« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月

2006年3月31日 (金)

ニフティサーブのパソコン通信最後の日

今日をもってニフティサーブの「ワープロ・パソコン通信」サービスが終わる。同時に長年愛用していたNIFTY MANAGERも使えなくなる。午前0時をもって「大きな古時計」みたいにつながらなくなるんだろうな。その瞬間を見送るつもりだ。
そのNIFTY MANAGERを開いて各種サービスを回ってみる。主立ったものはなくなったかネットに移行していて既にサービス自体はガラーンとしている。すでに引っ越しが終わった後のように。

ワープロ・パソコン通信はいろいろなものをもたらしてくれた。今ではE-mailまたは単にメールと称する存在を「電子メール」として普及させた。文書がリアルタイムで送受信できる快感はすばらしかった。
電子メールをファクスに送る機能も便利だった。何せメールが当たり前の時代ではなかったので相手方がファクスという場合も多かったから。ニフティからのファクス送信は鮮明だとほめられて我がことのようにうれしかった。

仕事柄でいうと朝日・読売・毎日の新聞検索は画期的であった。もう縮刷版と格闘しなくて済むと思うと時間に応じる従量制料金という魔物のような制度を差し引いても便利だった。毎日時代の自分の記事を検索してヒットした時は子供じみているがうれしかったなあ。日外アソシエーツや帝国データバンクの資料の活用も便利だった。

アクセスギフトという現在の電子マネーのような存在やフリーないしはシェアウェアがダウンロードできるライブラリ機能も楽しかった。当時はギガだテラだなど予想だにせぬキロからメガへの時期であるから今から思えばオモチャみたいなソフトも多数あったがアマチュアが遊び心で作った付随ソフトが洒落ていた。まるでゲームの草創期のようだった。

フォーラムで話し合われた内容はログとして保管されてきた。フォーラム自体も次々と開設されて電子会議室に集った。チャット機能はリアルタイム会議と言った。

こうした機能のほとんどは今ではネット上で再現できる。しかし失ったものもある。それはニフティサーブに集った者である同士の連帯感や安心感である。多くが実名とハンドル名とプロフィールを公開して自己紹介していた。フォーラムのオフ会で初対面同士が個人宅にお呼ばれするのも当たり前にあった。牧歌的だったのだ。
遡って推し量るにタダの民間企業が提供するサービスに参加しているというだけで実名とプロフィールを知らせてしまうのは危険だったはずだ。でも当時は平気というか当たり前だった。
買ったパソコンが陳腐化したので何とか改造したいと思えばそうしたフォーラムが機種ごとにあって改造のあの手この手を熱心に教えてくれた。チャチャは1つもない。信頼感と安心感が満ちていた。ワープロ・パソコン通信だからなのか、時代がそうだったからなのか。

とにもかくにも一世を風靡したワープロ・パソコン通信は終わる。代わりが巨大化、匿名化、無法化したインターネットである。そこには漠然としながらも確かにあった信頼に委ねる安心感ではなく絶えず荒らしやウィルスにさらされる恐怖を避ける「自己責任」が要求される。「安全はタダ」から急速に「自己責任」を問われるようになった世相の変化に一致しているようでもある。
考えてみればニフティ株式会社による情報独占を無邪気に信じていたのも不思議な話だ。だがあらゆるパソコン通信の融合体との側面があるインターネットにはニフティ株式会社のように悪さをすれば責められる主体さえない。これがドンドン肥大化してやがて通信と放送をも飲み込んでいくであろう。
今日はワープロ・パソコン通信最後の日だ。だが「最後の日」はここに止まるまい。いずれ多くの既存の通信・放送・報道分野の「最後の日」が続く。その先に何があって何が起こるのか誰にもわからない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

06年フランス雇用紛争と「フランシーヌの場合」

ブログを書き始めてから「今日は何の日」を何となく意識するようになった。今日は3月30日だ。3月30日といえば「フランシーヌの場合」である。
「フランシーヌの場合」は1969年6月に発売された作詞いまいずみあきら、作曲郷五郎のフォークソングで新谷のり子が歌って大ヒットした。私はこの年7歳。それでも覚えている理由は歌詞の「3月30日の・・・・」が強く印象に残っているからだ。また曲の合間に挿入されているフランス語のニュースナレーションも耳に残った。
歌詞の背景は以下のようである。フランシーヌ・ルコントという30歳の学生(女性)が1969年3月30日にパリで焼身自殺をした。自殺の際にナイジェリアのビアフラ飢餓に関する記事の切り抜きを持っており、また死んだ場所がヴェトナム戦争当事者が話し合っていた拡大パリ会談の付近であったことからヴェトナム戦争およびナイジェリアのビアフラ内戦に抗議しての自殺とみられる。
いわば樺美智子さんのフランス版だと認識していたら調べてみると樺さんが亡くなった6月15日をあえて発売日に選んだというのが真相らしい。

ヴェトナムはフランスが旧宗主国だからフランシーヌが心を痛めていたのはわかる。ビアフラ飢餓はイボ族を中心としたビアフラ共和国設立という分離独立運動を認めないナイジェリア政府軍などとの戦いの結果として大量に発生し総数約200万人ともいわれる。フランスのドゴール大統領はビアフラ側に好意的で武器の供給などで支えた。

フランシーヌは精神に障害を負っていたとも推測され真意は今ひとつハッキリしないが焼身自殺までして政府の対応を指弾する雰囲気がフランスに充満していたと想像するにかたくない。前年の68年はフランス5月革命が発生している。労働差別や反戦、大学の自治などを要求した学生と労働者が1千万人規模でストライキとデモを打ち、ドゴールは軍を治安出動させる一方で要求のかなりを受け入れた。
似た動きは日本でも70年安保闘争でみられ、アメリカのWoodstock Music and Art Festival(ウッドストック)の原動力にもなった(69年)。

そして2006年の今、この「5月革命世代」の子ども達が再びフランスで大規模ストライキおよびデモを連発している。原因はドゴールならぬドビルパン首相が打ち出した若者向け雇用制度(CPE)への大反発だ。26歳未満の雇用者は2年間理由なしで解雇できるという内容で雇用刺激策ではあるが対象になる若者や労組からは悪法以外の何ものでもなく5月革命と同様に差別的労働環境打破がキーワードにある。
フランシーヌの年齢から計算すると現在のフランス雇用紛争は彼女の子ども世代より若干下かもしれない。だが自由や自主が脅かされる時に街頭に飛び出して抗議するスタイルは変わっていない。
フランシーヌの場合はビアフラ戦争が大きな動機とみられるが現在ならばさしずめイラクの超政情不安だろう。これはフランスの隣国イギリスで開戦3周年をきっかけにイギリス軍撤退を求める大規模デモが発生した。
イラクはいうまでもないがドビルパンの政策もアメリカ様式(グローバリズム)の採用だ。それに反対する欧州の民がいる。五月革命のテーマは「反グローバリゼーション」だった。現在使用されているグローバリズムとは若干の意味が異なるが世紀を超えて音と情熱はつながっている。

不謹慎を承知でいえば「うらやましい」。わが国の就職および労働環境は小泉政権に入って劇的に悪化したのに政権打倒の大規模デモやストが起きる気配がない。ないどころかストの1つでも打てば袋だたきにされそうな世相だ。打倒小泉の代わりに小泉が打倒せよと指し示した「抵抗勢力」をいたぶって喜んでいる。
では私はデモやストの発起人になったり参加者になるべきかと何度も自問した。だが私は編集者である。だから紙つぶてや文章で抵抗するのが正しかろうとの結論に達している。私は独身子なしだが子ども世代から後になって何やってたんだと言われたくないので

「フランシーヌの場合」に戻ろう。ビアフラ戦争は結局フランシーヌの死の翌年にビアフラの無条件降伏で終わった。その処理にあたった1人がイボ族に比較的近いキリスト教系のヨルバ族出身のオルシェグン・オバサンジョ。現在の大統領である。
オバサンジョは現在は民政を率いてナイジェリアの小康状態を生み出しているが軍政時代の圧政と民政下での腐敗、民族間、宗教間の衝突は収まっていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月29日 (水)

政界における東大神話の崩壊

予算が成立して早くもポスト小泉の報道が踊るようになった。そこで気づいたのだがかつて政界のエリートコースだった「東大→官僚→衆議院議員→首相」の原点である東大卒の首相が最近めっきり減っているのだ。
まずここで戦後の歴代首相の出身大学を列挙してみよう。なお旧制は新制大学名に置き換える

東久邇稔彦→陸軍大学校
幣原喜重郎→東大
吉田茂→東大
片山哲→東大
芦田均→東大
鳩山一郎→東大

とまず55年体制成立までは敗戦直後のその場しのぎの皇族内閣であった東久邇内閣を除いて全員東大卒だった。

石橋湛山→早稲田
岸信介→東大
池田勇人→京大
佐藤栄作→東大

このあたりが高度成長期の内閣である。石橋と池田が非東大だがいずれも短命だった。

田中角栄→大学を出ていない
三木武夫→明治
福田赳夫→東大
大平正芳→一橋
鈴木善幸→東京水産

いわゆる「三角大福」は学歴が皆違う点でもライバルだった。

中曽根康弘→東大

現在の小泉政権を除いて長期間政権にあったのは吉田、佐藤と中曽根であるがいずれも東大卒。ここも「首相は東大」の印象を強めている原因か

竹下登→早稲田
宇野宗佑→神戸
海部俊樹→中央から早稲田へ編入
宮澤喜一→東大

記者の学歴を気にすることで知られた宮澤氏だが彼を最後に実は東大卒の首相は出ていない。

細川護煕→上智
羽田孜→成城
村山富市→明治

細川非自民連立政権の登場によって自民党から首相が出せなかった3代は東大はもとより早慶からも首相に就いていない。

橋本龍太郎→慶應義塾
小渕恵三→早稲田
森喜朗→早稲田
小泉純一郎→慶應義塾

最近は早慶戦である。意外なことに橋本政権まで慶應出が首相になることがなかった。早稲田は体調不良で短期政権となった石橋湛山を含めて竹下、海部、小渕、森と最近では盛んに首相を生み出しているが、いずれも短命ないしは軽量、およびその両方というのは偶然の一致だろうか

なおポスト小泉を競うとされる安倍晋三官房長官は成蹊大学で福田康夫元官房長官は早稲田だ。安倍・福田両氏に大きく出遅れている感のある「麻垣康三」のうち谷垣禎一財務大臣だけが東大。ちなみに麻生太郎外務大臣は学習院だ。

ありえないが一応紹介しておくと野党第一党の前原誠司代表は京都大学。後を襲う可能性が最も高い小沢一郎氏は慶應義塾である。

東大はもはや1国のリーダーを生む力がないのか。東大卒が首相になれなくなったから日本はダメになったのか。そもそもこうした議論自体が無意味なのか。よくわからないが宮澤内閣総辞職の1993年から7代約13年にわたって東大が首相を出していないのは事実だ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月27日 (月)

教育基本法に愛国心を書くは無用とWBCが証明

民放地上波が日本のWBC優勝を引っ張る引っ張る。とくに日本テレビがすごいというかひどいというか。今やお荷物になりかけている読売巨人軍の視聴率挽回の布石であるのは明々白々だが日本代表メンバーに選ばれたのは巨人では上原浩治投手だけということを忘れてないか?
確かに上原投手は活躍したが彼は先発投手だから中5日でしか披露できないのだ。開幕から最初の2週間ぐらいは毎日投げさせたいだろうね。

韓国とのやり合いもしばしば報道されている。やれイチロー選手の発言が日帝36年を想起させるだの「3回連続の敗北は許されない」との言は侮辱だのと吠える。そんな政治的意図があるわけないじゃないか。負けられないとの意思表示はむしろ韓国を自分の大いなるライバルとみなしての賛辞じゃないかと日本側は反論する。
韓国の野球関係者が日本の優勝を「恥ずかしい優勝」と言い放ったのに反発する日本人もいる。その言いぐさは何だとね。でも2次リーグ全勝の我が韓国が1勝2敗の日本の後塵を拝したのは納得いかないし、よくよく考えればその意味では「恥ずかしい優勝」との指摘は当たっているかも。
でもそれを許したのは肝心の準決勝で敗北した韓国チームなのだよと引き取って「恥ずかしい準決勝敗退」よりはましだと打ち返すのも可能だ。

だけど。口汚いやりとりだけれどもいいじゃないかというのが私の思い。だって侃々諤々の議論を口角泡とばして延々続けてもテーマはしょせん野球だからだ。「政治的・社会的には何の意味もない大ニュース」という言い方があるがまさにそれだ。
喜怒哀楽をぶつけ合ってもお互いに国家の何かが揺らぐわけではない。万一揺らぎだしたら揺るがした側がアホウ呼ばわりされて終わりである。だから大いにやってよしだ。

ナショナリズム=愛国心というのはあるんだなと痛感した出来事でもあった。自ら所属する民族や国家は1番だという思いは草の根で誰もが持っているし、それが証明されれば今回の日本の報道のようにバカ騒ぎとなり、挫折すれば韓国のように嫌みの一つもいいたくなる。でもそれが極限まで達しても「しょせん野球」との安心感があって健全だ。
愛国心は突き詰めると己が民族・国家が世界に冠たる唯一最高の存在だから他は従わねばならぬという強烈な選民意識を生じ、それがかなわぬと見るや戦争になりかねない。その意味で危険思想だが無くすことは誰にもできない。
だからスポーツがある。一部に今回のWBCはナショナリズムを高揚させたと分析する向きもあるが高揚したとしてもアナウンスの方向ではなくカタルシスである。今回をきっかけに野球でも日韓定期戦が開催されるやもしれぬが何度やっても「しょせん野球」だから構わない。
さあ罵り合おうではないか。それで満足しているうちは平和が続くのだから。

