食べろキャンペーンはずっと前から浸透している。喫煙に至っては今や犯罪者も同然と思っていたら遂に保険対象となってしまった。つまり喫煙者は病人なのだ。

冗談ではない!

「早寝・早起き・朝ご飯」を提唱する教育者や学者は根拠と実績を持って推進している。そのこと自体を否定する気はない。多様な意見は民主主義の基本であるからだ。私がいいたいのは新奇の説が出てくると一本かぶりで「それっきゃない」と他の好みを排除する気風である。
小泉純一郎首相が国民全体に拡大した最悪のロジックだ。人間に「それっきゃない」はないのである。認めるとしたらファシズムだ。だから私は小泉という時代を最悪とみなし小泉首相を最低と位置づけてはばからぬのである。

私のような職種で「早寝・早起き・朝ご飯」をやっていては死ぬ。文字通り物理的に死ぬ。編集者が勝手に早起きしてもすることはない。早寝したら仕事にならない。朝ご飯どころか1日中何も食べられない場合も多々ある。たいがいは「遅寝・早起き・飯任意」である。本当は「遅起き」が理想だが私の場合は経営の部分で早起きが必要である場合があるのでこうなる。よりポピュラーな姿は「ほとんど寝ずに飯任意」だ。
医師はいつも「十分な休養と栄養」を勧めるが、それができれば医者は要らぬといったは西園寺公望でありまったくもって正しい。それと同様で「早寝・早起き・朝ご飯」が仮に理想だとしても現実的に無理は無理である。
「早寝・早起き・朝ご飯」でないと脳の活動が鈍るというのも信じがたい。私は少なくとも早寝は義務教育時分からしていなかったし朝ご飯よりも一秒でも遅寝していたかった。高校生になる頃は「遅寝・遅起き」が定番となり学校に通うのが一大事であり続けた。
だからバカになったとは思わない。浴びるほど本は読んだし、触れられる限りの美術品には触れた。朝ご飯を食う時間があったら本を読んだ方が利口になるに決まっている。社会人になって以来「早寝・早起き・朝ご飯」など1日もなかったが有権者の5割いる小泉内閣支持のバカ者よりは依然として利口である。早寝するよりは徹夜で調べ物をした方が、これまた利口になるに決まっている。
体力の続く限り知的好奇心を燃やすよりさっさと寝て朝飯食った方が脳が活性化するとは到底思えない。

私は青虫ではないのだから葉っぱを食って満足するわけがない。高度成長期に幼少期を過ごした者は大金持ちを除いて皆が「肉の前には野菜などゴミ同然」だったはずだ。だから私は葉っぱなぞ目もくれない。それで大病したことは一度もない。むろん明日コロッと逝くかもしれぬが43年入院すること一度もなく生きてきたのだから肉至上でおおむねよかったのである。
肉が御法度に近かった江戸時代の平均寿命は50歳に届かず。昭和の戦後になって「肉の前には野菜などゴミ同然」となってから日本は世界一の長寿国となった。意味するは明白である。葉っぱを食って健康志向のつもりで早死にしたけれりゃどうぞ。

煙草についてはもう書き飽きたので書かない。ただし今のような風潮が強まれば強まるほど私は禁煙はしない。もっと白い目で見よ。その目が差別の目だ。石原某や小泉某が持っている魔王の目つきだ。私は決してそうはならない。人間の尊厳を賭けて拒否する。
もちろん嫌煙者の権利は最大限尊重する。禁煙ゾーンでは吸わないし間違っても人に煙を吹きかけたりはしない。考え方の異なる人の存在自体は尊重する。これは民主主義の基本だ。嫌煙者にもそれがあれば許すし傍若無人な喫煙は私とて許さない。人らしいとはそうした態度ではないのか。

仮に知的な後退があるとすれば食育がどうとかの問題ではなく多様な意見をぶつけ合う環境そのものが消えているせいだ。多様な植生は何も環境保護だけの問題ではない。ありとあらゆる植物を伐採してスギだけを植えれば花粉症を引き起こすのみである。
「それっきゃない」ムード自体が世の中から面白味や励みや好奇心や闘争心を奪うのである。「それっきゃない」と偉いさんが吠えるとそれ一色になる。モノトーンはつまらない。つまらないものは萎える。萎えれば勉強する気もなくなる。霜降り牛肉と葉っぱでは元気の出方が違う。
精神的モノカルチャーこそ学力低下というか意欲低下の最大の原因ではないか。意識もうろうの子どもをたたき起こして葉っぱの朝食を無理強いし思索と創作と読書に最適な夜の時間を死んでいるのと状況が同じ睡眠に誘い込んで学力アップだって!少なくとも我が輩の世代の親はそんなバカはしなかった。(編集長)

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2006年5月15日 (月)

31アイスクリーム ~店舗拡大に至るまで~

Ice 世界最大のアイスクリーム・チェーン、バスキン・ロビンスアイスクリームカンパニーと不二家の合弁事業として1973年に設立したビー・アールジャパン。
1985年には「31アイスクリーム」のブランド名を立ち上げた。86年の時点で国内店舗数は300店だった。
90年代の終わり頃にフリップ・フラップが出演する31アイスクリームのCMはよく放送されていたが、いつの間にか放送されなくなっていた。しかし、約5年の沈黙を破り、今年5月から再びテレビCMが放送され始めた。この間、31アイスクリームにはどんな変化があったのだろうか?
31アイスクリームの広報さんの話によると、CMの放送をやめていたのは店舗の数に対してCMに投入する広告費が大きすぎるため、採算が合わなかったことが原因とのこと。そこで「500店舗開店を達成してからまたCMをやろう」という目標を設定し、店舗数の拡大に乗り出した。その際に以下の3つを改革の指標としている。

1.店舗のデザインを変える
2. 大手ショッピングセンター内での営業
3. 既存オーナーが新しい店舗を開く際の支援制度

1と2についてはとくに補足は不用かと思われるのでここでは3について説明しよう。
31アイスクリームは現在6店舗のみが直売店で、他の何百という店舗はフランチャイズ経営だ。そこで「既存オーナーが新しい店舗を開く際の支援制度」だが、これは現時点で店舗を経営しているオーナーが新しく2店、3店と出店する場合には資金面でオーナーをバックアップするというシステムなのだ。
これが当たったのかどうかはわからないが、2001年頃からこの3点を導入し、2003年には500店を達成。2006年現在では740店と怒濤の勢いで店舗を増やし続け、全世界では実に5000店以上がフランチャイズとなっている。

また暑い夏がやって来る。「当面は新しい経営プランなどは考えていない」と広報さんがいうあたりに業績の好調さがうかがえるようだ。"We make people happy.(お客さまに幸せを)"というモットーを掲げて、今年も31がアイスクリーム商戦に切り込む。(宮崎)

