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2006年3月22日 (水)

量的緩和解除と中学公民教科書

中学公民教科書を読んでみて頭がクラクラしてきた。学力低下だ若者の無気力だと大人はいうが教科書に書いてあるのとは全然違う現実を恥をも知らずに若者に見せつけていれば、まともな青少年ならば勉強する気がなくなるか生きる希望を失う方がむしろ正しい。
例えば銀行の役割として多くの教科書は次のように書いている。

預金を集めて企業に融資する。融資先からの利息から預金者への利子を差し引いたのが金融機関の利益となる

何人かの高校生に「銀行が預金を呼びかけるCMを見たことがあるか」と聞いたらすべてないと答えた。大学生に聞いても同じだった。代わりに印象に残っているのはモビットだの何だのの高利貸しまがいのCMである。
「預金を集めて企業に融資する」のが銀行の役割ならば銀行はこぞって預金者集めをするべきである。しかし10代の若者はそうしたさまを一度たりとも見たことがない。教科書と現実が全然違うわけだ。
私は確かに「ボーナスは○○銀行へ」といったCMを見ている。小さな違いかも知れぬが社会が矛盾を抱えながらも最低限のルールに基づいていると確認できる機会がまったくないのとは大違いだ。今の子どもは「まったくない」のである。

日本銀行(日銀)のゼロ金利&先日までの量的緩和で銀行は預金を集めるという基本動作を忘れてしまった。ゼロ金利は「持ってけ泥棒」である。泥棒はいけないことだ。それをズッーと続けている。

「馬を水場に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」は格言である。しかし量的緩和は馬(銀行)の口をこじ開けて水を飲ませた。

この現象を出版社でいうとどうなるか。銀行の仕入れは預金(日銀貸し出しも含む)が唯一なので、印税、印造、デザイン代などのすべてがタダになるどころが無理矢理紙や筆者を押しつけてきて「さあ本を作れ」というに等しい。別に仕入れ金額云々で本の善し悪しが決まるわけではないが掛かりがないならばタダ同然のしょうもない本でももうかるからいいかとなる。退廃が生じる。

実際に銀行員は平然と取材にこう答える。「貸出先がないんじゃ預金を集めても仕方がない」「預金保険機構への支払いが増えるだけだから預金のボリュームはいらない」と。公民の教科書のような信用創造を担っているとの気概はどこにもない。
一方で押し貸しをさばくべく小社のような零細にまで最近はメガバンクが回ってくる。かくしてメガバンクは兆単位の利益を上げる。教科書に書いてある働きを怠っていて大もうけしている。若者が「やってられない」と感じて同然だ。

日銀の働きについて公民教科書は公定歩合や公開市場操作などを紹介している。公定歩合!ただ今15歳の中学生は公定歩合が機能しているさまなど一度だって見たことも聞いたこともない。それを教えるのはウソを教えているのと同じだ。
では教科書がウソを付いているかというと文字通りの「教科書通り」であって間違っていない。だったら現実がウソをついているのだ。歪んでいるのだ。現実とは私たち大人が作り上げている。だったら教科書に「なおここに書かれている機能はずっと死んでいる。理由は大人がずっとウソをついているからだ」と明記すべきである。ゴメンナサイの一言も必要だな。

あの・・・・。これこそが本当の意味での教科書問題なんではないでしょうか。

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