もう一つの思いもある。近年教育基本法を改正して愛国心との文言を入れ込もうとの動きがあるがWBCの結果で不要だとわかった点だ。日本人は明らかに愛国心を持っている。
引っ張る引っ張る民放のWBC日本代表への美辞麗句に飽きることなく陶然としている国民のどこに「愛国心がない」などとレッテルが貼れるわけ?
むしろ書き入れるまでもなく愛国心は消せぬ想いとして断固として存在するとわかった。そこに二重に愛国心を強調すれば先に書いたような選民意識という了見の狭い愛国心が素朴な愛国心に取って代わる。それが大手を振ってバカみたいに肥大化してボロ負け戦争をやったのは我が国ではないか。
教育基本法に愛国心を入れたい政治家に聞きたい。あなた方の考えでは日本人には愛国心がないか薄いかとの前提が不可欠だ。だったらWBC優勝でテレビ画面で映し出される人々の熱狂は何に発するのかを説明してほしい。
街のおっさんや野球のルールも知らないギャルでさえ世界一世界一とはしゃぎ回り号外を奪い合う動機の原動力が何かを言い当てられたい。
選手でも何でもないタダの一般人が代表選手に乗り移った気分になって代表の勝ち得た栄冠を自らの偉業のように感じて喜び、誇る。民族や国家に対すると一体感いった感覚なくしては起こりえない思い込みだ。だって自分ではバットの1回も振ってないんだよ。それをナショナリズム=愛国心といわないのならば別の愛国心の概念があるということになる。

あるいは教育基本法に愛国心を入れたい勢力が考えているのはそれか。でもそれは何だ。「日の丸背負った代表選手の活躍はしょせん人ごとと関心を抱かない愛国心」ってか。そんな概念は知らんぞ。そうだとしてそれを基本法に入れて何になるのだ。無為の連続でしかなかろう。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2006年3月25日 (土)

ガセメール記者の罪深さ

永田寿康議員に「堀江送金メール」のガセを仲介したフリーライターの名が懲罰委で明かされた。公の場での公表ということでマスコミ各社も一斉に実名報道に踏み切っている。
永田議員の口から情報提供者の実名が明かされた場合どう考えたらいいか数日来考えてきた。当初永田議員が訴えていたように情報源の秘匿は表現の自由を守るには不可欠である。私は「表現の自由原理主義者」だから本来は反対しなければならない。しかし今回だけは仕方ないかと断腸の思いである。
まず仕方ないとした理由を述べよう

1)ガセメール記者はガセと知っていて提供した
永田議員は「だまされた」と発言している。彼がいまさら嘘を付く理由はないので実名の人物から情報を提供され、その真偽を確認しようとして不首尾に終わり、結局はだまされたというのは間違いなかろう。
情報源が何らかの情報を報道目的で(国会での追及も広義の報道として)提供した場合には暗黙の了解として情報源が少なくとも主観的には事実と信じている内容でなければ話にならない。ところが今回の事件では最初からガセとわかっていての提供である可能性が濃厚だ。となると守るべき情報源とはいえない

2)厳密には情報源ではない
先の文書で便宜上ガセメール記者を情報源と例えたが正確には情報仲介者である。今回の事件では情報源は仲介者である彼しか知らない。したがって仲介者の実名を挙げても、また国会で証人喚問をしたとしても情報源は誰かを詰め寄らない限り情報源は守れる。これが1つ。
もう1つは、これが深刻なのだがガセメール記者が情報源からの情報を加工したか否か。もしや情報源と仲介者は同一人物ではないかという点。情報を加工していなかったとすれば情報源自身が最初からガセを提供したわけだから1)と同様に守るほどではない。加工していたならばガセメール記者の悪意は明らかであるから、というよりも仲介者ですらないのだから守ってやる必要はない。同一人物だったら論外である

3)フリーライターの社会的地位を失墜させた
食うや食わずやの極貧ライターから大御所まで今回のガセメール記者が「フリーライター」と報じられているのに激高している。あんな奴と一緒にしないでくれと叫んでも胡散臭い目で見られている。そもそも大マスコミの記者も含めて出身は羽織ゴロなのだから正味で胡散臭い仕事なのに、だましたり裏が取れない情報をまき散らす危ない職種とのレッテルを上にかぶせられてはかなわない。
ガセメール記者のような人物はフリージャーナリズムの世界においても風上にも置けない腐ったミカンだと明らかにしないとフリージャーナリズム自体が萎縮してしまう。それを保つためには実名暴露もやむを得ない

4)出版界にドロを塗って損害を与えた
報道によるとガセメール記者は大版元の雑誌にかつては記事を書いてはトラブルを起こしてきたという。大版元の編集者さえだまされる、ある種の能力があった人物であろう。
永田議員が一杯食ったガセメールも情報源と接触できるのはオレしかいない、絶対に自信があると断言したという。情報確認で一番適切なのは堀江貴文被告に真贋を聞くことだが身柄が取られてできない。武部勤幹事長の親族にまつわる疑惑そのものは既に出回っていた。絶妙な上手なタイミングでガセをつかませる能力が高いのだ。
その結果として何が起きたか。永田議員の辞職が甚大な表現の自由の侵害になるのは15日の「永田寿康議員は絶対に辞職してはならない」に書いた通り。それ以前に彼のようなガセ記事のお陰で民事の名誉棄損における損害賠償請求額が巨大化しているのだ。これも以前に書いたが若干の補足をしておく。
出版界は上は音羽と一ツ橋から下は小社までオールジャパンで売上げが雑誌・単行本を合わせて3兆円に届かない小さな市場である。パチンコだけで30兆円市場だとの比較をしてもらえればわかってもらえよう。民事の名誉棄損はそうだと感じれば誰でも起こせる。原告側の損害賠償請求も何十億円などという例もある。弁護士への着手金は請求額に応じるのが普通なので訴えられただけで零細出版社は存亡の危機に陥るのだ。こうした風潮を助長した一端にガセメール記者がいる。
しかも彼は昨年設立した「出版社の経営者」とも報じられている。つまりフリーライターのみならず出版ジャーナリズム全体をも貶めているのだ。

と実名報道を許容したとはいえ断腸の思いでもあるのだ。ここで実名を書かないのはせめてもの抵抗である。何のための抵抗かというと自分でもよくわからない。ガセメール記者をかばい立てする気など毛頭ない。死んじまえ恥知らずと叫びたい側に私もいる。それでも、それでも・・・・なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月24日 (金)

U2と「やすきよ漫才」

アルバムのHow To Dismantle An Atomic Bombは何回も聞いた。Vertigo 2005/U2 Live From ChicagoのDVDも興味深く見た。サーチライトが私に当たったら気絶しゃうとの女性ファンの声も拾った。BonoをPersons of 2005に選んだTimeの記事も読んだ。後は来日コンサートで確認するだけだったが延期となったので今ここで結論を述べよう。

その前に何を考えていたか紹介するのを忘れていた。先のグラミーで主要を含む5部門ノミニーにして全勝という評価は正しかったのか・・・・すっとずっと悩んでいた。お前が悩んで何になるとの突っ込みは止しにしよう。

で結論。やっぱり褒めすぎだと思う。「思う」とあいまいにしたのは言い切れない何かがあるから。私はU2のファンである。そのスタンスから考察して書いているのを留意いただけるとありがたい。

U2を、というよりもBonoを称える、称えたくなる心理とは何だろう。それがあるから、つまり純粋に音楽性だけではなくTimeまでほめたくなる付加価値とは何だろう。プラスアルファがこのバンドを評価せずにはいられない高みに誘っているとすれば「褒めすぎ」という結論になるはずだ。
いろいろ思い当たってみた。で素っ頓狂ではあるがU2とは横山やすし&西川きよしの「やすきよ漫才」に近いのではないかとの見立てに至った。
ロック界におけるThe Beatlesはエンタツ・アチャコであろう。それまでもあったロックンロールをロックという分野に自生させ特有のスタイルを確立し、何よりもそれまでとは比較にならないほどのファン層を獲得した。チームを組んでいた時期が驚くほど短いという点でもThe Beatlesとエンタツ・アチャコは共通する。
The Beatles以来の習いとしてイントロとサビ部分の分離や強弱、Beatles後期に顕著となったアルバムコンセプトの概念などは、その後のロックで良くも悪くも呪縛となった。エンタツ・アチャコのしゃべくりだけでのボケ・突っ込みの概念と同様に。
U2の、つまりBonoのスタイルは、この呪縛を部分的に打ち破ってきたといえよう。つまりイントロとサビといった分離がBonoの歌唱では不可能だからだ。全部サビにも聞こえるし、すべてがイントロだといってもあながちおかしくない。強烈なシャウトがサビといえばサビかもしれぬが、そこまでがイントロというわけではない。こうした試みはパンクで最初行われたがBonoの場合、初期はともかく現在はパンクには位置づけられない。
「やすきよ漫才」もまたやすし復帰後はボケ・突っ込みの区別がつかない独特のスタイルを作り上げた。その再生は誰もいまだにできていない。Bonoはボケ・突っ込みのフュージョンとなったやすし・きよしを1人でやっているようなものだ。「1人でやすきよ」ってのは凄いな。

ここはファンによって異論もあろうがU2はアルバムによって音楽性や完成度に差があるバンドでもある。1世代前のNeil Youngに似ているといえば似ている。ただし2000年のAll That You Can't Leave Behind と今回のHow To・・・・あたりが一応の結節点ではないかとの予感がある。
かつては演奏が下手だとかファンは難解なだけで実は内容のない歌詞を勝手に解釈して自己満足しているだけだとか、仲間の結束を誇っているようで結局Bonoは啓蒙専制君主にすぎないとか、いろいろいわれたが前世紀末からの政治的・社会的発言と行動が文化人としての彼の地位を高め、間違っても「難解なだけで実は内容のない歌詞」とは言えない雰囲気になってきている。
やすきよの漫才も恐らく最初は苦し紛れに決行したのであろうが漫才ブームなどのムーブメントが後追いしてきた結果として神格化され、今や芸術の領域で語られている。U2もその域に踏み入れつつある。

でもなあ。問題はそれでいいかだ。一度そうなると自己変革は難しい。「下りられない」と言い換えてもいい。BonoがBonoをパクるような状況になってもグラミーは、むしろ故に安心して与えられ続ける。私はバラツキがあるというか、脈絡がないというか、そうした時代のU2の方が好きだった。すごくお金がないと一目瞭然のPVが楽しかった。伝統芸能にならないでほしいと願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月23日 (木)

すいません

いろいろな意味で一杯一杯。

朝から何も食べずに日付をまたいで午前2時をすぎても、やるべきことが終わらない。終わらないうちに明日(じゃない!もう今日だ)やるべきことが迫ってきている。
このままでは終電車を出す前に始発の時間が来るぞ。そんなことがあるかって?JR車掌の斎藤典雄さん(小社スター作家)によると実際にあったんだって。だからありえない話ではない。でもあってはならないのも事実だ。

時間は正確か不正確か。ロミオとジュリエットのように永遠の一瞬もあれば無意味な50年というのもあり得よう。
事実として私は30代後半から40代前半の、働き盛りだか何だか知らないが、とにかく多分何かの盛りだったに違いない時期、日本の東京で過ごした。その間の日本の首相は小泉純一郎という人で東京都知事は石原慎太郎という人だった。
ああ何という無為。「人間は獣だ」首相と「人生は差別だ」都知事を二重に抱えて、しかも2人とも人気者で、私は始発の時間が迫っても終電車が出せない。

だからどうしたって?時間は不連続だという概念は以上のように証明し得るが・・・・いや証明ってほどの文章でもないから「あり得る」とはいえようが、一方で容赦なく時を刻む「正確な時間」もまた厳然と存在すると痛感している。

中身が全然ない文章を書き殴ってすいません。要するに今日は連日の駄文でさえ書けないほど追いつめられているってことを回りくどく書いただけです。明日からは立て直します。今日はこれで勘弁を。

そういえば先日の強風で腰を打ってしまった。文字通り吹けば飛ぶような男にいつの間にか成り下がっていた。吹けば飛ぶような会社とともに重量感はゼロ。そのくせやるべきことは山。生きるってのはそういうことなんですかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

量的緩和解除と中学公民教科書

中学公民教科書を読んでみて頭がクラクラしてきた。学力低下だ若者の無気力だと大人はいうが教科書に書いてあるのとは全然違う現実を恥をも知らずに若者に見せつけていれば、まともな青少年ならば勉強する気がなくなるか生きる希望を失う方がむしろ正しい。
例えば銀行の役割として多くの教科書は次のように書いている。

預金を集めて企業に融資する。融資先からの利息から預金者への利子を差し引いたのが金融機関の利益となる

何人かの高校生に「銀行が預金を呼びかけるCMを見たことがあるか」と聞いたらすべてないと答えた。大学生に聞いても同じだった。代わりに印象に残っているのはモビットだの何だのの高利貸しまがいのCMである。
「預金を集めて企業に融資する」のが銀行の役割ならば銀行はこぞって預金者集めをするべきである。しかし10代の若者はそうしたさまを一度たりとも見たことがない。教科書と現実が全然違うわけだ。
私は確かに「ボーナスは○○銀行へ」といったCMを見ている。小さな違いかも知れぬが社会が矛盾を抱えながらも最低限のルールに基づいていると確認できる機会がまったくないのとは大違いだ。今の子どもは「まったくない」のである。

日本銀行(日銀)のゼロ金利&先日までの量的緩和で銀行は預金を集めるという基本動作を忘れてしまった。ゼロ金利は「持ってけ泥棒」である。泥棒はいけないことだ。それをズッーと続けている。

「馬を水場に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」は格言である。しかし量的緩和は馬(銀行)の口をこじ開けて水を飲ませた。

この現象を出版社でいうとどうなるか。銀行の仕入れは預金(日銀貸し出しも含む)が唯一なので、印税、印造、デザイン代などのすべてがタダになるどころが無理矢理紙や筆者を押しつけてきて「さあ本を作れ」というに等しい。別に仕入れ金額云々で本の善し悪しが決まるわけではないが掛かりがないならばタダ同然のしょうもない本でももうかるからいいかとなる。退廃が生じる。

実際に銀行員は平然と取材にこう答える。「貸出先がないんじゃ預金を集めても仕方がない」「預金保険機構への支払いが増えるだけだから預金のボリュームはいらない」と。公民の教科書のような信用創造を担っているとの気概はどこにもない。
一方で押し貸しをさばくべく小社のような零細にまで最近はメガバンクが回ってくる。かくしてメガバンクは兆単位の利益を上げる。教科書に書いてある働きを怠っていて大もうけしている。若者が「やってられない」と感じて同然だ。