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2006年5月14日 (日)

元 靖国ライター その3

今回は初めての海外生活の地であるシンガポール。
シンガポールは赤道直下で、マレーシアと地続きの整備された都市国家。さらに安全!そしてキレイ! けど狭い。だからなのか、タクシー利用率がものすごく高い!雨なんか降ると、On Call(Booking Service)をしてもつながらず、1、2時間は待つことも。
タクシーの初乗りはS$2.40(約170円)で10セントづつ上がります。なんというか日本から来ると、初乗り2キロ650円が当たり前の感覚だから、この良心的な価格に涙がでる。
さらに嬉しいのが、ベンツタクシー!それも料金は普通のタクシーと同じ。しかも結構な台数(多くはないけど)が走ってるから遭遇率高い!170円でセレブ気分が味わえるのがシンガポールの魅力(笑)。
多民族国家なので、ドライバーの人種、かかってる音楽、装飾もさまざまと、いろいろな文化を垣間見ることができます。それと意外とフレンドリーなドライバーが多く、トランクの荷物を降ろしてくれたり、飴をくれたり、マンダリン(中国語)を教えてくれたりと、日本ではあまり味わえない変な楽しさがシンガポールのタクシーにはあるのです。(奥津裕美)

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2006年5月12日 (金)

戸塚ヨットスクール・戸塚宏と世界一周レース優勝者・多田雄幸の接点

――「戸塚ヨットスクール」解説――

 1991年3月、1人のヨットマンが自ら命を絶った。1983年、世界一周レースに手作りの「オケラ5世」号で参加し優勝した多田雄幸氏である。60歳の早すぎる死だった。8年ぶりに挑戦した世界一周レースで転覆を繰り返し、気力・体力の限界を感じてリタイアしたことが原因らしい。

 この翌年、名古屋地裁は1人のヨットマンに懲役3年、執行猶予3年の判決を下す。この後実刑判決が確定し、先月末に出所した戸塚宏氏だ。
 戸塚氏が校長を務める戸塚ヨットスクールは情緒障害児を矯正できるとして、一時期は100人もの生徒を集めたという。不登校や家庭内暴力、無気力などの「症状」をスパルタ教育で「治療」する。その手法が受けたのだ。

 しかしヨットスクールの「教育」は大きな事件を引き起こす。
 80年11月には21歳の学生が暴行により死亡。82年8月には体罰を逃れようとフェリーから海に飛び込んだ15歳の少年2人も死亡し、同年12月には暴行などで体力が衰えていた13歳の少年に海上訓練を強制して死亡させる。戸塚氏はこれらの事件により傷害致死や監禁致死で起訴された。
 とはいえ現在でも戸塚ヨットスクールは7名ほどの生徒を持ち経営を続けている。戸塚校長も来月からの現場復帰する予定で、出所後の記者会見では「体罰は教育。正しい教育論がないから教育荒廃が起こる」と持論をぶちあげた。

 そんな戸塚氏がヨットマンとして名をあげたのが76年に行われた単独の太平洋横断レースだった。このレースにかける戸塚氏の意気込みは半端ではなかった。積み込む食料を制限して船の重さを軽くする。睡眠は必ず15分ごとに取るようにしてタイムロスをなくす。湯をわかす時間を短縮するために水で戻る乾燥食品を口にする。そんな努力の結果、2位に大差を付けて優勝した。この勝利がヨット教室のスポンサーを得ることにもつながったのである。
 そして、このレースに出場したのが当時45歳の多田氏だった。同じレースに出場した4人の日本人がすべてスポンサーを付けていたが、彼はマンションを売った金で費用をまかなったという。しかも船は仲間と造った自前のもの。もちろん戸塚氏とは勝負にならなかった。というより勝負をする気もなかったのだ。船でゆったり酒を飲み、ハワイでは応援者のためにスピードを落として岸に近づいたほどなのだから。ゴールは戸塚氏より10日も遅かった。

 戸塚氏は「レースはレースのように戦うべきだ」と多田氏を批判したという。さもありなん。

 あまりにも違う人生観を持った2人が一瞬交錯した。それが76年のヨットレースだった。

 その後、2人に接点はない。ただし2人の人生はこのレースを境に大きく波打っていく。
 レース後、戸塚氏はヨットスクールを開校、多田氏は個人タクシーの運転手へと戻る。しかし2年後の78年、多田氏は故植村直己さんの北極点・グリーンランド縦断探検のサポート隊長を努めることになる。その2年後に戸塚ヨットスクールで暴行事件が発生。そして83年、大きく明暗が分かれる。多田氏は世界一周ヨットレースで優勝し、戸塚氏は逮捕されたのだ。

 これで多田氏が幸せに暮らしているならば、ひたすら目標達成に集中する戸塚氏の人生観を批判すればよい。しかし多田氏は自殺してしまった。一方の戸塚氏は自分は間違ってないと公言し、一部の人々から熱狂的な支持を受けている。

 ホームページ掲載された「戸塚宏の人間学」には、「安定させるのは意志なのだから、まず何よりも意志そのものを強くし、安定させることが必要なのだ」と書かれている。こうした思考の先には「レースによるリタイア」も「リタイアを苦にした自殺」もない。戸塚ヨットスクールがどんな厳しい訓練も体罰も逃れることを許さず、スクールの子どもに手錠をはめ、格子つきの押し入れに閉じ込めたようにだ。

 しかし豊かな人生を送ったのはどちらなのだろうか? 
「束縛されるのがいやだ」と個人タクシー運転手となった多田氏は油絵や俳句をたしなんだ。特に絵画は二科展に何度も入選するほどの腕前だったという。また戸塚氏と一緒に出場した太平洋横断レース後、同じくレースに出場した日本に身よりのない米国人を半年間も世話していたと伝えられている。こうしたエピソードに表れるのは多田氏の余裕だ。遊び心と言ってもよい。
 お湯を沸かす時間を短縮し、脇目もふらず目標達成に突き進んできた戸塚氏にとって不登校の児童など根性をたたき直す対象だろう。しかし多田氏ならどうか。

 出所後、戸塚氏は「教育の基本は精神論。正しい精神論を作って普及させていかなければ」と語っている。ただ自分の作る「精神論」が「正しい」かを疑っている様子はない。だからこそ刑務所について「人権侵害だ」あるいは「教育論を持っていない」と、真っ向から否定したのだ。外部からみれば戸塚ヨットスクールも刑務所も「人権侵害」の「矯正場所」という意味で全く違いはないのに、である。

 こうした直線的な思考・行動は分かりやすい。だからこそ一定の支持を得られる。ただ方向性が間違っていてもブレーキがかからない。戦中の日本のように。

 「もしかしたら多田さんは頑張る人なのかもしれませんね」という沢木耕太郎の質問に、次のように答えたという。
「『そうだねえ、そうかもしれないねえ……』
 多田はひとりで納得するように頷くと、いくらか遠くを見るような目つきになって言った。
『あの頃……予科練に行った時も……』」(『オケラのカーニバル』文藝春秋)
 残念ながら予科練での出来事を、多田氏はこれ以上語っていない。予科練を志願した軍国少年が敗戦のなかで立ち止まることを知ったことは間違いない。それこそが人としての豊かさ作り上げ、だからこそ人として悩みも深まったともいえる。

「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会員は約3000人だという。立ち止まらない「教育者」はいまだ強い支持を受けているわけだ。一方、立ち止まることを知るヨットマンはすでにこの世にいない。
 それが現在の日本を象徴しているようで怖い。

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2006年5月11日 (木)

共謀罪が可決成立しそうな怖ろしさ

何が怖いといって共謀罪が成立すること自体ではない。それを大したことではないように感じている国民の感覚の鈍磨にある。
こうした問題は教育基本法改正にも共通している。米軍再編もそうだ。何をいいたいのか十分に表現できるか珍しく不安なのだが試みてみたい。

例えば歌舞伎町には交番がある。この街には明らかに違法である裏DVD店や本番オーケー風俗がある。だが取り締まりは通り一辺倒だ。東京にはさすがに見当たらないが少し地方に行けば暴力団の組の看板を掲げた事務所がある。新宿西口周辺では時折明らかなシャブの密売人がモソモソしている。いずれにも交番はある。シャブが公然と手に入ることなど今や中学生でさえ知っている。

共謀罪は「組織的犯罪集団による犯罪」を取り締まるのだという。しかしこのように現法制下でさえ明らかな違法状態があって、多くは組織的犯罪集団であろう暴力団の息がかかっている。法規はあるのに見過ごされている。
その一方で別件逮捕や微罪逮捕も横行している。今年に入って大々的に行われた耐震強度偽装事件に関わった者どもへの大捕物は誰が何といっても別件・微罪逮捕であろう。オウム真理教問題が佳境に入った際には自転車の無灯火でパクられた信者もいた。全共闘華やかなりし時代では車道を歩いたというだけで道交法違反で捕まったと聞く。

別件・微罪逮捕に賛成か反対かと聞かれれば私は反対だ。だが本稿ではこの是非は論じない。指摘しておきたいのは別件・微罪逮捕という手法で時に当局は大捕物をやってのけるし、多くの国民もそれでよしとする気風がこの国にはあるということだ。

ここまでをまとめると今の法律で十分に取り締まることができる「組織的犯罪集団による犯罪」が多数あるのにしていないという事実と違法であろう別件・微罪逮捕という手法を駆使してでも当局は時に摘発するという事実の2つである。前者を改善するか後者を用いれば共謀罪の新設など不要である。
マスコミとくに新聞記者ならば、そのことは絶対に知っているはずである。当局が熟知しているのは疑いようもない。つまり現在、共謀罪を新設する理由は新設する理由としてうたわれている理由ではないのは明白である。マスコミはそうと知っていて報じない。あくまで「新設する理由としてうたわれている理由」を前提として反対・賛成の論陣を張っているに過ぎない。猛烈な批判精神の劣化である。本当の理由は「思想・信条の取り締まり法規がほしい」に決まっている。そうでなければ相変わらずの別件・微罪逮捕でいつでも誰でも拘束できるのだから。だから国会審議で「あり得ない」と答弁されている事例を狙っているも明白だ。

ではマスコミが悪いのか。当ブログでも再三書いていることだが政治家と同じくメディアのレベルもまた国民のレベルを超えて存在することはない。だからメディアの劣化は国民の権利意識の劣化に合わせてのダウンサイジングなのである。表現の自由の大切さ・・・・では弱いな。表現の自由の擁護義務を欠くバカ者ばかりになっているといっていい。島国根性改めて奴隷根性が列島を覆っているのである。

第二次護憲運動は第一次に比較して宮廷革命的な要素が強かったが、その結果成立した加藤高明護憲三派内閣は大正デモクラシーの精華の1つと評価されている。その加藤内閣が成立させたのが1925年の治安維持法だ。国民が良かれとする内閣が悪名高き思想取り締まり法を生んだ。1910年の大逆事件で幸徳秋水は多分容疑事実に挙げられた程度のオダは発したかも知れぬ。だが彼らを取り巻いた環境を考えればオダ以上にならぬのは明々白々であった。オダを共謀とするのが共謀罪の狙いであるに決まっている。
国家総動員法は事実上の授権法であったが反対する国民などほとんどいなかった。戦前は元より表現の自由が制約されていたという議論がある。だがこうした経緯を見れば反対してもいい状況で黙っていたり逆にエールを送って取り締まりに拍車をかけさせたともいえるのだ。その結果が「大本営発表」とボロ負け敗戦だったのだ。

教育基本法に盛り込む「国を愛する」に統治の主体は含まれないと法案提出者はいう。だが本心は統治の主体を愛せよと強制したいに決まっている。ここが共謀罪と同じだ。さらに似ているのは仮に「統治の主体は含まれない」としても現時点で多数の国民が「統治の主体」に熱狂的な愛情を注いでいる。それは昨年の総選挙で大いにわかった。だから法文化など不要である。それを求めるのは「統治の主体」を愛させた希代の魔術師である小泉純一郎のような「個人技」を持ち合わせていない「ポスト小泉」の脅えであろう。

奴隷根性に染まった阿呆に目覚めよと促すのは荒馬を乗りこなすより難しい。阿呆に限って自分が阿呆だとは思っていないからだ。それがどうやら有権者の5割近くはいるらしい。どうせこうした物言いをしても目覚めぬであろうし全国で10人ぐらいしか読んでもくれまい。だが黙っていてはみっともなさ過ぎるから叫んでおく。私は平凡な頭脳しか持っていないが、それでも気づく奴隷への道への警鐘は鳴らしておかねばならない。気づいてほしいのは本心だ。だからいくらムダだとわかっても書く。阿呆は自身と孫子の代への犯罪である。(編集長)

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2006年5月10日 (水)

ビジネスマン必読 いろんな「あちら側」

 知ってます? 「あちら側」と「こちら側」。
Web  現在のIT社会に何が起こり、今後どのように変わっていくのかを明確に示した『ウェブ進化論』(梅田望夫/ちくま新書)が売れている。この本で示された概念が「あちら側」と「こちら側」。簡単に言えばウェブがつくり出した世界が「あちら側」、リアルな社会が「こちら側」である。
 例えば、ウェブ上の大量の情報を検索によって仕分けできる道筋をつくりあげたグーグルは「あちら側」、リアル世界にソフトを売り込んだマイクロソフトは「こちら側」となる。