日銀の働きについて公民教科書は公定歩合や公開市場操作などを紹介している。公定歩合!ただ今15歳の中学生は公定歩合が機能しているさまなど一度だって見たことも聞いたこともない。それを教えるのはウソを教えているのと同じだ。
では教科書がウソを付いているかというと文字通りの「教科書通り」であって間違っていない。だったら現実がウソをついているのだ。歪んでいるのだ。現実とは私たち大人が作り上げている。だったら教科書に「なおここに書かれている機能はずっと死んでいる。理由は大人がずっとウソをついているからだ」と明記すべきである。ゴメンナサイの一言も必要だな。

あの・・・・。これこそが本当の意味での教科書問題なんではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月21日 (火)

洋楽的萌えドルを考える

The Pussycat Dollsが大変である。アルバムPCDをさっき聞いた。これでもかという美女ぞろい。しかもおミズっぽい。何しろ6人ともに「ドールネーム」が付いている。ドールネーム以前にグループ名からしてヤバいではないか。
モデル、歌手、ダンサー、オーディション組と経歴はさまさまだがバラード系まできちんと歌い込める実力は大変なものだ。
つい最近までアメリカ版モーニング娘。との認識があったがメンバー交代を繰り返すたびに幼稚化しする娘。に対してクールさを研ぎ澄ましていくThe Pussycat Dollsのプロジェクトは正しい。
思えばつんくも娘。では当初クールを狙っていたが福田明日香の脱退と安倍なつみのソロフィーチャーが失敗に終わってから大衆迎合路線へと舵を切ってしまった。対してThe Pussycat Dollsは10年以上のプロジェクトであり、当初の印象はバックダンサー、オープニングアクト、さらにはGwen Stefaniの妹分と属性でみられがちだったが長年かけた成果がついに結実してめでたい限りである。
と同時に今日における洋楽界のクール系の萌えドルとして同世代から中学生くらいまでの心をつかんでいるのは間違いない。The Pussycat Dollsを萌えドルにできるは幸せである。残念ながら私は年齢的にいけない。アキバには私と同世代が20代前後のアイドルに萌えているようだが私にはやっぱり無理だ。ていうか私と同世代よ。アキバで萌えて嗤われていることに気付よ。

では私の世代の萌えドルは誰だったっけ。Olivia Newton Johnをあげる人は多かろうが私の場合、彼女はちょっと年が上すぎる。1948年だから私よりも14歳年上。
何たって81年のPhysicalのPVが決定的であるのだが当時のOliviaは33歳だったのだね。最近来日したが計算すると57歳ということになる。何だかあってはならないような計算だ。

だったら誰だろう。やっぱりKate Bushかなあ。Oliviaよりも10歳若くて、つまり私より4つ年上で78年に20歳で出したファーストアルバムのWuthering Heightsは当時高1だった私には強烈だった。明石家さんまの「恋の空騒ぎ」のテーマ曲といったらわかりますかね。
歌詞以上に衝撃的だったのはその容姿の美しさである。危なっかしくて官能的で、そのくせ知的なジャケ写。その後のアルバムでもKateが獣を装うなど当時はそんな言葉さえなかった「萌え」の感覚をくすぐるアプローチだった。
楽曲の完成度も高かった。バックにPink FloydのDavid Gilmourがいたので当然だがプログレッシブな歌詞と曲の融合で迫ってきた。あの形容しがたい頭から抜けるような声とは裏腹に歌詞は難解かつ深刻で文学少年だった私の好みにもあっていた。
昨年Kateは何と12年ぶりのアルバムAerialを発表した。生きていたんだね。楽曲の確かさは変わっていない。ちょっと声変わり?した感じもするけど。

考えてみればMadonnaもKateと同学齢である。だからMadonnaを萌えドルとする人も多かろう。ただ私の感覚だとMadonnaはMTV世代である。床?にコロコロ転がってかわいらしかったBorderlineのPVが流れていたのは1983年。もう私は大学生になっていて、愛らしい姉さんというイメージはあっても萌えはしなかった。
その後のMadonnaは脱アイドル→アカデミー賞クラス女優の道を歩もうと心がけた。グラミーとアカデミーの両立はBarbra Streisandしか得ていない成功だ。だがアカデミーはラジーに止まり、最近では筋肉系歌手として異形をさらしている。人生はわからん。

で、その後は70年代生まれのThe Spice Girls当たりをはさんでThe Pussycat Dollsの登場と相なるわけだ。最後のまとめが実に雑となった。やっぱり自分が萌えてないとこのテーマで長々書く気がしない

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月20日 (月)

WBCで日本決勝進出

リンカーン大統領の遺訓を守って「アメリカのアメリカによるアメリカのためのWBC」を演出した当のアメリカがリンカーン大統領のように2次リーグで暗殺されてしまったWBCの決勝は日本とキューバが争うこととなった。

韓国選手の兵役免除が発表された後で連勝中の日本戦に6対0で敗れたという結果を見るにつけ9日の「韓国の兵役免除は本当にメダル取りの動機か」で書いた兵役免除の動機付けはあったと判断ぜざるを得ない。
そうそう。9日の記事で洞察すべき大切なポイントを忘れていた。それは兵役によるトレーニングの中断が野球生命に関わるのではないかという点である。
この答えを見出すのは難しい。例えば兵役のあった戦前の日本の職業野球から探してみよう。巨人軍の沢村栄治投手は1935年から始まった職業野球草創期から豪腕でならしたが兵役で手榴弾投げを強いられて肩を壊すなどして除隊後は見る影もなく球威が衰えていたと伝わる。
半面で戦後の1954年の優勝を牽引した通算215勝投手の「フォークの神様」中日ドラゴンズの杉下茂投手は旧制商業学校時点では何と弱肩だったが入隊中の手榴弾投げなどで沢村とは逆に肩が強靱になり、除隊後は見違えるほどの球威を得ていたという。

山田泰吉という人物がかつていた。東京・赤坂に「ミカド」という社交場を作ったなどで知られる伝説の商人だが、彼の姉が私の曾祖母にあたり私が幼少時には泰吉に抱いてもらった経験もある。泰吉のエピソードは沢木耕太郎の「馬車は走る」の1編にくわしい。
その曾祖母は夫とともに中部地方で大きな料亭を経営していた。そこにはドラゴンズの選手も入り浸っていて子ども時分の私の母は杉下投手が片手でいくつものリンゴを持つ「技」を見せてもらって喜んでいた。
手の大きさは天性であって兵役でそうなるわけでもあるまいから杉下の「軍隊で名投手になった」話は本当だと思われる。
沢村、杉下両選手は同じ手榴弾投げが正反対の結果になっているのも不思議というか皮肉というか。

などなどを勘案すると兵役は必ずしも競技人生にマイナスとは限らないわけだ。現にWBC韓国代表には除隊したレギュラーもいたから致命的というほどではなさそう。やはり「兵隊なんてやなこった」が最大の動機付けと位置づけて間違いあるまい。

アメリカにとってはこれほど皮肉なことはない結果となった。自らの国技の初代チャンピオンの地位を他国・他地域に譲るだに腹立たしいのに、その場を自国で提供する羽目となった。
しかも覇権を競うは旧敵国の日本と現敵国のキューバである。キューバ代表には論理的に大リーガーは存在しない。日本代表には本来は松井秀喜(ヤンキース)や城島健司(マリナーズ)、井口資仁(ホワイトソックス)などを送り込めたにも関わらず利害が相反して不参加。最大の理由はアメリカが3月開催をゴリ押ししたからである。
つまりアメリカ最大の野球リーグのメジャーの選手が日本の主軸に連なっていたら日本優勝で終わったとしても「主軸は大リーグだったのさ」と多少は溜飲を下げる要素もあったろうに3月開催で自ら芽を摘んでしまった。わずかにイチロー(マリナーズ)と大塚晶則(パドレス)の参加では説得力は薄い。

そのイチローである。考えてみれば彼は「栄光ある不遇」を常にかこってきた。高校野球ではさしたる活躍はできなかった。オリックス球団で残した「7年連続首位打者」との記録は前人未踏どころか恐らく空前絶後の大大大大大大大大大大大大大大大大記録であるにも関わらず(「大」の字はまだ足りないくらい)適当に遇されたとはいえない。
海を渡っって所属したマリナーズでは1年目こそMVPを獲得したがレギュラーシーズンでチームも100勝をあげるブッチ切りであったのにワールドシリーズにさえ進めなかった。その後のチーム力は下降の一途で2004年には大リーグの年間最多安打記録を更新したのにMVPに及ばない。
彼の「いくらでも期待してください」「見せるのはまだこれからです」などのハードボイルドな発言は「北斗の拳」の主人公の「オレの名前を言ってみろ」のようなもので要するに「まともに認めろ」とのルサンチマンが感じられるといったら穿ちすぎか。
WBCでも本人の入れ込みようとは逆に十分な結果が出ていない。だが決勝でキューバを破る大活躍をすれば「栄光ある不遇」から脱せられるかも。
アメリカもそれを望んでいよう。大リーグのスーパースターが敵国キューバを叩きつぶせば「どうだ。アメリカ大リーグのスーパースターが本気を出せば、しょせんアマチュアのキューバなんてそんなものさ」と言い訳できるからね。その意味で「イチローのイチローによるイチローのための決勝戦」とも言えよう。準決勝の3安打はその伏線か。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月18日 (土)

WBCでアメリカが負けた理由

野球の国・地域別対抗戦「ワールドベースボールクラシック(WBC)」の2次リーグで母国アメリカがまさかの敗退を喫した。

もともとWBCはアメリカが勝つように仕組まれていた。開催国はホーム。審判はメジャー傘下の3Aから。しかも身びいきのイカサマ野郎まで仕込ませる。日程もアメリカに都合よく設定。
バリバリの大リーガーのスタメンクラスがそろう国・地域と2次リーグでまさかの負けを食らえば国威に関わるキューバを自国とは別の2組に入れた。もちろんチームに腕利きをそれえてもある。

ちょっと待てよ。もしかしてこれが、つまり何もかもアメリカ有利の仕掛けがまずかったんじゃないの? だってこの設定で待ち受けるのはハリウッドではヒーローではなくヒールの役回りでしょう。
アメリカはいつもヒーロー気分で戦う。戦争吹っかける時も何だかだのヒールをこしらえて「よい戦争」を演出する。でもWBCでは逆だった。自分の豪邸で細工をあちこちに用意して葉巻ふかして取り巻きとともに待ちかまえる大男・・・・ってのはヒール以外のなにものでもあるまい。
反対に徒手空拳で悪役の豪邸に乗り込んでいくヒーローの役割に回ったのが韓国である。「スーパースターか兵隊か」という過酷な運命を背負っている点や多分アメリカ(ヒール)が最も無警戒だったという点などヒーローにふさわしい条件が偶然そろってしまった。

それにしても韓国は強い。私は野球にせよサッカーにせよ、団体競技で日本が韓国に勝ったという例をほとんど知らない。逆ならば今回も含めてしばしば目撃している。韓国は団結すると強いのだ。そのさまをみるたびに、いつもいつも不思議に思うことがある。これほど強い朝鮮民族が何で「日帝35年」の憂き目に遭ったのかと。
日本が支配されたのではなく日本に支配されたのだよ。きっと李朝末期というのは朝鮮史のなかでも1・2を争うほど国力が低下していたに違いない。人口減少社会に突入して成長が陰っている日本人も李朝末期は大切な研究材料かもしれない。

国内リーグの充実度ではトップ級の日米がスーパースターを集めて戦ったのに一方が2次敗退で日本だって滑り込みの4強というザマはなぜ発生したのか。試合を見た印象ではオールスターゲームのような豪華だが急造チーム特有のぎこちなさを感じる。
野球は団体競技のなかでも賭博性が高い。理由は

1)他のあらゆる球技に比べても投手という1つのポジションが勝敗を決する割合が飛び抜けて高い
2)3連打でも1点も入らない可能性がある一方で一振りで4点入ってしまうこともある

などだ。だからチームはいかなる時でも対応できるよう長く一緒にいるメンバーで構成した方が本当はいい。むろん強いチームが前提なので今回だったら日本一のロッテ球団の選手と監督を軸に足らざる戦力のみを都市対抗野球の補強選手制度のように他球団から借り受けるというのが私の考えるベストの方法なのだがいかがだろうか。

大変皮肉なことにアメリカの威容を見せつけるための大会だったWBCの4強は実に奇妙なメンバーとなった。まずアメリカが敗退している。その上で歯牙にもかけぬはずだった韓国、先の大戦で敵国だった日本、West Side StoryではSharksを構成して"America"を歌う側のプエルトリコ、そして政治的に敵対するキューバである。客は入るのかな。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年3月17日 (金)

表現の自由がなければ人は獣に堕す

嗚呼どうにも怒りが収まらない

国会議員の院内の発言を問題視して辞職すべきとする国民が6割もいる。一方で司法が言論を公然と弾圧する判決を下して憤慨する様子もない。なるほど小泉政権が続くわけだ。
惰民国家ニッポン。人を獣と同等の存在として扱う小泉構造改革を惰民はなぜ支持するのかがわかった。要するにヒトの格好をしていても脳ミソは獣なのだ。元が獣だから「人は獣だ」とのたまう「改革」が「わかりやすい」のだ。

人間はヒト科の獣である。と同時に人間は人間しかない「人間らしさ」を持つとヒト科は誇ってきた。「人間らしさ」とは「らしい」という抽象概念の存在そのものを指す。精神性と言い換えてもいい。
ライオンは自分の「ライオンらしさ」を追求する抽象概念を持たない。だから抽象概念や精神性はヒト科の獣か人間かを隔てる決定打である。
抽象概念および精神性はいかにして養われるか。それはヒト科とヒト科がコミュニケートすることから始まる。さまざまな表現で伝え、学び、考え、やがて発信する。その不断かつ永遠の営為がヒト科の獣を人間にするのだ。
高邁な思想からエログロなどのお下劣まで何もかもがこの「表現の自由」を絶対的な前提条件として成立する。正確にいえば「表現の自由」の自由度が高いほどコミュニケートは盛んになって抽象概念や精神性は高められるのだ。
4色オフセットで印刷したエロ本があるとしよう。そこに裸体写真が掲載されていたにしても所詮は4色分解された4つの版を組み合わせた「だまし絵」に過ぎない。それを見てエロい気分を味わえるのは抽象概念や精神性あってこそである。