 この本は確かによく書けている。ITの進化がスッキリ分かる。そのうえキーワードになりそうな語句が散らばっており、ITの現在を説明したい人にとっても「使い勝手」がよい。これからITを話題にするときは『ウェブ進化論』の読了が前提になりそうなのだ。

 例えば「Web2.0の本質はオープンソースじゃないですか」とか、「ロングテール現象とマスのかかわりってどうなの?」なんて、普通に言われちゃうとかね。知ってしまえば難しくないが、語句の意味が分からないと話にならない。
 この本はそうした専門用語を理解するためだけにも読む必要がある。

 で、この本を読んでウェブの現状を知り、自分にできることが何なのかというと、これがなんもない。だって所有欲が根本にあったビル・ゲイツが「あちら側」に行けなかったというのだから、マイクロソフトの基本ソフトさえ使いこなせず、携帯でネットを見られない僕が「あちら側」に行けるはずがない。

 当分は「あちら側」と「こちら側」は融合しないらしい。リアルな社会だけに住んでいる「こちら側」の住民が気付かぬまま、大きな変化が進行していくことになるだろう。つまりワードを使えなかった中高年サラリーマンがリストラされたように、近い将来僕も社会の隅に捨て置かれるに違いない。

Photo_12  ならばIT以外の「あちら側」に行けないかと思いつき、目に留まったのが『フェチ楽園考』(いその・えいたろう/ちくま文庫)だった。全364ページ、フェティシズムにはまる当事者の重~い言葉のオンパレード。もちろん、かなりヘビーなフェチも網羅している。スカトロだとかアニマルとかになると、もう「あちら側」に足を踏み入れたくもないッス。

 でもフェチの王道「下着」ぐらいなら大丈夫かと思ったら、「(下着を)急速冷凍するとカチン、カチンに凍ってね。それをあとで解凍して嗅ぐのが、ぼくのエロスやなあ」って……。
 ムリ、やっぱりムリ。理解できません。

 ならば、せめてメガネフェチぐらいならとページを繰ったら「必ずメガネを必要としていなくてもメガネ越しはエロイぞ。町歩いてるおばあちゃんの、あの老眼鏡が。あれもわるくない。ソソる」
 スミマセンでしたっ! フェチの世界も深いです。とても「あちら側」には行けません。

Photo_13  それなら新興宗教はどんなもんだと、某信者を両親に持った18歳青年の自叙伝『「人を好きになってはいけない」といわれて』(大沼 安正/講談社)を手に取ってみた。しかし、これは悲惨過ぎ。アイデンティティーを形成する時期に「あちら側」の論理を押しつけられる恐怖をタップリ味わった。

 結局、3冊の「あちら側」解説本(?)で分かったことは、「あちら側」と「こちら側」の溝が思ったより深いことだ。簡単には橋などかからない。
 だが、そんな溝に橋をわたすのがライターの仕事なのかもしれない。自分の中にそっと抱えている「あちら側」をなだめつつ、静かに「こちら側」で生きている自分を少し反省した。(大畑)

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2006年5月 9日 (火)

何が黄金週間だ(私は出社した)

月刊誌泣かせのゴールデンウィーク(GW)が終わった。なぜGWが月刊誌泣かせかというとGWがあろうがなかろうが1月に1冊出さねばならないからである。しかるに世の中は1週間休む。小社社員もそれを口実?に休む。結果として私が毎日出社する羽目となる。そう、経営者には労働基準法が適用されないのだ・・・・じゃあない。1ヶ月が実質3週間になってしまって進行がタイトになるのがいかんのだ。
そういえば5月3日の当ブログで小誌の宮崎編集が「暇や! GW、なーんにもすることがない人のためのブックガイド」を書いていた。こういう「暇や!」との発想が社業を傾かせるのである。正確にいえばより傾かせるのである。もっともそう言いつつ原稿を書いたのだから働いたともいえる。したがって責められもしない。

外部のライターさんなども休む。休んではいないかもしれないが仕事を頼むははばかられる。印刷業者と取次様はもうバッチリと休む。書店様は店開きだが取次様が動かなければ搬入できない。その意味で単行本泣かせでもある。鎌田慧氏の小社新刊『痛憤の時代を書く』は本日(8日)に取次様に収まった。書籍仕入様には先月27日に見本出しをしたから通常であれば3日頃には搬入できたのだ。一刻も早く本を届けたい出版社としては「痛憤」の極みである。
そんなことカレンダーを見ればわかるだろう。見本出しを数日早めれば問題なかったのではないかとの反論は正しい。それができないから小社は文字通り小さな社で止まっているのだとここで逆ギレをしておきたい。事態は常に最悪の方向へ進むのである。

取材をしたくてもGWは企業・団体ともども休業状態だから進まない。回りもきっとGWは小社も休業だろうと決めてかかっているのでオレが1人狭い事務所に断固として盤踞していても電話一本かかってこない。著者校をお願いしている方もそう思っていたと今日(8日)わかった。街金からはかかってきた。さすが街金である。ほめてはいないので勘違いせぬように。

かくしてGW明けの8日、9日は猛烈な負荷がかかる。かかるとわかっているから仮に休めたとしてもGWに休んだ気がしない。そこで休むに価する黄金の日々なのかを改めて検証する。

4月29日はみどりの日で、もうすぐ昭和の日となる。こう書いた時点でデタラメとわかる。昭和をしのぶといったって私は昭和生まれだからしのびようもない。昭和天皇をしのべといわれても私は記者時代にX(ご不例)で休みを奪われた恨みがあるので素直にしたがえない。ところでメーデーもこの辺でやっていた。左翼よ!それでいいのか。

30日と5月7日は日曜日だから休みとなる。祝日が立て込んで?いる時に日曜日を休むと祝日の祝日たるありがたみが薄れるのではないかとの突っ込みを誰も入れないから私が入れておく。

5月1日と2日は今年のカレンダーでは普通の日であった。だがどの企業・団体が「カレンダー通り」なのかどうかはわからない。よって中途半端な予定しか入れられない。「カレンダー通り」を相手が標榜していても本当は失礼ではないかとの配慮ぐらい私もするのだ。

3日は憲法記念日である。以前に書いたが本当の憲法記念日は制定日の11日3日であるが、ここは元々祝日だったので施行日をムリヤリ憲法記念日とした。今や国民の過半数を占めるという改憲派に告ぐ。当然休まなかっただろうな。休むとは憲法施行を記念しているのと同義だ。それを変えたいんでしょう。だったら休むのは間違っている。働け!働いて押しつけ自虐憲法の不当性を身をもって明らかにせよ。
しかも前述のように施行日を休む理由はないと改憲派は声を大にすべきだ。大どころか聞こえない。右翼の宣伝カーもそうしたことはいわない。

4日は「国民の休日」でやがてみどりの日が越してくる。国民の休日という言葉はすごいな。おいお前休まないと非国民だとのニュアンスを感じる。やがて緑をありがたがる日となる。緑って何だ。

5日はこどもの日である。私は大人である。何でこどもに便乗して大人が休むのだ。端午の節句であるのは承知の上での毒付きである。堂々と端午の節句だといえよ。とくにジェンダーフリーはいかんとかいっているオッサンに告ぐ。オッサン!案外と「今日はこどもの日だからTDLにでも行こうか」なんてマイホームパパ振りを発揮したんじゃあないだろうな。連れて行くならば息子だけにしろ。

6日は土曜日だから休む道理は本当はない。でも面倒だから休んじゃえとなる。いいのか日本政府!GDPは4年に1度の閏年で1日多いだけで変動するのだぞ。こんないい加減な理由で経済活動をストップさせて御国の興隆がはかれるのか。

本日(8日)の合い言葉は「連休も明けまして・・・・」だった。喪が明けたみたいだ。(編集長)

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2006年5月 8日 (月)

施行迫る! 改正道路交通法・駐車違反の新ルール

来月6月から改正道路交通法が施行される。その中身は、あちこちから「厳しすぎる!」との声が上がっている駐車違反に関する新たなルールだ。これまでの駐車違反の取締りでは、警察官は違反車両にチョークで印をつけてから、長い場合は30分ほどの猶予の後に違反と認定している。しかし改正後は違反車両と認められるとすぐに取締りが行われてしまうのだ。

警察庁によると、違法駐車は交通事故や交通渋滞を引き起こすなどして「国民生活に著しい弊害」をもたらしているという。よって取締りを強化したいのだが、「警察力の限界」がある。要するにそれだけの人を駐車違反の取締りに投入できないということだ。そこで今回、取締りの一部を「民間駐車監視員」に委託する運びとなった。

監視員は今までのようにチョークで印をつけるのではなく、デジカメ内蔵の専用端末で違反車両を撮影する。パチリと撮られたらアウトなのだ。

駐車と停車ではどこが違うのか。正規の交通規則では、運転者が車内か近くにいてすぐ発進できる状態を停車、運転者が車から離れていてすぐに運転できない状態を駐車としている。ということは駐車禁止エリアであれば、例えば「5分だけコンビニに買い物に行く」だけでも、見つかればパクられてしまう。運転者はご存知だろうが、都内は駐車禁止エリアだらけだ。

Kuruma2_1

実際、新宿に足を運び違法駐車がどれくらいあるのかを調べてみることにした。南口を出てしばらく歩くと駐車違反で取締りを受ける場面に出くわした。6月からは白バイではなく、民間の監視員に取締りを受けるようになるのだ。

Kuruma4_1 歩道脇に黄色い破線があるが、これは「駐車禁止」を表す。よって、この車は駐車違反となる。ざっと駐車違反の車をチェックしたところ、20台のうちなぜか6割がトヨタ車だった。車種にバラツキはあるが、トップはVitzの3台。

Kuruma3_1 駐車違反の車など、探さなくてもいくらでもあることに気づいた。御苑裏交番のお巡りさんは、「これ、ぜーんぶ取締りの対象ですよ。まあ、駐車場に停めてくださいよ」という。車離れたら、「即パシャリ」されちゃったよなどという会話があちこちで聞かれるようになる可能性は大いにある。しかも反則金を納付しない場合には車検を受けることができない制度も盛り込まれ、「納付逃れ」は不可能になりつつある。

「国民生活に著しい弊害」をもたらさないためには、たった5分の駐車でもパチリと斬られてしまうのである。たしかに違反は悪いのだが、なんとも窮屈な状況になりそうだ。「ちょっとくらい、いいじゃんか」はもはや通用しないのである。(宮崎)

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2006年5月 6日 (土)

元、靖国ライター その2

『記録』海外支部へ異動して約1年半。靖国ライターとしてふさわしい、シンガポール→香港と住んでるワケなんですが。なぜ海外へ左遷(赴任ではない)されたかは置いておくとして、今回は香港について書きます。

香港は短い冬に長い夏の国で、湿気の国でもあります。もうね、油断してたらカビ、カビ、カビのカビ天国になるんだよ。日本も湿度高いけど、ここは尋常じゃない。除湿器なんて1日でタンク満タン。あと冷房は年がら年中稼働。それでも湿気が残るんだけど……。

基本的にほぼ1年中湿度は80%以上で、この間なんて、豪雨の深夜に天気予報見たら99%。なんだ99%って…。我が目を疑ってしまった数値。見タコトナイヨー!
その湿気の魔手はなんと冷蔵庫にまで及ぶらしく、「隙あらば攻撃」と、湿度ゲリラ部隊に対して戦々恐々とした日々を送っているのです。(奥津裕美)

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2006年5月 5日 (金)

アンチエイジングが失業率を加速する!?

 3~4年ぐらい前だろうか。30代後半、元受付嬢の女性から「キレイと言われるより若いと褒められたほうが嬉しいのよ」と教えてもらったことがある。かなり驚いた顔をしたせいだろうか。「私の周りはみんなそう言ってるよ」と彼女は付け加えた。
 そうか! 30代後半の女性に「若いね」と言えばモテるんだ、と早速メモったが、気持ち悪い男が「若いね」と口にした途端セクハラになることを後日知り、自分には全く使えない知識となった。
 こんなことを思い出したのは最近「アンチエイジング」という言葉をよく耳にするからだ。日本語に訳すと「抗加齢」になるらしい。簡単に言えば、若さを保つ、あるいは若がえることだ。中高年のアンチエイジングブームはかなりのもので、サプリメントから化粧品、美容整形、専門の人間ドッグ、果ては効果をうたった高額のコース料理まで登場。どれも活況を呈しているらしい。

 それにしても、どうしてここまで盛り上がっているのだろうか? もともと不老長寿は人間にとって永遠の夢であり、いきなりブームになるような代物ではない。
 すでにマスメディアでもブームの理由をいくつかあげている。
 医療費負担の増加などもあり、予防医学への関心が高まっていること。2004年に老化防止に効果があるといわれるコエンザイムQ10が化粧品などに使えるようになったことも大きいらしい。02年に発足した日本抗加齢医学会がアンチエイジングの医学的な知識を広めていった影響もある。実際20人から出発した研究会がわずか5年で3800人もの医学会になったわけで、その増大ぶりにはビックリだ。また、それなりにおしゃれに関心があった団塊の世代が老いを気にするようになり、高額商品の「カモ」に仕立てあげるべく企業がブームを煽った「成果」の可能性もあるようだ。