我々が生きている世界の多くは抽象概念でできている。国家、政府、経済、文化、芸術、エログロ。不断のコミュニケートで考えて考えて作った文字通り「人工的」仕組みである。と同時にどの仕組みもまだ不完全である。したがってよりよい仕組みに高めるためにも高い自由度を保証した表現が必要だ。
ところが現時点の不完全な仕組みで利益を得ている者は「よりよい仕組み」をしばしば嫌悪し憎悪さえ抱く。それが自分の安楽な地位を脅かすから。だから権力の座にある者は表現の自由を制限しようとする。うるさく考えて発想する「人間」をヒト科の獣に近づけて餌付けさえすればなついてくるようにすれば己が地位は安泰だ。
だから啓蒙思想家は権力同士が牽制し合う分立構造を考案し、熱弁を振るい、印刷機の発明以後は文字で叫び、書き続けた。考えろ、考えろ、考えろと。あいつに我らを支配する正当性があるのか考えろ。あいつから自由になる権利はないのかと問いかけた。適当に餌付けされていたりムチで脅されていた大衆も聞いて、学んで、やがて声を上げた。民主主義の誕生である。

すなわち自由で民主的な精神生活を送りたければ表現の自由は絶対的に保障されなければならないし、獣に戻りたければそんな自由は必要ない。現に戦前の検閲下にあって庶民は獣の所業を強いられて多くはしたがった。
今も似たような国家をわが国は近隣に見る。それらを異常で劣等な国家と蔑んでいる。ところが蔑む当の日本人が表現の自由を削られて何とも感じていない。ならば彼の国を蔑む資格さえない。

表現とくに言論の自由は昨日述べたように国家公務員法違反、証言拒否罪などで牢屋行きの覚悟が必要なほど追い込まれている。個人情報保護法も同じ危険を背負う。
その上に刑事、民事の名誉毀損がある。刑事の名誉棄損と情報源の秘匿とのせめぎ合いは本田靖春の傑作ルポルタージュ『不当逮捕』に描かれた読売新聞の立松記者事件が有名だ。民事の名誉棄損も情報源を秘匿したままだと事実上確実に敗訴する。さらに損害賠償請求額はうなぎ上りで小社のような零細出版社などアッという間に吹っ飛んでしまう。

人類に似た存在に吏類がいると以前書いた。吏類の多くは人類そっくりに化けて不完全な権力にしがみついて蜜を吸って生きている。どうやら蜜を吸う時だけは『夕鶴』の鶴のように吏類本来の姿(どうやら醜悪らしい)に戻る必要があるとの噂だ。
醜悪な姿を人類に見られたらまずいから法を駆使して見せないようにする一方で見てしまった者を「みーたーなー」と迫って牢屋にぶち込むわけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

情報源秘匿を脅かす地裁暗黒決定

読売新聞記者が民事裁判の尋問で情報(取材)源の秘匿を理由とした証言拒絶を厳しく制限するとの決定を東京地裁が下した。情報源が国税当局ではないかとの疑問を前提として国家公務員法100条の「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」に抵触する可能性があるならば情報源の秘匿=証言拒絶はダメだというのだ。
この決定は民事裁判である。また国税当局は情報源を疑われていて罪を犯したわけではない。だが情報源の秘匿を問題とした判決・決定では1952年に上告棄却で確定した「石井記者事件」の悪夢をほうふつとさせる

記者として最高にして最低の倫理である情報源の秘匿は法的に保護されていない。1949年4月、長野県松本市の松本税務署職員の収賄容疑を書いた朝日新聞松本支局の石井清記者に対して松本市署は情報源をやはり国家公務員と見立てて石井記者に出頭を求め、さらに長野地裁で宣誓と証言を拒否したために長野地検は彼を刑事訴訟法161条「正当な理由がなく宣誓又は証言を拒んだ者は、10万円以下の罰金又は拘留に処する」証言拒否罪で起訴、地裁は罰金3000円の有罪判決を下した。
石井記者の東京高裁への控訴は原判決支持、上告は棄却されて確定した。これ以来、記者が国家公務員法100条違反を疑われる情報源の秘匿を理由に証言を拒否すれば有罪となる刑事上の判例が出来上がってしまった。ここはいまだに揺らいでいない暗黒司法の原点である。

14日の読売新聞記者に対する地裁決定は石井記者事件と違って民事上の証言拒絶だ。民事訴訟法196条が掲げる「証言拒絶権」には「証人は、証言を拒むことができる」例として「技術又は職業の秘密に関する事項について尋問を受ける場合」を掲げている14日の決定は読売の証言拒絶は「職業の秘密に関する事項」には当たるが情報源が公務員の場合は上記国家公務員法100条違反の可能性があるとの「特別な事情」があるから「例外」だというわけだ。
国家公務員と同様に守秘義務のある弁護士や公認会計士を情報源とする場合も同様だという。ムチャクチャな決定である。「お上の前では何ごとも隠し立てるな」って? そのお上がオイタをするから記者は公務員から取材をするのである。
しかも前記の石井記者事件の判例があって刑事訴追の危険があってなお果敢な記者は情報を求め、公益のために報道するのだ。

広く知られているように民事上の「職業の秘密」(民訴法197条および223条)は1979年の島田記者問題で一応の判例が確定したはずだった。
北海道新聞の島田英重記者の記事が民事上の名誉棄損と原告に訴えられて島田記者が情報源を秘匿したのに対して札幌地裁と札幌高裁はともに「新聞記者の取材源は『職業の秘密』と認め、最高裁も原告抗告を却下した。

この時に裁判所は情報源秘匿の権利を記者から奪えば情報提供者が恐ろしくて正確な情報を取材者に伝えられず、自由な言論が保てなくなるという「利益」の得失を公正な裁判実現という「利益」との比較で決められるべきとした。まったくもってその通りだ。

14日の決定の背景にあるのは情報源が公務員である場合という点を強く意識している。その点では石井記者事件の流れを汲んでいるが、刑事ばかりか民事まで、それを理由に「しゃべれ」というのは公権の乱用である。
いったいに公務員や守秘義務のある職種が、それゆえに知った不正や不祥事を上司などに報告したら組織は必ず処断すると証明できるか。できるわけがない。むしろ隠蔽を図るであろう。妙な言い方だが仲間内の不祥事をもみ消そうという動機自体は自然である。
国家公務員法100条は職務上知り得た情報で一儲けしたり、脅したり、特定の利益に肩入れするのがいけないから設けられているのは明白で、公益のための告発は「権力は腐敗する」の金言を待つまでもなくメディアの力を借りて外側から浄化する有効な行為に決まっている。

1978年、最高裁は毎日新聞の西山太吉記者が外務省職員から情報を得た問題に関して2審が出した国家公務員法111条の「(国家公務員を)そそのかした」者として懲役4月執行猶予1年の有罪判決に対する上告棄却で西山記者の有罪は動かさなかったが報道機関が公務員から国家機密を聞き出す行為は「真に報道の目的から出たものであり、その手段や方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為」とした。

するとその効能をメディアに認めないというに等しい14日の決定は読売新聞なんてゴロツキだと裁判所が認定したようなものだ。
西山事件で「正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びる」とされた「刑罰法令に触れる行為」「社会観念上是認」できない内容と暗に指摘されたと感じておかしくもなく即時抗告は当然だ。渡邊恒雄会長、いや今回は渡邊恒雄主筆と呼びかけるべきか。西山事件では1人の記者として決然とした姿勢をみせてくれたあなたには徹底的に闘ってほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年3月15日 (水)

永田寿康議員は絶対に辞職してはならない

このことは何回も書いているが、民主党を追い込みたい勢力からの主張はともかく、私のお仲間であるはずの反自民・非自民の側からも澎湃として「永田やめろ」サインが出始めているので改めて阻止しなければならない理由を述べる。
「読売新聞」06年3月2日に掲載された世論調査によると「送金指示メール」問題が「国民の政治不信を強めたか」との質問に対して「強めた」が68%いたという。確かにうかつな言動だったのは間違いはない。

本当は私だって永田議員自身のことなどどうでもいい。消えてくれて結構との気分もある。しかし事は永田議員個人に関わらないのが重大だ。
大げさでも何でもなく、こんな程度のことで(と敢えていう)議員辞職していたら法的に保障されている議院内の発言の自由という民主主義の根幹を揺るがす悪しき前例となる。

永田発言が軽率だったから懲罰動議が出た。結論は懲罰委員会で決まる。本来ならばそれでいい。ところが与党は懲罰委での決着を先送りするような質問状の送付などで長期化をはかっている。「送金指示メール」で引っ張るだけ引っ張れば民主が自壊するとの読みだ。
情けないことに与党の作戦通りの体たらくに民主は陥っている。先の読売調査では永田議員は「辞職すべき」という人は60%に上り「そうは思わない」は32%だった。こうした結果に浮き足立って渡部恒三国対委員長は10日、「腹を切る覚悟が必要だ」と語り鳩山由紀夫幹事長も「身の処し方はご自身の判断に委ねられるべき」と暗に辞職もありだと匂わせた。13日には前原誠司代表まで永田議員の自発的辞職を否定しない姿勢を示す発言をした。

民主党の所属議員には背骨はないのか。政治家は言葉が命である。それが封じられるいかなる謀略にも立ち向かわなければならぬ。だいたい先月末に永田議員の処分は懲罰委に委ねると決定したのだ。何をアタフタしているのだ。

「辞職すべき」の60%を気にしているとしたら民主は小泉政権のポピュリズムを笑えない。むしろ「そうは思わない」の32%を大切にすべきなのだ。渡部国対委員長の腹切り発言など笑止千万。それをいうならばボスだった角栄に進言すべきだったのだよ。

「そんな重大事ならば懲罰委をさっさと進めて煮るなり焼くなり決めてくれ。議員辞職は言論封殺だから認められない。辞職すべきという60%は愚民である。そうは思わないと考える3割強の賢人の支持こそ我が党の宝石だ」となぜ言い切らないんだ。

そもそも民主党の態度に疑いが入れられているのは永田議員が辞職するかどうかではなく背骨のないフニャフニャとしたところにある。最初は永田辞職→野田国対委員長辞任→前原代表の責任論への発展というドミノ倒しを恐れて元の永田辞職を封じたとの観測が伝えられた。本当かどうかわからないが責任論が怖くて永田議員の辞職を思い止まらせたとの憶測が生じること自体に無脊椎ぶりがうかがえる。
「国会議員の議院内の発言は最大限守られるべきだ」と最初から怒鳴っていればよかったのだ。最近の民主党幹部の発言を聞くにつれて当初のドミノ封じ論は正しかったのではないかとの疑いを濃くせざるを得ない。
民主党は守るものを間違えている。逆だろう。与党のメール問題長期化作戦に大反論する発言をすべきだ。確かに今の世論ではさらなる反発を生じかねないが、いいではないか。懲罰委を否定しているわけではないし言論の自由を主張して党が瓦解したら、ある意味快挙でさえある。

世論は移ろいやすい。あれほど話題になったイラクへの自衛隊派遣も最近ではめっきり話題にならなくなった。残ったのは自衛隊を海外に派遣したという事実だけである。「送金指示メール」問題も同じだ。半年もすれば国民の大半が忘れてしまう。そして残るのは「犯罪でも何でもない議院内の発言(ただし軽率)で国会議員が辞職した」という事実だけとなる。
そしてこの事実はやがて一人歩きして議院での政府・与党の追及の言論が弱ったり、勇気ある追及をした野党議員が「永田の前例」という切り札を得た権力側によって議院から叩き出される光景が頻発するだろう。そうなったら議会制民主主義はお仕舞いだ。

民主党のなかには永田議員は比例区復活当選組なので辞職しても衆議院議員数が減るわけではないとの「計算」もあるやに聞くが言語道断だ。自らの地位を貶める発想をして恥じない者は文字通りの恥知らずである。
永田議員は小選挙区と重複立候補して惜敗率が高かったから復活した。したがって「永田寿康」の名を書いた1票を投じた有権者も多数いたのだ。それを「1-1+1=1」という算数に堕して平気な神経が信じられない。

それにしても反自民とはつらいな。骨抜きの民主党の同情する気も起きない元官僚の失言議員の存在など本心では「消えちまえ」と叫びたいところだ。それを擁護する文章を書かなければならない。反自民のためには民主党を支持せざるを得ない。やっかいものを抱え込んだ重苦しい気分である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

サイコロの丁半バクチはまだやっているのか

ふと気になり、どうでもいいことだと忘れようとしてもどうにも忘れられないことってありますよね。ある日ふと思いついた。それが今回のタイトル。
考えてみれば指定暴力団の大半は山口組を除いて博徒を起源とする。博徒とはバクチ打ちである。バクチの王道といえば「丁か半か」のサイコロ賭博であろう。少なくともそうした刷り込みが私にはあった。

もろ肌脱いだねえさんがツボ振りの中盆を務めてサイコロ2つを盆ゴザに伏す。偶数に賭ける丁方と奇数に賭ける半方に分かれ木札(コマ)を買って勝負をし、帰りに清算する。手数料はあらかじめ差っ引かれて胴元に入る・・・・。

まあこんなところでいいんですかね。サイコロ賭博自体は今でも行われているがサイを3つ使うチンチロリンや1つのチョボー(またはチョボーイチ)ではなく興味はあくまで丁半だ。何しろ「四の五の言う」「出たとこ勝負」などと日常表現にまで膾炙したゲームだからな。
まずは警察庁広報に聞く。だがお公家様のサッチョーゆえか「丁半が何件摘発されたか」という個別のケースについては把握できていないとのお答え。では現場を踏んでいる警視庁(東京都警察本部)ならばどうかというとやっぱり「把握できない」という。
警視庁が統計上で把握しているのは「賭博」という罪種の認知件数や検挙件数などであり「丁半」で摘発されたケースがあるかどうかという項目はなく、したがってわからないという。現に担当者は「すぐには思い浮かばないなあ」とのお答えだった。サッチョーも警視庁も丁半などもはや眼中にないようだ。