 しかし、それだけだろうか?
 当初、アンチエイジングブームは女性だけのものだった。化粧品やサプリメントなど、従来からある「若くありたい」という願望を引き継いだ商品が人気となった。しかしブームを一気に拡大させたのは男性のアンチエイジング参入だ。すでに男性専用の化粧品やアンチエイジング・クリニックは市民権を得ている。
 問題は男性のアンチエイジング願望が、どうしていきなり活発になったかだろう。ここで興味深い統計がある。まずは自殺者数と失業者数の統計。社会実情データ図録のグラフを見れば、この2つの数字に相関関係があることは一目瞭然である。しかも自殺する年齢層のトップを占める50代は98年にいきなり2000人以上増えている。日本抗加齢医学会が発足した02年の翌年には自殺者が8000人の大台を突破した。

 90年代後半から日本の労働環境は大きく変わった。終身雇用制は完全に崩壊しリストラの嵐が吹き荒れた。グローバル化を前にしたコストダウンの圧力も強まった。そうしたなか賃金の高い中高年はリストラにおびえ、加齢への恐怖を感じたのではなかろうか。
 じつは、この話は単なる憶測ではない。
 4月号の月刊『記録』でホームレスの専門家である神戸幸夫さんと対談した際、最近は腕の良い大工よりもただ若くて安い大工がもてはやされる、と教えてもらった。当然、年を取った大工は失業する。積み上げてきたキャリアは年齢というフィルターにかけられいきなり意味を持たなくなるという。
 じつはこのような職種は以前から存在した。例えばコピーライター。若者向けの商品コピーを中年が作っているとクライアントが不安になる。そのため35歳ぐらいで多くのコピーライターが職種を変える。会社を興して経営者になったり、広告営業に転向する人もいる。もっと分かりやすい例ならホステス業だろう。気遣いやコミュニケーション能力が高まっても、ある年齢を境に人気はジリジリ落ちていく。
 混同してもらっては困るが、運動選手のように肉体の衰えがパフォーマンスを落としているわけではない。以前より能力が上がっても年齢がネックとなって仕事から外されていく。それが問題なのである。
 このキャリアよりも若さという風潮はここ数年で一気に広まった。いうならば男性社員の一般職化だ。

 かつて企業には「男性社員の嫁さん要員」ともいえる一般職の女性社員を抱えていた。もちろん大量の事務仕事をさばくには、それなりのスキルがいる。しかし企業が彼女たちに求めたのは若さと「男性社員ウケ」だった。年齢を重ねれば「お局様」と呼ばれ、暗に寿退社への圧力がかけられた。そうした女性たちにとって若さは大きな武器であり、若さを保つことへの投資は必要不可欠だったともいえる。その報いなのか、今度は男性社員が若さを保つことへのプレッシャーにさらされている。

 しかし年齢に応じたキャリアを認めない行為は大きな悲劇をはらむ。
 年齢とキャリアの問題を考えるとき、いつも僕は1人の女友達を思いだす。とてもキレイで野心的だった彼女は「スゴイ結婚相手」を捕まえようとかなり努力していた。ファッションや話題に気を配り、いい相手に巡り会えるよう合コンなどにも積極的に参加していた。実際、かなりの「成果」をあげてもいた。ところが27歳になった途端、彼女の「株」は暴落する。26歳で落とせた男が落ちなくなった。見た目も「スキル」も上がっている。ただ結婚相手の年齢としての「ランク」が下がったのだ。それから数年間、彼女は失意のどん底にいた。

 アンチエイジングの波にのるのはキャリアを否定する社会を認めることにもなる。若さを保とうとする人が増えれば、社会全体がより若い人へと目を向けるからだ。
 かつては素敵な歳の取り方というものがあったように思う。若造は信用できないという風潮もあった。それで悔しい想いをしたこともあったが、社会の仕組みとして正しかったのだろう。歳を取ることに希望を持てたからだ。
 
 さて、ここで最大の問題に行き着く。それは僕自身がアンチエイジングをするかどうかだ。先日、美容院で毛穴の不純物を吸い出すマッサージ&シャンプーを勧められた。薄くなった頭頂部が「ステキ」に変化するらしい! 美容院の話によればカッコ良くもなるらしい!!

Photo_11  やっぱ、やるかな。積み上げてきたキャリアがないから若く見られた方がいいし○| ̄|_(大畑)

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2006年5月 4日 (木)

私が写研にこだわる理由と正当性

私がなぜ写研の書体について何度もグチグチ書くのか業界の方以外は理解できないであろう。その理由はただ一つ。文化財の問題だからだ。

教育基本法改正案に「日本の伝統と文化」を大切にするなんて文言を入れるそうじゃないか。起草した者どもに「日本の伝統と文化」がわかるか疑問であるが、もし本気ならば写研を何とかしろよ・・・・というぐらいの大問題なのである。

その理由を順に述べる。まず出版物は文化財である。少なくとも私はそのつもりで1冊1冊を世に送り出している。国立国会図書館には本を出すたびに寄贈する義務があるが、その返答文には「文化財として・・・・」とある。本は文化財だ。したがって使用するフォント(書体)もまた文化財の一部である。

次に出版界特有の事情がある。他の業界と大いに異なるのは製作の作法が会社を問わずに共通している傾向が高い点だ。だから昨日までA社にいた編集者がB社に移った今日からすぐに「台割」「青(藍)焼き」「ゲラ(ガレー)」「著者校」「責了」などという統一用語で仕事が始められる。かつてその一部に写研の書体およびQ数、歯送りなどの作法が含まれていた。
ここで重要なのは、こうした作法を共有するという出版界特有の事情があったからこそ写研の書体は大いなる地位と売上を得たという事実である。もし出版界がA社とB社が仕入れから納品まで別々の独自製作を行うメーカーの集合体であったならば、やはり独自の書体を持って独自に組版しよう。大新聞のように。
そうではない、いわば「神田村の作法」があったからこその写研の躍進であり、1私企業の都合で勝手に退くのは許されない。もうける時だけ村の掟を利用して、嫌になったら「私企業ですから」では倫理にもとる。

さらにある。写研の写真植字はグーテンベルグ以来の、日本でいうならば本木昌造以来の活版(凸版)文化を終わらせた責任がある。活版も十分に芸術的だったが、その工程が宿命的に生み出す硬直性と拡張性の低さゆえに写研に取って代わられたのはやむを得なかった。
私はかなりの活版愛好者でもあったが、写真植字にしかできない伸びやかさや意表を突くデザインにはかぶとを脱ぐしかなかった。かくして写研は活版を駆逐した。そしてDTP時代には対応しない。そのDTP環境で作られる誌面の美しさはハッキリいって活版に劣る。
つまり写研のDTP未対応は結果として芸術を退化させているのである。罪は重いといわざるを得ない所以である。

写研が1私企業としてDTPに能力ないしは金銭的に対応できないというのであれば喜んで手を貸す関係者は多数いるはずだ。だが私の想像する範囲では写研はDTPに対応できないのではなく、できるのにしないだけだ。
電算写植が急速に普及した時を思い出す。ワープロ専用機が台頭してきた時に写研は露骨に電算化を推奨した。まだ手書き入稿で育った世代の私は、やむなくワープロに向かってウンウンうなっていたものだ。それでワープロを打てるようになったから恨みはないのだが、写研が技術革新についていけない会社では決してないのがこの一事でもわかる。

DTPでやりたくないならば、いっそのことモリサワに著作権を売ったらどうか。元来が同根だし。モリサワがシャクならば他社でもいい。同業者でなくてもいい。新興IT企業ならばカネ持ってそうだから。でなければ文化財保護法を適用して押収してしまってはどうか。同法に該当する条文はないが、もうムリヤリだ!

DTPで困った点は2つある。1つはこの写研の頑迷とさえいえる未対応。ここがクズ書体しか作っていない会社ならば何もいわない。写研の書体は本当に美しいのだ。かつて名画を高値で競り落として死んだ時には一緒に燃やしてくれとのたまった会社社長がいたが、それに似た背徳である。確かに写研書体の著作権は写研にある。だがそれは文化財であり公共財として使われてもいたのだ。
ダイナフォントで商業印刷をする勇気は私にはない。モトヤ・・・・モトヤか。モトヤねえ・・・・。ちなみに量販店でモトヤ書体は売っていない。

もう1つはゲイツである。何でも欲しがるビル君が何でまた我が業界だけには興味をもたないのか。お陰で割高MACの天下が続く。アドビ社は絶対にもうけている。モリサワだってちょっとその金額はないだろうって値段だ。クォークも同様。
OSがバージョンアップするたびに100万円が飛んでいく。いやそれ以前にMACが壊れた瞬間に零細出版社には激震が走る。これがまた壊れてくれるわけだ。

はっきり言おう。私は写研本社にデモ行進したい気分なのだ。そのためにNPO法人ぐらい作ってもいい。募る同志!(編集長)

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2006年5月 3日 (水)

暇や! GW、なーんにもすることがない人のためのブックガイド

せっかくのゴールデンウィーク。しかし手帳のカレンダーはブランク。
休日になにもしないのはモッタイナイ! とマータイさんに怒られるからではないけれど、この休みを利用してじっくり読書したい、でも何を読むかは決めていない…。そんなあなたにお勧めなのがまず、『三国志』(横山光輝・潮出版)San
この作品はマンガで60巻と長いにも関わらず、一度読み出したらなかなか中断できない中毒性を持っている。暇人にはもってこいなのである。
西暦でいえば180年から280年あたり、後漢から三国時代にかけ、魏・呉・蜀の三国が覇権を争う国取りドラマと、登場人物の愛憎が錯綜する人間ドラマがほどよくミックスされている。
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」もそうであるように、長大な作品では舞台が進むにつれて登場人物の息子、などが現れ、「初めて登場するのになぜか親近感」を覚えることができるのも大きな魅力。
諸葛孔明の天才的にキレる頭脳にあこがれ、酒乱&豪腕の張飛の男らしさに惚れる。泣いて馬謖を斬り、老兵・黄忠の死を惜しむ。
「後半はただ単に事実を追っているだけ」との批判もありそれは否めないところでもあるが、逆にいえばそれだけ史実を丹念に追った作品であるといえる。

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『虎山へ』(平岡泰博・集英社)

なーんにもすることがなくて部屋でじっとしていることはあるが、本書に出てくる人たちは相手に気配を悟られないために、常にじっとしていなければならなかった。
その相手とは、取材が行われた当時(1996年)、密猟により生存数が減り続けていて、現在も絶滅の危機に瀕しているシベリアトラだ。
著者であり、トラを追うドキュメンタリー取材班のカメラマンである平岡を含むスタッフたちは、ほとんど人前に姿を見せることがないシベリアトラの姿を捉えようと、トラの住むシホテ・アリニ自然保護区内のブラゴダットノイエ地域(ロシア語で「よい場所」の意)に向かった。
「雪が降れば、トラに会える」と言うロシア人スタッフの言葉に従い、白い氷雪に閉ざされた山の中を、トラの足跡探して歩く。そして、テントの中でじっと待ち続ける。トラの牙にかかり、命を奪われる危険も隣り合わせだ。
寒暖計がマイナス20度を指したその日、著者はとうとうトラに出会う。
「逃げても仕方なかった。トラと向き合いながらも、次の瞬間、襲ってくれば死ぬ、肉体が壊されていくという、具体的な恐怖はなかった。」極寒の中、雪山の中、ひたすらトラを追う日々の緊張感溢れる描写にシビれろ!(宮崎)

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2006年5月 2日 (火)

最初はグー、サイタマケン

4月24日付『毎日新聞』朝刊の一文には笑った。衆議院議員千葉7区補欠選挙で敗れた前埼玉県副知事の斎藤健候補を売り込むために武部勤幹事長が広めようとした「最初はグー、サイトウケン」に対して民主党が「最初はグー、サイタマケン」とやり返していたというのだ。
笑った後に実に効果的な方法だったのではないかとにわかに深刻となった。民主党候補が勝った数百票がこのワンフレーズで乗ったかもしれないというほどインパクトがあったかも。民主党にも知恵者がいるのだね。まさに「人なきところに人あり」だ。

東京都を囲む3県の県庁所在地にあるマスコミの支局・総局は「首都圏支局・総局」などと呼ばれて優秀な新人が配属される。私は優秀ではなかったが何かが間違って浦和(現さいたま)支局に配属になった。他に比べて重要度が高い支局とみなされている。
この3県は一般に時計回りに順位がついている。神奈川→埼玉→千葉の順に偉いと。この認識は当の住民にも根強くあるらしく千葉の選挙区で「最初はグー、サイタマケン」とやられたら「何を偉そうに」と反発されるのは目に見えている。そして3県ともに東京都にコンプレックスを持っている。