そこで知り合いの東京圏のお巡りさん数人(退職者を含む)に聞くことにした。皆が声をそろえて「何でそんな下らないことを調べてるの」と怪訝である。警察官でさえ不可解がるので、その筋の人に取材するのは危険だと控えることにした。だって元々の動機が社会正義のためとか深刻な問題提起ではなく思いつきだから命をかけてまで取材はしたくない。ついでに七社会の記者に聞くのも止めた。こんなことでバカにされたくないので。
で、お巡りさん(多くは刑事経験者)によると、まず「もろ肌脱いだねえさんが・・・・」というのは今も昔も作り話ではないかということだった。「ともかく男だけの世界だぜ」という。サイコロ賭博に女性が参加した事例は最近でもあるらしいのだが「丁半コマそろいました」なんて世界には女性は来ないんだって。
ここで興味の95%ほどを失ってしまった。私もバカですねえ。もろ肌脱いだねえさんに本当は会いたかったのに。

次に地方ではともかく東京では丁半バクチのための賭博を開帳する博徒は1980年代からほとんどないんじゃないかと言っていた。歌舞伎町などで盛んな賭博はルーレットやバカラなどモダン?なものが主流だそうだ。50%の可能性を賭ける丁半バクチはゲーム性に乏しいために最近でははやらないとの推測も聞いた。
だいたい常設ではなく日時を限って賭博を開帳するには告知をしたり開帳時以外のスペースをいかに利用するかといった問題もあるようだ。確かにポスターを張り出すわけにもいかないし現に常設同然の違法賭博は存在しているから。
元々博徒は経済事犯である。言い換えれば893さんは経済や金融に強いのである。だから回転率の悪い箱での開帳は不経済と考えておかしくない。

かなり昔に丁半バクチを検挙した経験のあるお巡りによると木札をコマにするというのもまた、あったとしてもずっと前にすたれた風習だそうな。つまり我々が時代劇で見た光景はどうやらもう消滅したか、そもそも架空の設定と判断していいらしい。
そりゃそうかもしれない。いくら時代劇とはいえ今日盛んに行われている通りのレギュレーションをテレビで紹介したら結果的に犯罪を助長してしまうことになるからだ。だから架空の設定にしてある。実際にはない場面設定ならば、ないのだから犯罪は助長しない。

警視庁が「賭博」という罪種で認知した件数は年間約250件だ。意外なほど少ない。うち私が探している丁半バクチの開帳を含むとみられる「賭博開帳等罪」の認知は70件ほどだ。何もかも含めて70件。かなり廃れている丁半バクチが混じっていたとしてもわずかであろう。
ではまったくなくなったかというとそうとも言い切れないようだ。高齢者を中心に丁半の味が忘れられない人はいるらしい。ただし箱を借りて大がかりに行う例は思いつかず、やったとしても路上で賭け将棋のような小規模単位であり得るだろうとのことだ。東京なら山谷じゃないのと教えてくれた。
実はここでもめげた。仮に男ばかりの賭場であっても血気盛んな若い衆がいてこその賑やかしであろう。爺さまが道ばたでサイコロ転がしているのを見つけても別に面白くない。

それでも山谷に行ってはみた。しばらく歩き回ったが当然のごとくそれらしき雰囲気はない。花札をやっている人は見かけたが博徒が組織的に運営している感じではなかった。握っている風でもない。仮にそうだとしても今回の目的は丁半のあるなしなので花札は関係ない。
別の取材でずいぶん昔に知り合った簡易宿泊施設の関係者によると確かに時に丁だ半だとのかけ声は聞こえてくるという。でも本当に稀だそうな。
ちなみに宿泊施設内では絶対にやらせないという。かつてドヤと呼ばれていた施設も今では大半がこざっぱりした文字通りの宿泊施設の趣になっているし街中の人々の姿もいわゆる「ドカチン姿」は皆無に等しい。逆に外国人が予想外に多くいる。外国人ではダイスはやっても丁半はあり得ない。

地方をくまなく調べればあるのかもしれないが、あったとしても「もろ肌脱いだねえさん」はいないのでこの辺にしておいた。なお新聞社や通信社のデータベースで検索すると最近でもサイコロ賭博の検挙はあるらしいが全部開いて調べると金がかかって仕方がないから止めた。中途半端だって? 許してよ。だって「もろ肌脱いだねえさん」はいないんだから・・・・・(しつこいね)。

なお全国各地の読者の方で「うちの地元じゃあ盛んだよ」というのがあったら教えて下さい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

上杉隆さんへの濡れ衣

上杉隆さんの「『日本一のイエスマン』武部勤の正体」が『文藝春秋』06年4月号に掲載された。なるほど。こうした取材を精力的に続けていた結果、上杉さんは「堀江送金メール」の「ガセ記者」と疑われてしまったのか。

しかし上記の上杉記事は丹念な取材に基づく興味深い内容である。彼を「ガセ記者」とにおわせたのは私がかつて所属していた新聞社の社歴では先輩に当たる人である。仮に「ヒゲの殿下」としておこう(寛仁親王ファンの皆様ごめんなさい)。殿下は私をお忘れでも私はよく覚えている。
殿下は政治部閥であるが一時期系列の週刊誌に出されていた。その時に連綿と日本全国にピラミッドがあるがごとき記事を書きまくって政治部の大ひんしゅくを買ったのをお忘れか。殿下の先輩から話は聞いている。千鳥ヶ淵での花見の際に惨劇があったってこともね。もっとも直接見たわけではないからネタかも知れぬがピラミッドの記事を書きなぐったのは事実だ。
上杉さんはNHK記者の経歴があるから大マスコミのインサイダー経験がある。そこを飛び出して独力でノンフィクションを書いているのを有名になった今でも社にしがみついている殿下は不快だったのか。それとも上杉さんが政治家秘書になったことがあるのを胡散臭いと感じたのか。

どちらにせよ殿下からは大マスコミの幹部クラスが持つ特権意識を感じてならない。だって上杉さんは「ガセ記者」じゃなかったんだよ。何を根拠ににおわせたんだ。ちゃんと謝ったという話を私は聞いていない。
そもそもピラミッドの件を考え合わせると殿下に「ガセ」云々を指弾する資格があるのか疑問である。

大マスコミにいると政治の動向はフリーとは比較にならないほどつかめる。これはフリーが無能だからではなく大マスコミは記者クラブを背景に情報を独占し得る特権があるからだ。
特権を与えられている以上は知り得た情報をすべて書くわけにはいかない。そこで書けないネタをフリーに流すこともある。要するにフリーの有力なネタ元の1つが政治部記者そのものになるのだ。だから大マスコミの記者はフリーに対して時に尊大になり軽侮の念さえ生じる。
だがこの構造は本当はおかしいのだ。政治家と政治部記者の関係が、そのまま政治部記者とフリーの関係のアナロジーになっている。だったら記者クラブで情報を独占する形態自体が元来はおかしいのであってフリーの能力が低いのではない。内閣記者会など特権の温床である。
マスコミは情報独占でなく情報公開を使命とするはずだ。そこがクラブで閉鎖的に暮らしている記者には永遠にわからない。知られざる情報を握る虎であるような気分でいるが本当は政治家に餌を与えられて喜んでいる猫にすぎないってことがね。

だから自分らが猫じゃないかと感じさせる上杉さんのような敏腕フリーが本当は怖い。特に大マスコミを辞めてのフリーは自分たちが粘着している組織を自ら離れた存在だから本当ならば食っていけないという帰結が望ましく活躍などもっての他である。
それが活躍しているとなると事実を直視する代わりに「彼らはダーティーな方法でネタを取っているに違いない」との思い込みにすり替えて安心しようとする。残念なことに上記のように大マスコミの記者が情報源になる場合もあるので、この思い込みを正当化する一定の根拠はある。
しかも重ねて残念なことに「ガセ記者」がフリーにいるのも事実だ。でも大マスコミの正社員でも「ガセ記者」はいる。いい加減な記事を書き殴るという意味でガセ(ニセモノ)という言葉を使うならば前述の通り殿下にだって前歴はあるのだ。

フリーによって成立し、フリーの立場を最も理解しているはずの大版元の雑誌が、このところ「送金メール」のフリー記者を叩いている。そのこと自体は構わないが、一方で「フリーは皆いい加減」との悪印象を自ら振りまいている結果になっているのを案外と大版元は気づいていないようだ。
ガセ記者を叩く一方で良心的で腕利きのフリーも多数いるという論陣をそろそろ張るべきではないか。大版元がやらないならば私がこの場で後日展開してみるつもりだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

ガス田開発のカードは日本にあり

東シナ海のガス田開発での日中局長級協議で中国が尖閣諸島を含む海域での共同開発を持ち出してきた。怒っている日本人は多かろう。だがキャンキャン反発するばかりでは中国の手に乗るばかりだ。私はある意味、中国は紛争時の定石を打ってきたにすぎないと考えている。

その前に尖閣諸島の領有権について私の意見を明記しておく。私は尖閣は日本の領土とのわが国の主張を支持する。理由はここであれこれ書かないが純粋に論理を比較すれば日本に若干の利があると判断するからだ。
ただし弱いのはサンフランシスコ平和条約で米国を唯一の施政権者とする信託統治制度下に尖閣は含まれ、1972年の沖縄返還で一緒に戻ってきたとアメリカに明言してもらっていない点だ。諸島のうち2島の在日米軍射爆撃場の存在を考えればいうまでもないとも押せるが、だったら明言してもらえばいい。
確かにサ条約に中華人民共和国は招かれていないから完璧ではないが相当有効な根拠になるはずだ。

さてガス田開発はそもそも日本が主張する排他的経済水域(EEZ)の日中中間線を中国が、中国の主張する沖縄トラフ説を日本が、それぞれ認めていないのが根本である。したがって日本側の前回提案は事実上日中中間線を中国に認めさせる効果があり、中国が乗れないのは明白だった。
そして今回は尖閣諸島周辺の共同開発で「EEZどころか日本の領海だぞ」との反発を承知で打ち返してきた。
民事裁判で双方が争う場合、まずこうした叩き合いから始まる。原告は100%相手に否があり、それを前提とした高額の賠償を求める。対する被告が争う場合は自分の否をゼロとして賠償は存在しないとゼロ回答する。場合によっては反訴もちらつかせる。
いわばこれと同じである。強烈な100%vsゼロ回答の応酬をまずしないともめごとの白黒のスタートは切りにくい。文頭に定石を打ってきたにすぎないと書いたのはその意味である。

以前に書いたが私は中国のガス田開発は石油メジャーが手を引いた時点で暗礁に乗り上げていると推察している。多分日本と共同開発したいというのは本音であろう。その弱みを突いたとしたら日本側の前回提案は面白かった。
だがそれに屈すると中国は中間線論を飲む形になるばかりかガス田開発がうまくいっていない事実を認める結果になりかねない。それは対日関係よりも国内問題としてヤバイのである。

中国は靖国問題で反日は揺らぎつつある共産党政権の求心力になるばかりか韓国や東南アジア、果てはアメリカまでうまくすれば味方にできると気づいた。その分だけ日本の反中中感情は強まるが、それで中国が困るのは経済だけである。
ところが中国は知っての通り「社会主義市場経済」との不可解な概念で経済成長を遂げている。「右手は左手である」というに等しいこの概念自体がナンセンスギャグである。ギャグで商売ができるかというとできるわけだ。商人はイデオロギーの云々でソロバンをはじかないから。だから「経熱」は下がらない。白人しか居住しない地域が「わが国は黒人国家である」と宣言しても商人は全然困らないのだ。

尖閣諸島の領有を中国が「台湾省に属する」と主張しているのも敵ながら上手なケンカのふっかけである。自然と台湾も領有権を主張するようになる。日中共同宣言以来の約束で日本は1つの中国を約定している以上は台湾のもの=中国のものと認めざるを得ない。
もちろん日本は自分の領土だと言い張るに決まっている。すると日台間にも不和を醸し出す「好結果」をも期待できる。
実際に2002年に台湾の李登輝前総統(当時)が尖閣諸島を「日本の領土」と発言して中国ばかりか台湾の反発をも誘った。結構使える材料なのである。

理屈だけでいえば日本の領海や領土で日中が「共同開発」してはいけないという理由もない。別に北京のど真ん中で日中「共同開発」のプロジェクトを始めてもいいように。だから共同開発提案は尖閣諸島の領土問題を棚上げにした提案とも、領有問題に日本が譲歩した結果であるともとれるのだ。少なくとも共同開発を提案をしたから中国が日本領を侵犯したとはならない。
もちろん日本の立場として日本の領海であり中国の助けも必要なく、むしろ中国に遠慮して開発を手控えてきた尖閣周辺で何が悲しくて中国と共同開発せにゃならんのだと突っぱねる。中国としてもそれでよろしい。もともと何も失っていないから。

この日中局長級協議のど突き合いは詰まるところ、できるだけ有利な条件で日本の技術力と信用創造を拝借したい中国と妙な妥協はしたくない日本のせめぎ合いである。その過程で中国は無理筋とわかっていながら尖閣を出してきた。
だったら日本も従来の中間線を引っ込めて思いっきり原則にしたがって中国に限りなく接近したピッタリ200カイリの新主張を打ち出して「上海付近でも一緒に掘ってみましょか」とやるのも面白い。どうせ中間線を元々中国は認めてないのだから。

ガス田協議は日中問題ではあるが靖国とは明らかに違って外交の駆け引きである。お互いの牌をいかに相手方によく見せかけるかが勝負である。何度も繰り返すが面白いゲームなのだ。イデオロギーをブンブン振りかざした方が負けである。
いいですか。メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルは撤退してしまった。ユノカル買収はアメリカが阻んだ。中国は八方ふさがりである可能性が大で日本の力がほしい。さあこのカードをどう切るか。妙なナショナリズムで高揚しているおバカさん。そんな情熱があったら中国をアッといわせるカードの使い方を考えようよ。
だってさ。いくらナンセンスギャグとはいえ社会主義を掲げる国が公然とユノカルを買おうとするか?大恥であろう。ということは大大恥を避けるためには大恥かいても仕方がないとの究極の選択だったのでは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

ココログに怒り心頭

東シナ海のガス田開発での日中局長級協議のことを書きかけていたのだが、昨日は「臨時メンテナンス」とやらでココログがずっとつながらず。その後外出の用があって疲れて再びつなげてみると「大変混み合っています」でつながらず。
それでもガス田のことを・・・・と思っていたが段々腹が立ってきて怒りに関わらずに書ける内容の依頼原稿を2本ほど書いてまたつなげても「大変混み合っています」。午前2時半にまたまたアクセスしたら「メンテナンス中です」だって。ふざけるな。

ココログよ。これで何度目だ。メンテナンスの後に混み合ってつながらないならばメンテナンスじゃあないぞ。前の時にも似たことを書いたがサイバー空間でサービスを提供する者は混み合っていますなど口が裂けてもいってはならない。編集者が文章を読むのが苦手だと言うに等しい。
実は今日は朝が早い。大事なお客様が来る。大事じゃない人も来る。怒りがこみ上げてきてこのままでは「ガス田の採掘問題の本質は中国ではなくココログだ」と支離滅裂を書きそうになってきた。午前3時20分にアクセスしたらやっと復旧。ところが保存ができず、またまた「メンテナンス中です」に戻って怒り心頭。
時間つぶしにテレビをつけたら何と小林克也の「ベストヒットUSA」をやっていた。復活していたのね。最後に新宿伊勢丹の1階で最近かかりまくっているBelinda CarlisleのHeaven Is A Place On Earthのプロモを見て気を取り直して4時50分(日の出近し)に最後の挑戦するが無駄。かくして書きたくもないドキュメントを書いちまった上に未明の更新をあきらめる。

で朝からいろいろあってまた混乱の体たらくを見せられるのも嫌だから午後3時半頃につなげてみるとまだダメ。同5時頃にアタックしたらやっとアップ成功。

私のブログはアクセス数もコメントも期待していない。しかし今回だけは別だ。私はネットのことをよく知らないのだが、こうした不始末はココログ特有なのか、普遍的な我慢すべき事象なのか、もっとひどい提供者もいるのか、もしやココログというのは最悪な選択なのか。ぜひ教えて下さい。

だいたい「臨時メンテナンス」の理由や内容さえ明示していない姿勢はおかしい。不具合の説明をするのは難しいのはわかるが、それをするのがプロである。あなた方はプロでしょ。そうじゃないならば「ココログはアマチュアによって運営されています」と明記したまえ。

ニフティ株式会社に告ぐ。貴社がパソコン通信サービスを始めた頃からのユーザーに対してこの仕打ちは何だ。念のため繰り返すが「プロバイダサービスを始めた頃から」ではなくパソコン通信の時代からだぞ。信じがたい課金を払っていた時分からの古参だぞ。最近新サービスをするようなメールを送ってきたが新しいことを始める前に、ともかくつなげなさい。

気高き読者の皆様。下らない内容ですいません。こんなことは書きたくない。でも書かずには収まらない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006年3月 9日 (木)

韓国の兵役免除は本当にメダル取りの動機か

トリノ五輪での韓国勢の活躍の背景には兵役免除があるとの解説が盛んになされている。前の日本代表との野球の試合でも大ファインプレーをした韓国選手は該当者だそうな。
ならば日本も不甲斐ない成績で帰ってきた男子は自衛隊に入隊させろ・・・・とフセインだかウダイだかみたいなことを書きたいわけではない。
面白いのは韓国人でもやはり2年の兵役義務は嫌なんだなとわかった点である。もっとも分析が正しければの話だが。

嫌韓・嫌日論が聞かれる。両国の違いが強調される。韓国人は日本人よりも封建的で誇り高く愛国心に満ちているなどといっぱしの説明が流されている。でも兵隊さんにならないで済むならば死ぬ気でプレーするのだ。

不思議だとは思いませんか? スポーツの国際試合で顕著な成績を上げれば兵役が消える。兵役は嫌だから顕著な成績を上げよう・・・・ここまではわかる。でも2年の兵役での苦労と国際試合で実際に優れた結果を残すのと、どちらが大変であろうか。
しかも後者はあくまでも結果論で死ぬるがごときトレーニングを積んでも結果が残せなければ兵役は付くのである。だから肉体的なつらさで兵役よりもオリンピックでの表彰台の方が楽とは到底思えない。

そもそも韓国の名を轟かせるようなスポーツ選手は壮健であろう。私は幼少から体が硬く、心臓に若干の疾患があるので長距離走が苦手である。こうした者には兵役は地獄だ。しかし名選手ならば戦地に送られない限りはさして苦もなく2年間を過ごせるのではないか。自衛隊員に聞いても訓練の大半は運動能力の高い方が有利にできているという。
だいたいスポーツそのものが戦争の代替行為ともいえ両者の相性は本来はいいはずでは? なのに韓国のアスリートは無我夢中で兵役免除を勝ち取ろうとする。
肉体的な理由でないならば精神的な理由であろう。兵隊になって号令と訓練の毎日が嫌だと。でもトップレベルのスポーツ選手ならば競技でも号令と訓練の毎日なのだろう。となると兵隊になること自体が生理的に嫌なのだとしか結論が導き出せない。

すると日本人の多くが抱いている上述の「韓国人は誇り高く愛国心に満ちている」も案外あやしいとわかる。これはバカにしているのではない。むしろ微笑ましい話として書きたいのだ。

1873年に日本で徴兵令が布告されて以来、徴兵逃れのあの手この手がはびこったのは歴史上有名である。昭和に入って「聖戦完遂」などと神ががっていた時代も兵役検査不合格をひそかに「勝ち取る」者がいた。オレはそれで助かったんだといった話を多くの高齢者から取材した。もちろんネタの部分もあろうが甲種合格で栄誉とか赤紙が来て万歳三唱などというのは日本でも建て前にすぎず多くは本心では嫌だった様子である。
そして今の韓国にも似た風潮がある。日韓の民は事ごとにいがみ合うが案外と似ているのだ。兵隊の2年間を避けるならば兵隊の2年間をはるかに超えるトレーニングもいとわない。
戦前の日本でも検査不合格の代償に身体に障害を負ったり、下手したら死ぬ寸前になった人もいたという。本末転倒のはずの行動だが「兵隊なんてやなこった」という素朴な感情を両国の民は基本の部分で共有しているのはもっと分析されていい。

もっと面白いのは韓国という国家が「兵隊なんてやなこった」を認めて兵役免除をニンジンにして選手の力を極限まで引き出そうとしていることだ。
少し考えればわかるが、この手は誰でも思いつくようで本当は禁じ手のはずだ。兵役は嫌だから義務として課す。それはわかるが「嫌でも仕方ないからやれ」では文字通り士気が上がらないから「国防の義務を果たすのは最高の栄誉である」とな何とか美化して兵役を正当化するしかない。
ところが兵役免除を引き替えにするという判断は「最高の栄誉」という前提を覆す。平たくいえば兵役よりも大切なことがあると国家が認めたということだ。
論理が行ったり来たりでゴメンナサイだが、いったんそう認めてしまうと士気が下がってしまうとの結論にならざるを得ない。実際に兵役を終えた者は自分の義務は栄誉ではあっても最高ではないと感じてしまうだろう。兵役逃れに必死の選手をみれば白けてしまわないか。おいおいアンタ達だけは何で特別なんだよと。

ところが私は寡聞にしてそうしたバッシングを聞いたことがない。俳優が兵役をごまかしていた事件でのブーイングは確かにあったがスポーツ選手の兵役免除を許せないという論調があるのかなあ。あったら教えて下さい。
それは上記のように表彰台に上がるほどのアスリートは兵役2年間よりも苦労しているはずだとの寛恕か。国の栄誉を世界に轟かせた者を下士官や職業軍人の末端に連ねる方が国の恥と考えるのか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月 8日 (水)

もうセンバツなんてやめようよ

北海道の駒大苫小牧高校が卒業生(高3生)が卒業式後に飲酒と喫煙をし、うち多くが野球部員だったことをもって春の選抜高等学校野球大会(センバツ)への出場を辞退した。
駒大苫小牧は昨夏の優勝後に野球部長が暴力を振るっていたかどで「優勝返上か」と騒がれた。殴る鬼の野球部長がいないと酒とタバコに走ってしまう野球部って、やはり変ではある。

ところでセンバツは毎日新聞の主催である。夏の全国高等学校選手権大会は朝日である。どちらも拡販を目的としているがセンバツが毎日の紙勢に貢献しているとは到底思えない。
夏の大会は都道府県予選から甲子園大会まで一直線に続いていくのでリアリティーがある。トーナメントで勝ち残った学校だけが上に上がっていくのでわかりやすくもある。3年生にとっては最後の大会だからやる気に満ちてもいる。
でもセンバツは違う。そもそもセンバツされる高校の戦績が何をもとにしているかを知る人がどれほどいるだろうか。答えは夏大会が終わった後で新体制になったチームが都道府県別に秋に大会を開き、その上位が全国10ブロックの大会に出場して、その成績が選考の基本だ。

秋にそんな大会を開いているなど関係者以外ほとんど知るまい。現に秋大会はブロック戦のレベルにまで進んでも観客席はガラガラである。夏の地区予選も1・2回戦の試合には目を覆いたくなるような、スコアブックに覚えたすべての記号が書き込めるほどひどい試合もあるが、秋の1・2回戦よりはずっとましだ。秋大会は事実上の新人戦だからレベルが低い。
そして、それでもブロック戦の上位校だけが無条件に選ばれるというならば透明性があって真剣味も増すであろう。しかしセンバツは文字通り「選抜」するのだ。
ここでまず28校を決めるが地域性を考慮するためにブロック戦では下位に終わったチームが上位を出し抜いて選ばれたりもする。「毎日新聞が売れていない地域だから選んだんじゃないの?」みたいな突っ込みが入る余地を与えるわけだ。
一応もっともらしい基準はある。「品位・校風・技能・地域性」の4つだ。うち地域性は上記のような問題がある。技能は強ければいいとまあ納得できる。問題は品位と校風だ。校風がいけないという理由がそもそも立てられようか。
駒大苫小牧は辞退の理由としてセンバツは品位を問われるからとも言っていた。確かに未成年の飲酒と喫煙が品位にもとるのはわかるが、字義通りの意味での品位を問えば出場できなくなるチームはたくさんある。一度でも高校野球の取材を継続的にした経験がある者ならば皆が知っている事実である。

誰も知らない低レベルの秋大会の結果を参考に謎のごとき選考規定で突如出場が決まるというのがセンバツ出場校である。これでは盛り上がらない。言い換えれば拡販につながらないと21世紀に入ってから「21世紀枠」と「希望枠」を新たに設けた。
両枠とも秋大会でそこそこの成績を収めたものの通常枠からはもれたチームをセンバツする。21世紀枠は部や学校の歴史で苦労を克服するなど他の高校生の模範になるような「ご立派校」を選出する。そうした基準がなぜ21世紀から必要になったのか脈絡はない。
希望枠はいろいろ細目はあるようだが要するに通常枠から外れた守備に見所のあるチームが選ばれるらしい。守備がいいと希望なのか。にしても本当に守備が鉄壁ならば通常枠で文句なく選ばれる成績を挙げるはずだとのウンチクは通じない。
要するに両枠とも意味不明なのだ。うさんくさい通常枠に意味不明の枠を乗っけて短い春休みに駆け足で大会を終えてしまう。なくていいゆえんである。
ハッキリいって高野連自身も現場ではたいしてやる気が感じられない。毎日新聞がセンバツで拡販大攻勢に成功したという話も聞いたことがない。卒業式の後の高3生の動向まで高校や部がフォローするなどできっこない。羽目を外したいお年頃とタイミングであるのは大人ならば全員が覚えているはずだ。
「卒業まで部員は部に属していなければならない」という規定はちょいと大げさにいえば憲法に違反するのではないか。できっこなかろうが出場できなくなった駒大苫小牧の現役選手とその保護者が民事裁判でも起こしてみると面白い。

矛盾と弥縫とカラ意地とつじつま合わせと商魂と呪文と偽善が結束するとセンバツとなる。それをNHKがいかにも素晴らしい模範生の大会のように美化して公共放送の電波をたれ流す。まるで野球をしない男の子は青春の傍観者であるように。

何が面白くてセンバツをやるのだ
大人よ
もうよせ、こんな事は

と高村光太郎をパロッてみた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

渡部恒三国対委員長という既視感

空席となった民主党の国対委員長に秘策があった。国民新党と合併して綿貫民輔先生に務めてもらうのだ。自民党もさぞかしやりにくかろう・・・・と書こうと思っていたら渡部恒三元衆議院副議長を充ててきた。「しまった。その手があったか」と悔しがった後に別に悔しがる必要が私にはないことを悟った。

渡部恒三73歳。確か元「東北のケネディ」にして竹下派7奉行の1人。当選実に13回。7奉行の内訳を見てみると
1)死亡・・・・奥田敬和、小渕恵三、梶山静六
2)引退・・・・橋本龍太郎
3)現役・・・・小沢一郎、羽田孜、渡部恒三

である。うち驚異的な賞味期限の長さを誇る小沢一郎議員を除くと羽田孜元首相は一部には体調不良説もあり、そうでなくても元首相を国対委員長というドロドロの現場に付けるわけにもいかない。

では渡部恒三議員ならばいいかというと本当はよくない。だって衆議院副議長は野党議員が就ける最高職なのだから今さら格下もいいところの国対委員長はありえない。だったら綿貫先生も同じだとなるが先生は復讐の場があれば何の役にだって就くはずだから(と勝手に想像)いいのである。

改めて渡部恒三という人物を考える。彼はかつて自民党の国対委員長だった。昭和の末である。それは私が社会人として新聞記者生活を始めた時期でもある。あれから約20年経った。私も渡部氏にも平等に月日は流れた。私は40歳を越えて今にある。そして渡部氏は月日を超えるようにして国対委員長に就任した。既視感でめまいがしそうだ。
何て言うんだ? 返り咲きというのともちょっと違う。復活というと落ちぶれていた期間があるようになるので違う。復帰というのは時間がたちすぎているし、そもそも政党が違う。やっぱりデジャヴとしか表現できない。
渡部氏や綿貫先生がすごいのは野にありながら、しかも上がり目がなさそうながら先の総選挙で小選挙区で勝ち抜いてきている点だ。多選・老害批判に加えて昨年の総選挙は自民に猛烈な追い風が吹いていた。それでも勝つからただものではない。