3県で最上位とされる神奈川県警は警視庁(東京都警察本部)への対抗心も露わである。こうした張り合いは埼玉県警や千葉県警には感じられない。どうせ桜田門にはかなわないさと諦観があるようなのだ。
例えばカナトクの存在が挙げられよう。戦前における最大級の言論封殺事件である横浜事件をでっちあげた神奈川県警察部特別高等警察課(カナトク)である。警視庁特別高等警察部に対するライバル心むき出しで、横浜事件もその功名心があおった結果といえよう。

警視庁の特高が激しく人権侵害をしているのに負けてなるかと「死なう団」事件の摘発もやったね。三国一郎司会で当時の団員はカナトクの拷問を以下のように証言している。

指と指の間に鉛筆をはさんで、これをギューッと曲げられたり、手の甲へ、タバコの火を付けられたり・・・・
陰部にもぐさをつけて、火をつけて、扇子であおぐ・・・・

4月25日に横浜地裁が県警保土ヶ谷署員が救護義務を怠ったと認めた「保土ヶ谷事件」のように神奈川県警が不祥事を起こすたびに隠蔽体質を指摘されるのも歪んだエリート意識とカナトク以来の暗い思想警察の名残があるからではないか。

その点、埼玉県警は悠長である。だが県政は神奈川への対抗心がなくもない。新都心とやらを現在のさいたま市に誘致しようと必死になったり、いやそれ以前にさいたま市を作ったのも神奈川県への対抗意識であろう。神奈川には政令指定都市が2つもあるのに埼玉にはない、とね。何しろ格下のはずの千葉県の県庁所在地が1992年からは政令指定都市になったわけで、埼玉県民には耐えられない屈辱であった。あれやこれやをくっつけて「さいたま市」が政令指定都市になったのは2003年。

タモリがダサイタマと名付けたのを埼玉県民はいまだ不快である。抵抗のシンボルとして「彩の国」なるキャンペーンを長らく張り続けているが全然浸透しない。都県境には埼玉側なのに東京都という飛び地があって十数世帯が住んでいる。私も取材したが彼らは絶対に埼玉県民になりたくないらしく、飛び地ゆえに不便になる住民サービスも構わない気配である。

そのダサイタマがチバラギと蔑むのが千葉である。この差別感は「国が違う」というところに発してないか。東京、埼玉、神奈川の一部は武蔵国であるに対して千葉は下総、上総、安房である。下総の北部から常陸にかけてが茨城県。つまり東京を取り巻く3県が一致結束して「あそこよりマシだ」と信じて疑わない北関東3県の一つである茨城と千葉は親戚じゃあねえかとの蔑みがチバラギに込められる。

だが実際問題として埼玉県春日部市と千葉県柏市に大きな違いがあるわけではない。なのに何で埼玉は千葉に偉そうにするのだ。新宿駅からならば埼玉の方が近いが東京駅からならば千葉だぞというのもあろう。こうした微差のナルシシズムは決定的な違いよりも嫉妬やいさかいの元になりやすい。埼玉県の副知事が何を偉そうな顔をして千葉で国会議員になるんだと反発されるのは当然である。(編集長)

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2006年5月 1日 (月)

カルガモ親子のお引越しはどうなった?

大企業や官庁のビルが立ち並ぶ千代田区・大手町で、カルガモの親子の「お引越し」が最初に話題になったのは昭和591984)年のことだ。

三井物産のプラザ池で卵を産み、孵化して1ヵ月後に内堀通りを渡って皇居のお堀に引越してゆく。

東京のど真ん中にもかかわらず、親カルガモを先頭に、子カルガモたちが必死について行こうとするユーモラスな光景が脚光を浴び、翌60年からはテレビ局や新聞社が引越しの様子を撮影しようとプラザ池に殺到するようになった。

しかし、ここ2、3年はカルガモ親子が話題にならなくなっている。もしかすると、もうプラザ池にはカルガモは来ないのだろうか?

三井物産の「カルガモレディ」を8年勤める前島さんによると、今年はまだ池には来ていないとのこと。最近、カルガモ親子が話題にならなくなったことについてはっきりした理由は分からないという。

卵を産む前のこの時期、例年ならば親カルガモは皇居のお堀にいるらしいが、今ではそれも定かではないだろう。4月28日、実際にプラザ池に行ってみることにした。

Ike_2

初めて訪れたが、あまりにも殺風景な池なので驚いてしまった。はっきり言って、ここに卵を産むカルガモの神経が分からない。写真のとおり、脇には大型トラックが駐車され、隣の丸の内消防署からはけたたましいサイレンと共に消防車が出発したりする。いちおう野生動物なのだが、こんな場所に住んでいることからも相当ズ太い神経の一家だということが察せられる。

しかし、親カルガモはここには見当たらなかった。前島さんの言うとおり、皇居のお堀だろうか。それとも、もうこのあたりには来なくなってしまったのか?

Toori_1

カルガモ一家は写真右手のプラザ池からこの内堀通りを渡って、左手のお堀に向かう。見ての通り、片側4車線の大通りだ。この交通量の多い危険極りない通りを渡ろうという神経がやっぱり分からない。「ライオンは子どもをガケから」的な試練かもしれないが、轢かれてぺしゃんこになってしまっては試練も何もない。

調べてみると、カルガモ親子の歴史は思っていたより波乱含みだった。90年には3羽のヒナのうち2羽が野ネズミに襲われて死亡。92年には6羽の子カルガモ全部がノラ猫(と思われる)に襲われて全滅、子カルガモは池に浮かぶという壮絶さ。99年もカラスに襲われて全滅している。

野ネズミ、ノラ猫、カラスという難敵から逃れるために、やはりどこか他の場所で卵を産むようにしたのではないだろうか…、と皇居のお堀を歩いているとき、しげみでじっとしている親カルガモを偶然発見してしまった。

Kamo_1

とりあえず写真を撮ったが、マスコミ慣れしているのか、近寄っても微動だにしない。このズ太さである。野ネズミ・ノラ猫なにするものぞ、である。このズ太さがあるかぎりはカルガモ親子の歴史は続くだろう……、といきたいとことだが、ここで気がかりなことがある。

最近、日本で年々認知度が高まっている「ジビエ」である。

ジビエとはフランスの食文化で、野獣、野鳥の肉を食することを指す。野生肉料理ならではの独特のくさみと濃厚な味を海外旅行で覚え、「国内でも」とニーズが高まってきているが、カルガモもジビエの食材としてフランスでは当たり前のように食されているという。

グルメ人たちは「やっときたか、このブームが」と思うかもしれないが、カルガモ当人にとってはハッキリいって不吉な兆候以外のなにものでもない。

野ネズミ・ノラ猫に次ぐ新たな天敵の出現…! 飽食ニッポンの料理人たちが、アミを持って夜な夜な皇居のお堀をうろつく…。そんな光景を目撃された方、ぜひ編集部までご一報を!!(宮崎)

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