私はずいぶんと昔から渡部氏を知っている気がする。何といっても彼は竹下派7奉行以前に田中角栄擁護のスポークスマンとして角栄バッシングのなか1人逆風をものともせずにテレビに出まくっていた。しゃべりに味はあるが金権腐敗や刑事被告人という逃れがたいマイナスを背負った角栄を擁護する姿は実に奇異であった。
圧倒的不利のなかで何とかかんとか活路を開こうとしている。まだ私が中学から高校生になる頃だ。
あれだけの数がいながら何故渡部氏が得にもならぬスポークスマン役を買って出たのか、あるいは押しつけられたか。さほどに守った人物を見限って経世会に走ったのはなぜか。思えば不思議な人物である。

ゆえに今回の国対委員長就任も本人は案外と平気どころか実はやる気満々だったりして。考えてみれば彼が自民で国対委員長を務めてまもなく新生党結成に参画、細川護煕非自民連立政権につながるあたりでは「国対政治の否定」が非自民連立のうたい文句だった。みんな議院運営委員会で決めればいいとね。それがいつの間にか沙汰やみとなり与党も野党も国対を復活させて今に至っている。
だから渡部氏が「昔の顔で出ている」というのは誤りかもしれない。国対否定から復活まで振り子のように一端逆方向に触れて戻ってきた。その振り子の球と一緒に渡部国対委員長も戻ってきた。そういうことならば案外と活躍する可能性がある。

民主党の国対委員長が何をするかといえば党内では他党間との折衝で描いたストーリーを周知徹底させる役割がある。もう一つは他でもない他党間との折衝そのもので具体的には自民党と話し合って「民主党の出番」を演出する役割だ。そんなこんなは皆サル芝居と批判できるし事実として一時は止めようとしたが復活しているということは必要なのだろう。
というよりも「民主党の出番」を作ること。言い換えれば自民に花を持たせてもらうこと。その役に自民の国対委員長も務めた渡部氏はむしろ適当である。小泉首相も「頼むよ」と言われたら断りにくいし官房長官から「降格」された細田博之自民党国対委員長あたりは渡部氏から「オレに比べりゃマシじゃないか」と慰められればリップサービスとわかっていても大向こう受けする舞台の1つも用意しなきゃと考えざるを得ない。
それが何になるのかと問われれば言葉もないが残念ながら今の民主党は老練な渡部委員長の演出でサル芝居の舞台の1つや2つがないと崩壊寸前である。たぶん渡部委員長はそれくらいはやってのける。そして民主党は急場をしのぐ。でもそれで何かが改善したわけではない。
渡部氏が引き受けなければ民主党は自壊していたかもしれぬから救い主か。むしろ自壊すべきを中途半端に守ってしまったのではないか。いくら頑張っても角栄擁護論が空しかったように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 6日 (月)

団塊の世代をほめよう

・・・・というタイトルで文章を書こうと実は1週間ぐらい考えていたのだが全然思いつかない。「けなそう」ならばいくらでも書ける。本1冊分も難しくはない。だがほめるとなると異様な難問なのだ。
もちろん団塊の当事者を中心にした自画自賛を引くことはできるが突っ込みどころ満載なんだな。

・戦後の食糧難を生き抜いた・・・・でも物心ついた頃には一段落していたよ
・受験が激烈だった・・・・その分だけ就職は高度成長のお陰で楽だった
・学生運動で権力にNOを突きつけた気概があった・・・・でも負けたじゃん
・猛烈に働いて高度成長を支えた・・・・世にそれをエコノミックアニマルという
・子を生んで少子化にさせなかった・・・・元の数が多いのだから当たり前
・バブルの後始末をした・・・・一方でバブルを生み出した

という具合に。

団塊の後の1950年代から60年当たりの世代は団塊を宿敵と感じている人が多い。「頭の上にへばりつきやがって」と。その次が私も属する1960年代生まれの「新人類」で会社や学校で団塊の威張り振りを散々見てきたから嫌いだ。さらに続く団塊ジュニアつまり第二次ベビーブーマーの場合、親世代が団塊のせいで受験も大変だった上にバブルに踊れぬまま就職氷河期を味わった。
したがって1962年生まれの私は5つから7つ程度年上の世代から団塊ジュニアまで広範囲で「団塊が諸悪の根源」という話で盛り上がれる。さらに団塊を飛び越えた昭和1ケタから戦中派までとも同意見である。
ちなみに団塊ジュニア以降の世代は上記のように皆が皆団塊を嫌っている世代を親に持つからいい印象をもつわけがない。事実20代の若者から結構多く「私たちの年金は団塊に消えるのね」との怨み節を聞いている。

ではなぜ「団塊の世代をほめよう」とのもくろみをしたかというと原理的に団塊だけ人品骨柄が悪い人間が集まるはずがないからだ。この世代が他と明らかに違うのは人数が多いというだけである。しかも大量の定年を迎えて我々は彼らを支える側にならねばならない。ならば彼らのいいところの1つも見つけておかないとやりきれないではないか。
でも見つからない。本当にない。この世代を「団塊」と名づけたのは堺屋太一氏だから堺屋氏が必要以上に有名にしてしまったといえぬでもないが、だったら我々「新人類」も当時相当にはやった。確か命名者は筑紫哲也氏だったと記憶する(違ったらごめんなさい)。
でも今日に我が世代を「新人類の世代」として抜き出されることはほとんどないし、当事者が自分は新人類と呼ばれていたことすら忘れつつある。

逆に団塊は団塊だとの認識を少なくとも回りは強固に抱いている。
今年に入って「団塊はどこへいく」といった連載が各新聞で目立って掲載された。菅直人民主党元代表@事務所の郵便ポストがあふれている、は「団塊党」を標榜していて驚いたことに、というかあきれたことに、というか結構好評であるらしい。どうやら団塊世代は団塊という記号で一体化しうる主体的な何かを持っているのだ。

ということは唯一ここだけがほめられるのかもしれない。つまり前後の世代に嫌われながら同世代だというだけで結束し、作家が付けてくれた「団塊」という言葉を乃木希典の軍旗のごとくに掲げて常に何事かを叫び行動する。
つまり嫌われ役を一手に買って出て前後の世代間の闘争が起きないようにしている。余命はまだ20年はあるから20年間「団塊が諸悪の根源」と言われ続けてもらって日本民族の他の世代同士の裂け目を相対的に目立たないようにしてくれている・・・・わけだ。わけか?

多分団塊の世代以前に、その役割を果たしていたとすれば「東条の世代」であろう。明治維新から営々と積み上げてきた発展をボロ負け戦争でスッてしまった上に占領下で豹変した、東条英機あたりを年齢的には最上級生とする世代である。
東条英機1884年生まれ。岸信介1896年生まれ。近衛文麿1891年生まれ。だいたい1890年代に生まれて敗戦時に概ね50代。A級戦犯の死刑執行は1948年で団塊が生まれ出した最中である。一方で東条とほぼ同世代の吉田茂、鳩山一郎らは55年体制成立まで覇を競った。その間に団塊の世代の出生は終わる。
つまり団塊の世代は「東条の世代」の終焉の期間に誕生し、早い者は物心をつけた。以降の世代はボロ負け戦争をした当事者のうち長命だったわずかを残して責任を問う対象がなくなった。そこを引き受けたとはいえるのではないか。
ということで幕。ほめたことになったかなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 4日 (土)

インパール民主党と小泉のさえわたる言語感覚

永田→野田→前原ラインの自爆メール騒動の詳細を調べているうちに「どっかで読んだ話だな」と気づいた。なかなか思い出せなかったが『失敗の本質』のインパール作戦だ!

先入観の根強さを示すとともに、組織による学習の貧困ないし欠如をも物語った。また、「必勝の信念」という非合理的心情も、積極性と攻撃を同一視しこれを過度に強調することによって、杜撰な計画に対する疑念を抑圧した。(前掲書176ページ 中公文庫)

寒いぐらい当てはまる。前原さん。あなたは軍事オタクなんでしょ。しっかりしてよ。

ところで私は小泉首相が大嫌いである。 夜神月が『DEATH NOTE』に彼の名を書かないのが大変不満である。『アクメツ』が彼を生かしているのは実に不可解である。それほど嫌いなのだが見事としかいいようのない言語感覚には時折感心させられる。ワンフレーズではあるが切れ味は鋭い。
ほめているのではない。インパール作戦じゃないけど敵を知らずして戦いはできないと言いたいのだ。でないと先の大戦の皇軍になってしまう。その例として昨年11月29日に「首相の大相撲パフォーマンスをネチネチ分析」を書いた。本物の催眠術師である。魔術師と置き換えてもいい。もしよかったらご笑覧下さい。

今回の「送金メール」もよくよく考えれば首相が大問題に切り返したと推察できる。彼は幸運だというが、幸運を感じる瞬間があるということは攻め込まれた状況もあったというに等しい。事実5年間の「治世」で何度もあった。今国会も「4点セット」で守勢に立っていた。
永田寿康議員の質問もその流れの一環で、それを普通の扱いに止めておけば「あの話はどうなった?」ぐらいの茶番劇で人々の記憶から薄れていくような程度・・・・のはずだった。

大問題になってから当時を振り返れば、なるほど永田質問は大甘だった。ただ永田議員もそう問題になるとは思っていなかったのではないか。国会の質疑は党首討論などの例外を除いて野党が与党を一方的に攻める形式である。与党は何をいわれても右に左にかわしたり、いなしたりして採決に持ち込む。負けるとわかっている野党の質問が激越になるのも与党が困ったふりをするのも、いわば「お決まり」である。
今回の送金メールも永田議員が「お決まり」の大げさな攻めをみせ、受ける与党が「当方は認識していない文章ですので調査して可及的速やかに報告します」と発言する程度だったはずだ。もめたとしても議長席に集まってヤイノヤイノが関の山ってところだ。

それを大問題に仕立て上げたのは質問直後の首相の
「ガセネタ」
の一言だった。私はあの時点で首相が100%の客観的裏付けを持って「ガセネタ」と発言していないのではと深く疑っている。だが首相本人には感覚的な確信があったのだろう。忘れてはいけない。彼は魔術師なのだ。ウソをもっともらしくする天才なのだ。いつの間にか「戦死者の顕彰」を「戦没者の追悼」に「前の国会で否決された郵政民営化関連法案の是非」を「郵政民営化の是非」に、それぞれすり替えて何となく国民に信じ込ませる御仁だ。ならばウソの臭いをかぎわける能力が断然高いに違いない。
「ガセネタ」という言葉の響きもすごい。ガセだネタだという言葉はもともとは捜査当局や記者が隠語として使用するもので総理総裁の発する音ではない。小泉首相も百も承知であろう。彼のワンフレーズは内容はともかく下品ではない。しかしこの時に限って隠語、すなわち汚い言葉を公然と使用した。それが一挙に流れを変えてしまったのである。
隠語は汚い一方で俗耳にストレートに響く。あれが「きちんとした情報源から手にした情報とは思えない」ぐらいだったらウヤムヤになっていた可能性だってある。

その後の大もめでも首相の言動はさえわたっている。与野党内から永田議員の辞職を求める声が上がっても首相は追随しない。「懲罰委で除名だ」との蛮声が聞こえてくると一転して「除名は死刑宣告に等しい」と暗に反対している。
この感覚は悪魔的とさえ表現できよう。先に述べた「お決まり」に従えば犯罪を起こしたり粗暴な振る舞いをしたわけでもない議院内の発言をとがめて辞職に追い込むのはまずい。「お決まり」でなくなるからだ。となると自分が目指している「改革」も「お決まり」通りにいかない恐れが出てくる。
身内の民主党まで永田議員の辞職を求めていた愚かさに比べて際立った振る舞いであろう。議院内の身内の発言云々で辞職させたら野党は自滅である。その自滅を民主党はやらかそうとした。それで首相は十分だったはずだ。

「死刑宣告に等しい」と除名に事実上反対するのも温情派をイメージさせる効果はもとより、イケイケの自民内を強烈に牽制する威をみせつけられる。過去の例からみて永田議員の発言は除名にまでは価しない。
仮に院内の発言で謝罪までしている議員を除名か否かまで追い込んだとしよう。するとメディアは「除名」とは何かを報じざるを得なくなる。
まず過去の例から伝えよう。すると画面には信念を述べただけで除名になった川上貫一や、もはや神の域にある斎藤隆夫を映すしかない。と同時に永田発言とは比較にならないスケール?だった楢崎発言でさえ除名にならなかったのも報道せずにはおけない。
さらに除名とは圧倒的多数が数の論理で押した場合には「粛清」と同義の民主主義否定になりかねない処分であると斎藤隆夫の絵をバックに解説者が述べる。そして何よりも刑事被告人の身でありながら闇将軍として堂々と権力を長期間操った元首相に除名のジの字もなかったことに国民は気づく。

要するに除名が現実味を帯びてくれば民主および永田議員の逆襲の目が出てくるのだ。だから小泉首相は避けたがっている。ならば永田議員は謝ったついでにまな板の鯉になって「どうにでもしてくれ」と大の字になってしまうがいい。
私は以前に広告の仕事をやっていてミスをクライアントにつかれて追いつめられた時にとっさに請求書を渡して「わかりました。あなたがここに書いた金額で請求するので許して下さい」とやったことがある。ほめ殺しがあるならば謝り殺しもありだ。東大卒の元大蔵官僚には無理か。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2006年3月 3日 (金)

トリノ五輪閉会式でのAvril Lavigne

永田寿康衆議院議員の身の振り方は今後の日本を揺るがす大問題になるとの危険性をマスコミ始め、まだ気づいていないようだ。だからそれを書きたいのだが、それらしきこともこれまで書いてきたのだが、それゆえに旬を逃してしまうネタがあるので今日はそれを書く。
それはトリノ五輪閉会式で次回開催地であるバンクーバーのカナダ代表としてAvril Lavigneがパフォーマンスを演じたことである。

Avrilが出ることは開会前からわかっていた。まずその決定に驚き、かつ感心した。カナダの代表的歌手といえば現在のところCéline Dionであろう。年齢も38歳と国を代表する者としては落ち着いているしJUNOも取っている。英語圏でないイタリアでもMy Heart Will Go Onは映画の大ヒットにともなって知られていよう。フェデリコ・フェリーニ風の演出にも合う。
だがカナダは20代前半のAvrilを選んだ。結果としてフェリーニ風のなかで異彩を放つ・・・・といえば聞こえはいいが、やや場違いな印象を与えるパフォーマンスとなった。

Avrilは私が勝手に「反Britney Spears陣営」と呼んでいる一群にある。かわいさを前面に打ち出してアイドル化しているブリなんて何さと本物志向のロックを追求するグループだ。といってルックスも十分に重んじる。このブログで再三紹介しているKelly Clarksonと並び立つ存在でAshlee SimpsonやHilary Duffが続く。
反ブリでは重鎮でアメリカのティーンには圧倒的支持を受けているAvrilだが知名度ではCélineには及ばない。華々しくデビューしたものの同時期にNorah Jonesという化け物がいてグラミーの新人賞を逸した。ついでにいえば21世紀のグラミーはNorahとU2で成り立っている状態だ。

問題は本物志向の20代前半のシンガーを日本は代表として送り込めるかだ。つまり次の五輪が日本だったとしてトリノにAvrilに匹敵する人材を派遣できるか。
その前にそもそもAvrilに匹敵する人材がいるのかである。倖田來未? ブーイングだろう。大塚愛? 観客は意味不明に陥ろう。浜崎あゆみ? 苦笑が起きないのを祈るばかり。宇多田ヒカル? なぜ日本代表がフェイクなのだと疑われる。
男でもいいとして誰だ。オレンジレンジ? 苦笑どころか爆笑が待っている。ケミストリー? 静まりかえる。
この際、中堅・ベテランでもいいと広げてもいないなあ。吉田美和? 宇多田とは違った意味でのフェイク感が漂いまくる。とか何とか編集部で話していて結局は

北島三郎しかいない

のではないかとなった。でも観たくはない。それしかないからと原爆を落とす気分である。
こう書けばAvrilがいるカナダの偉大さがわかるであろう。

もう一つはAvrilが何を歌うかの興味だった。それは発表されていなかったので興味津々。私はひそかにSk8er Boiをやるんじゃないかとヒヤヒヤしながら期待していたのだが案の定回避した。なぜヒヤヒヤしたかは歌詞の内容にあるが著作権があるので書けない。ごめんなさい。仕事柄著作権を守る立場にあるので。
実際にはWho Knowsを歌った。これも著作権があるのだが二度も避けてはAvrilのアの字も知らない人には不親切極まるから私の超々意訳で、つまり私の著作に限りなく近づけて紹介する。

日々は常に新しく、同時のそれが最も重要で理由をあれこれ詮索する必要はない。自分自身であることとは何かを発見しよう。それが一番大切

確かに・・・・。改めて五輪という設定でとらえ直して聞いてみると深遠さを届けられる歌詞だ。それを選手団と同世代が歌う。今回のトリノ五輪のマイbest3は

1位 フリージンガーを知った
2位 Avrilのパフォーマンスを見た
3位 NHKが本来の役割を果たしていないのを改めて思い知った

である。荒川静香? 圏外! 圏外! もっとも小社で手記を書いてくれるならば土下座しに行くけどね

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

NTTドコモのPHS撤退を批判する

私はNTTドコモのPHSを使用している。といっても元来が携帯電話反対派に属するのでヘビーには使っていない。ではなぜ持っているかというと代替の存在である公衆電話が年々激しく減り続けて、こちらから電話したい時に見つからないのからだ。したがってかける時だけ専らPHSの電源を入れる。
とはいえ長いユーザーではある。私の知人には1995年にPHS専業として設立されたNTTパーソナル以来の愛用者もいる。NTTドコモはそれらを切り捨てると宣言してきた。

私に送られてきた「お知らせ」によると「PHSサービス」を「平成19年度第3四半期を目途に」「終了」するという。「具体的なサービス終了時は、お客さまのご利用状況を見つつ別途検討」ともある。
「別途検討」といっても「平成19年度第3四半期」を大きく延長することはあるまいから来年度にも打ち切ると宣言したに等しい。

私が頭に来るのはまず「お知らせ」になぜ「サービスを終了」するかがまったく書かれていない点に発する。「お知らせ」には「平成17年5月より新規申込受付を停止」ともある。つまり昨年5月からやる気のなくなった事業の残余を来年までに清算しようとの魂胆であるのは見え透いている。だがなぜ「新規申込受付」も既存サービスもやめるのかがわからない。
NTTドコモが倒産するというならば仕方あるまい。ふと思い出して久々に訪れた料理店のシャッターが閉まっていて貼り紙一枚で閉店を知らせられるならばわかる。でもNTTドコモ自体はビックリするような大企業である。
ではあるが「PHSサービス」は振るわないので退散するというならば何故振るわなくなったのか、どれぐらいの損が出ているのか、責任者は誰でどんな責任を取るのか・・・・といった情報の公開と詫びの一言もあってしかるべきである。
ポケットベルが携帯やPHSに駆逐されたのは理解できる。白黒テレビがカラーになったのと同じでサービスの質が段違いになったからだ。だが現時点のNTTのPHSユーザーは携帯に換える必然性がほとんどない。
企業は、特に家電や情報通信産業は事業を始めた時点で継続ユーザーをフォローする義務が事実上生じる。95年にNTTパーソナルが事業を始めた時にテレビCMで何といったか。「みんなを電話にする会社」といった。この「電話」は明らかにNTTのPHSを指す。要するに日本国民全員にNTTのPHSを持たせるという気概であったろう。
惹句ゆえに文字通りそうならなかったからと非難するほど野暮ではないが、大見得を切ってわずか10年ちょっとで事業継続が困難になった具体的事由を知らせることなく「みんなを電話にしない」決定をしたと通知するのは失礼である。

もっと腹が立つのはサービス打ち切りという自社の都合を逆手に取って「FOMAを中心とした携帯電話」への乗り換えを勧めている点だ。
だいたい「PHSサービス」ができなくなったならば、できる会社に委譲すべきだ。日本にはウィルコムというPHSを扱う企業がある。番号ポータビリティーはPHSには適用されないので長年使っていた番号を維持したいユーザーのニーズをまず集めてウィルコムへの転出を勧めるが先だ。ライバル企業にそれはできないとはいわせない。「PHSサービス」を止めると言い出したは手前であって我々ユーザーではない。
それをせずに何をしてくれるかというと「特典」と偉そうに案内した内容は「電話番号の末尾4桁」が「えらべる」サービスだとさ。何で他社の携帯同士はポータビリティーが可能でアンタのサービスを使っていたPHSユーザーが「末尾4桁」だけなのさ。

その他噴飯ものの「特典」を皆様に紹介しよう。笑えるよ。

特典1 PHSご利用時の継続利用期限をそもまま継続
・・・・当たり前である。

特典2 契約事務手数料が無料
・・・・そんなものを取ろうという方がどうかしている

特典3 FOMA(電話型)最大2万円割引
・・・・何を割り引くかというと電話機購入代金だ。あのなあ。アンタの会社の電話機(PHS)を既にユーザーは購入しているのだよ。それを使えなくするのはアンタだよ。だったら最低限「割引」ではなく無料配付が筋であろうよ。これでは「特典」ではなくて「負担」だ

しかもダメ押しに、こうした特典でさえ「特典」も「PHSサービス終了まで」しか適用されないオマケ付きである。NTTのPHSが気に入っている人は「サービス終了まで」使いたい。その後に携帯かウィルコムへの取り換えを余儀なくされたらNTTドコモの企業姿勢を含めて任意に選ぶ権利がある。
そうした切り捨てられる側の痛みに配慮せず、むしろ付け込んで「特典」は「PHSサービス終了まで」ですよとするは弱者への心理的追い込みである。

結局NTTのPHSサービス終了は以下のような企業エゴで成立している
1)不採算部門を切り捨てたいが情報公開はみっともないから口をつぐむ
2)少ないとはいえPHSユーザーはいるからウィルコムに譲らず手前の顧客につなげたい
3)しかしできるだけ金額がかさまないように乗り換えてもらいたい
4)そこで特典でも何でもないサービスまがいを「特典」として勧める
5)しかも「PHSサービス終了まで」と期限をつけて追い込む

汚いやり方といっておかしいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

永田寿康衆議院議員の「お詫び」会見

待ちに待った?永田寿康衆議院議員の「お詫び」会見が行われた。民主党も合わせて声明を出した。要点と私の疑問は以下の通り。

1)メールの送信者は堀江被告だったか
堀江容疑者が発信したものではないと評価せざるを得ない(党声明)
内容以前の問題として本物でないものを取り上げたと判断した(前原誠司代表会見)
仲介者からfromは堀江氏のアドレス、toは情報提供者のアドレスと説明を受けた(永田会見)

要するに堀江被告からのメールではないと全面降伏した。この点で相手は誰であれ「堀江貴文」本人のメールではないとは認めたわけだ。そこを確認していなかったのは信じられない。この「信じられない」というのが私の疑問である。
報道によると2月6日にメールのコピーを入手した2日後に野田佳彦国対委員長へ報告後、11日に前原代表にも報告した上で16日の衆議院予算委員会に臨んだという。すると永田、野田、前原の3氏ともが報道によれば最初からfromの後が黒塗りされているメールを疑わなかったということになる。どんなヘボな編集者でもブロックするはずだ。
前原代表は京大卒後、松下政経塾を経て京都府議、衆議院議員となる。野田国対委員長は早大卒後、やはり松下政経塾を経て千葉県議に2選された後に国政に打って出た。永田議員は前に書いた通り東大卒の旧大蔵官僚である。いずれも私には及びもつかぬ立派な大学を出て前2者は社会人経験がない。松下政経塾は「天下を取る」人材育成の前に「裏を取る」という初級講座を新たに設けたらどうだ。

2)検証は十分だったか
永田議員の説明と資料を十分に吟味することなく組み立てられた(党声明)
信憑性について十分な調査が進まないまま質問に至った(永田会見)

まあいい加減だったというわけだ。だが再三にわたってこのブログで述べているように「十分に吟味」して「信憑性について十分な調査」をした内容でないと国会で取り上げられないとなると立法府の発言は司法の厳密さを要請されてしまう。
言論統制されていた戦前の斎藤隆夫反軍演説にある「唯徒に聖戦の美名に隠れ」「雲をつかむような文字を列べたて」も「信憑性について十分な調査」がないといえばないのであり、ゆえもあって彼は除名されてしまうが現代では失言どころか議会政治最後の輝きとまで評価されている。

3)誰に何を詫びたのか
国民、関係者、民主党支援者に心配と迷惑をかけた。(武部勤幹事長と親族にも)名前を挙げて追及したことを大変申しわけなく思っている(永田会見)

確かにこれでは武部幹事長が「何を反省し、誰に謝罪すべきかまったく分かっていない」と非難するのもわかる。ただ「心配と迷惑」ないしは「混乱」を謝罪の常套句にして事実をぼやかす発明は自民党だったよね。といって民主党が真似るのもみっともない。困った時には自民と同じ言動をする政党では第二自民といわれても仕方がない。
「本物かどうかわからないメールではあるが、こうした情報が飛び交っている武部氏周辺に何らかの問題はないのか」といった質問以上に踏み込んだのは軽率だった・・・・といえばいいのに。

4)責任の取り方

(進退は)鳩山由紀夫幹事長に一任しており、判断に従う(永田会見)
永田寿康衆院議員を6カ月の党員資格停止処分とする(党声明)
(辞任理由は)国対委員長として痛恨の極み(野田会見)
この問題が収拾されたあかつきに自分なりの責任の取り方を考えていきたい(鳩山由紀夫幹事長会見)
今、職を辞することは党のためにならない(前原会見)

まずは永田議員が辞職しなくてよかった。国会議員の発言は言論の自由の最後の砦であるのは先の斎藤隆夫の例からも明白である。言論の萎縮は暗黒時代を招く。ただ「幹事長一任」はいただけない。「懲罰委員会の決定に粛々としたがう」でよかったのでは。
その一任された鳩山幹事長は幹事長を辞める気満々である。実は前原執行部になってからの民主党では鳩山発言が一番光っていた。国民年金だけでは政治家は老後が心配になるとの与党側の議員年金廃止慎重論に、そんな制度を作ったのはなぜだとからかったりとね。今回の問題でもカヤの外に置かれていて困ったらいきなり泣きつかれた感じで嫌気がさしたのであろう。
これで民主党は創業者の鳩山由紀夫、菅直人と旧自由党のトップであった小沢一郎の3氏を「非主流」とする姿となる。ピンチの時に求心力が働く自民と遠心力が働く民主。情けない。

5)土下座だったのか

事実無根であるのか、一定程度の事実を含んでいるのか、調べが残っている(永田会見)

小泉首相や武部幹事長がいら立った発言をしたのはこの一言であろう。でもこの発言は正しい。マスコミは叩くかもしれないが自分でまいた種の真相を突き止めるのは永田議員の責務である。
ただ全面的に支持できるかというと難しい。一番のポイントは前原代表も含めて情報を得ていると明言している銀行名と口座番号の持ち主だ。さまざまな会見が断続的に行われたが、ここは触れず仕舞いである。
「疑惑の人」の口座番号を調べるのは難しい。ゆえに「疑惑の人」を尾行してATMに入った時に後ろからそっとのぞき見して情報収集した猛者もいるやに聞く。しかし手元にある銀行口座番号の持ち主を特定するのは簡単だ。近くの銀行ATMで振り込み作業をすれば画面に出てくる。
それが親族を含む武部幹事長周辺ならば反転攻勢をかけられるはずだから違う。逆にまったく関係ない、振り込め詐欺師が生活困窮者に作らせるような口座だったり「友人のフリーの記者」のものだったりすれば謝りついでに謝ってしまうはずだ。
だとしたら考えられるのは1つしかない。ライブドア関連の口座である。だがそこからの足が追えないのであろうから「調べが残っている」と言っている。この推察以外だったら、もはや私の能力を超えている。いずれにせよ口座の持ち主だけは足がつかめないと判断した時点で明らかにすべきであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »