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2006年2月

2006年2月28日 (火)

トリノ五輪惨敗と靖国神社

小誌「靖国神社」粘着取材班からの報告によると靖国の絵馬に「トリノ五輪必勝」に類する内容が一枚も見当たらないとのこと。私は直ちに「大問題だ」とわずかばかりの取材班に檄を飛ばした。檄は少人数に飛ばすものではないが飛ばしてはみた。

その前に必勝祈願としての靖国の概観をしておこう。世間一般には英霊を顕彰する、ないしは戦没者を追悼する施設と受け止められ、事実としてそうでもある神社だが近年は各種受験の必勝祈願の絵馬や願掛けが急増している。
靖国は英霊の1人1人が「命(ミコト)」つまり祭神である。時期は戊辰戦争以来の主に対外戦争の戦死者だ。すなわち大学受験必勝祈願に来る者は「戦いの神」として崇めるわけである。

受験の神といえば菅原道真が有名だ。彼を祀るのは全国の「天満宮」である。ただし天満宮本来の目的は天神と化した道真への魂鎮めである。だが彼への怨霊を恐れる習慣が次第になくなり「天満宮」は再定義を余儀なくされた。
道真が文章博士から右大臣に出世した、つまり学者から破格の政界進出・大臣就任を果たした点(平安の竹中平蔵である)や竹田出雲の「菅原伝授手習鑑」の影響から学問の神と変貌したのだ。
靖国もまた先の大戦から60年以上の年月が経ち再定義が民衆からなされるのは歴史の必然であろう。問題は天満宮が客を靖国に取られることである。・・・・・間違えた。問題は「戦いの神」として靖国の神は参拝者必然の要請である「勝利」へと導くにふさわしいかだ。

英霊が「戦いの神」である点は疑いない。問題は勝利の神であるかだ。確かに日清・日露あたりの英霊はバシッと来る。ただ勝ったために、すなわち戦死しなかったために東郷平八郎が祀られていないのは画竜点睛を欠くが。しかし先の大戦は結果としてボロ負けであった。英霊は確かに奮闘したが総合的な結果は負けであった。これは勝利を願う参拝者にとってマイナス材料ではないのか。
ある意味で「頑張り抜いたが負けた」というのは何もせず負けるよりつらい。英霊は絵馬に込められた思いをいかにしてかなえるのであろうか。そうした権能が神道の解釈にあり得ようか。寡聞にして私は知らない。
まあファイティングスピリッツは靖国で、勝利は天満宮でと分けてもいい。八百万の多神教のわが国だからできる離れ業だ。アングロサクソンにはまねができないともいえる。

しかしトリノ五輪は趣を一変させる。受験生の願いはしょせん個人の戦いにすぎないが「日本代表」の看板を背負うオリンピック代表は「代表団」が結成されてメダルを取れば日の丸が掲げられるくらいだから御国のために戦うのである。現に数千万円ともいわれる国費だって投入されている。五輪の競技には国別対抗戦もたくさんある。ならば皇軍を送り出すのと同じであろう。
ところが国家の威信をかけての戦争であるトリノ五輪勝利を願う絵馬が一枚もないのだ。これは以下のように解釈できよう。

まずは戦後60年で国のために戦うという意識、ないしは国のために戦う集団を応援するという銃後の気概がすっかり失せてしまったとの推察ができる。だから個人の勝利には靖国に参拝するが日本代表のためには参らない。堕落といえよう。
もう一つはまったく正反対の理由からの躊躇である。すなわち日本のために外国と戦う集団の勝利祈願というレベルでは靖国はふさわしくないとの判断だ。最大の理由はやはり前の大戦でのボロ負けを思い浮かべざるを得ない。国体の精華を十全に発揮して必勝を勝ち取るには靖国よりはヤッパ東郷神社か明治神宮かな・・・・みたいなのはないか。
この姿勢を英霊に対する冒涜と読むかどうかは難しい。前者ならば堕落ではあるが冒涜ではない。後者は冒涜のようにも感じる一方でボロ負け戦争でも命を張った先達への思いやりとも解釈可能だからだ。

スポーツに靖国は関係ないとは言わせない。1932年のロサンゼルス大会の馬術大障害で金メダルを獲得した「バロン(男爵)西」こと西竹一騎兵中尉(当時)も硫黄島の戦いで戦死したので英霊として靖国に堂々と祀られているからだ。

いずれにせよトリノ五輪必勝の絵馬が1億2千万人の人口を擁するわが国の誰もが奉納しなかったのは異常ではある。そして五輪の結果は惨敗であった。
さあこの因果関係をどう説明する。英霊が参拝ゼロにお怒りになって惨敗したのか。英霊のお考えに関係なく単に弱かっただけか。前の大戦での同盟国ドイツがメダル獲得数でトップであり、開催国が途中まで同盟国だったイタリアだったのに。日独伊三国同盟に対する裏切りである。1回ぐらい助けてくれよ。
バロン西命は力を貸してくれたのか。そういえばロス大会の金も仲間2人の失速を跳ね返して米国選手を破っての金だった。さては西命は自分と同じく仲間2人が苦戦していた荒川静香選手に宿って米国選手であるコーエンを妨げてくれたのか。でも、だったらなぜ西命は絵馬も奉納されていないのに荒川を応援したのか。応援する理由がないとすれば、あれはやはり荒川の実力か。
とにかく靖国に誰一人としてトリノでの勝利を願わなかったらしいのと、日本が惨敗したのは事実である。
と、ここまで付き合って下さった気高き読者の皆様に最後に2択クイズをプレゼント

1)上記文章は筆者衷心の本音の発露である
2)上記文章は頭から尻尾まで冗談である

(奥津裕美&編集長)

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2006年2月27日 (月)

今日発表されるらしいガセネタ真相の前に

昨日私は「ガセネタでない」に
「メールはでっち上げだったが内容は本当」
を入れておいた。今日(27日)発表されるらしい民主党側の回答を前に最も可能性の高い状況を推察する。もっとも民主の会見でまったく新しい事実が出れば笑い話と読み捨てて下さい。
メールの送信者は堀江貴文容疑者ではなく、民主が知るというお金の受取人の銀行口座自体が武部幹事長の親族のものとは一致しない。おそらくここまでは事実であろう。

永田議員への情報提供者とされる「友人のフリーの記者」が誰であるかはもうネット上で実名が飛び交っている。すごいねネットは。その人物ならば、ある意味出版界では有名人だ。当初疑われていたマスコミ出身で永田町周辺で食った経験もある他の2人とは違うようである。お二人さんはえん罪でご愁傷様でした。
これだけ実名が流れている以上は「友人のフリーの記者」も名乗り出て見当違いならば否定すればよろしい。「違う」というのは情報源の秘匿破りにはつながらないから。もっとも現段階で公式に名指しされていない以上は自ら出向くは愚の骨頂との判断もあろう。まずこのあたりがグレーである。「グレーにしてある」と踏み込んで解釈もできる。
仮に彼だとしよう。だったら最近どうやって生活していたのかね。私は面識はないが、この事件がなくてもネタをもし持ち込まれたらビビリまくって丁重にお断りするに決まっている・・・・かなあ? やっぱりチョッピリ興味を持って一橋(毎日新聞ではなく出版社の方)の知り合いに「どうよ」ぐらいは聞くかもね。
雑誌を出す準備をしていたとも報じられているが雑誌ってすごくお金がかかる。小誌のようなペラペラでも維持するのが精一杯。

要するにこうだ。「友人のフリーの記者」の持ち込んだメールとともに口座番号はわかったが武部幹事長の親族のものではなく別のナンバーだった。「○さん宛に」の「○さん」も武部氏の親族名ではなく別人だったのを改ざんした。だがライブドアが関わった何らかのメールであった可能性だけは高い。
そしてこのメール、ないしはメールが言わんとしている「ある内容」と武部幹事長および周辺にあった「ある事実」に相関関係があり得る。少なくとも当初、武部幹事長自身がそうではないかと青ざめた程度の信ぴょう性はあったというわけだ。

実に微妙である。主要部分を書き換えたり、民主が手にした口座番号情報が武部氏の親族のものではなかったり、メールそのものが「ある内容」を文章化するために作成されたとすれば、これはガセである。
だが「ある内容」の通りの行為が実行された、ないしは実行されようとしていたのは事実であるかもしれない。つまりライブドアの誰かが誰かの指示で誰かの口座に入金した、ないしはしようとしたという事実を意味する。ライブドアの「誰かの指示」は大金を動かせる立場にいる者と推察して妥当だから堀江容疑者でなくとも見当はだいたいつく。
この状況と武部幹事長および周辺の「ある事実」が結びつけば「メールはでっち上げだったが内容は本当」に近づく。厳密にいえば「本当」ではないが1つのスキャンダルを外形から俯瞰するよすがにはなり得るわけだ。多分民主党が今日までしようとしていたのはそれであろう。
ただし証明ができなければ「ガセネタ」批判は避けられない。それ以上に「ガセ」はほぼ確実だ。この辺の違いをほとんどの人はわからないから民主党には土砂降りとなる。

そこで幕引きの仕方だが1つは「国体護持の条件付き無条件降伏」というポツダム宣言受諾形式がある。つまり「グレーではあった」という点で民主党の「国体」は守りつつ基本的に土下座をしてピリオドを打ってしまう。土下座とは「理由はともあれ悪かった」という論理を超えた日本式謝罪方法で、これをやれば「まあ仕方ないか」となる。最もあり得るが最後に書くように実は後生が怖い解決策だ。
もう1つは個人情報保護を約束として黒塗り部分をマスコミに公開してしまって後は白浪とする方法がある。もっとも個人情報保護をいわずともマスコミは報じないから、その点の心配はないが記載ミスや勘違い、すり替えなどがあったという「ガセ」部分は明白になるから必ずもれて週刊誌などが果敢に報じてくるのが民主党には怖い。
最後は居直りである。少しでも「送金メール」から武部氏周辺の「ある事実」に迫れるとの思いがあればファイティングポーズを下ろさない。永田議員は懲罰委で除名になるまで闘う。私はこれが実は一番いいと考えるが、あの党にそんな勇気はあるまい。

現時点での疑問は2つ。1つは銀行の口座番号を民主党がつかんでいたとしたら誰のものなのかである。少なくとも「友人のフリーの記者」または「情報提供者」自身のそれであるかどうかは是非知りたい。もう1つは「友人のフリーの記者」と「情報提供者」が同一人物である可能性があるか否かである。

大メディアの論調はおおむね「脇の甘い前原民主党に貸しを作った方が今後の政局運営に得策」と自民側が考えているように報じるが私は半世紀にわたって政権を牛耳る化け物政党に、そんな情けがあるとは到底思えない。むしろヤブをつついてヘビが出るのを嫌がっている感がある。また民主党も土下座と自民の「情け」で一度顔をなめられたら、その場はしのいだようでも後生が怖いという点を忘れずにいた方がいい。

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2006年2月25日 (土)

ガセネタのつかみ方

民主党の永田寿康衆議院議員の「送金メール」が実はガセだったとの観測が急速に強まっている。
メールがガセだとすればでっち上げということになる。ただしでっち上げのメールでもガセネタとは限らない。事実をメール形式にでっち上げたらネタとしては事実である。例えばある既婚有名人に愛人がいたことを突き止めて有名人から実在する愛人の住所に発せられた恋文をでっち上げたとしたらガセではあるがガセネタではない。
つまりガセネタとは
①メールをでっち上げて内容がウソ
②メールは本物と少なくとも信じられたが内容はウソ

であり「ガセネタでない」とは
③メールをでっち上げだったが内容は本当
④メールは本物と少なくとも信じられ内容も本当

となる。「送金メール」問題はどうも②と③を混同した議論が行われている。
民主党はどうやら③をも恐れているらしい。でも③ならばいいのだ。だって銀行名と口座番号がわかっているのだから後は調べてもらえばいいだけである。

確かにメールが公表された時点で武部勤幹事長は疑惑の焦点である親族に「お前の関係する銀行の通帳を全部もってこい」と命令したに決まっているし親族も素直にしたがったであろう。その結果としてガセネタだと自民党は言っているのだから知っている銀行名と口座番号も大丈夫だろうかと状況的には不安になる。
何度も書くが国政調査権は無理筋だから捜査当局にでも告発すればいい。名目は何とでも立とう。建て前として当局は告発があれば調べる義務がある。その当局が信じられないというのではどうしようもない。
それとも知っているとされる銀行名と口座番号があいまいだったりするわけ?だったらお仕舞いだ。

それはそれとしてガセおよびガセネタの恐さを改めて思い知った。小誌も報道機関の末座にはあるので途方もないネタはずいぶんと持ちこまれる。というか今のネット社会には2ちゃんねるというガセの宝庫がある。人とはガセ作りが大好きな生き物なのである。だから2ちゃんの大半はガセネタであろうが中にはホンマ物もあるに違いない。
すると真贋をどう確認するかが問題となる。第一は情報源そのものからのリークであるかどうかだ。「送金メール」であればライブドア本体でメールを手に入れることができる位置にいた人物からの直接提供かどうかが重要になる。そうでない情報はまず信頼してはならない。
毎日新聞2月24日付朝刊によると「永田氏自身が情報提供者とされる人物と直接面会しておらず、友人のフリーの記者の『情報』だけがが頼りだった」という。毎日はこれを「詰めの甘さ」と評しているが、そんな生ぬるいものではない。「情報提供者とされる人物」と会わなければ事実かどうか確認のしようがないではないか。

ただし何らかの事情で情報源に当たれない場合はある。その場合はつなぎに来た人物の来歴が重要になる。「友人」とあるがプライベートな意味での友人ならば情報源の橋渡し役としてふさわしいかどうかの判断にはならない。むしろ「友人」であるのは危険でさえある。
私が友人の記者に「何か面白いネタない」と聞かれれば無下にもできぬから、その辺にある怪文書の1枚も渡すであろう。その上で少しはリップサービスするかな。少々酒でも飲めば得意げに絵解きの一つもするであろう。

友人が「フリーの記者」というのも気になる。記者とは記事を書くために情報を収集する。したがってネタの渡し先は国会議員ではなく新聞社や出版社の編集であるはずだ。記者がもし何らかの情報を国会議員に流すとすれば、それを議員の力で当ててもらって、つまり真贋をハッキリさせる時であろう。逆にいえば永田議員は自らが真贋を見極める当事者になったと気づかずに真実だと思い込んだことになる。ここでは「詰めの甘さ」ではなく論理の破綻があったのだ。
フリーだから信用できないというわけではない。むしろフリーの方が大胆かつ柔軟なネットワークを築いている場合が多い。小誌も多くはフリーに頼っている。ただフリーにはいろいろあるのも事実だ。
大新聞の記者は良くも悪くも慎重である。有名な外務省秘密漏えい事件もネタもと自体は堅かった。「良くも」とは政治に関するスキャンダル情報を得たら捜査当局なり反対陣営なりの協力やら何やらで裏を取る癖がある点だ。「悪くも」はそれがないと一切書かない御用ぶりにある。
力のあるフリーは「良くも」を全力で果たしつつ「悪くも」にならないように細心の気配りや鮮やかな切り口で名誉棄損にならぬ程度で自らが信じる事実を公表する。受けて立つ編集者も同じだ。
だがヤバいフリーは「良くも」を装ってしまう。これは論外で話にならない。贋作造りである。

問題はその中間だ。ガセネタかどうか自分でも判断できないけど「これ面白いでしょ」と持ってくる人だ。存外に面白かったりもするし、あながちデタラメとも思えない。役立つ人々でもある。
ガセネタかどうか微妙な場合は編集や取材記者がネタの裏取りに動く。また事実だとしても「はめられる」という別種の恐怖があるから、そこも探る。それらは本田靖春の『不当逮捕』に詳しい。

とにかく最悪なのは締め切りに追われて検証作業を十分に行わないまま断定してしまう時だ。私は「友人」の情報は信じないが取材を依頼している社員やフリーの原稿は信じざるを得ない。その際にやはり一番の決め手となるのは情報源の特定と取材者がどこまで食い込んでいるかと、その証拠である。「情報源の秘匿」とは対外的な倫理であってフリーであっても編集は情報源を共有していなければならない。それを言わぬ記者の記事はNGである。
ただ追い込みになってしまうとしばしば適当になる危険が高い。だからイケイケになっている心理がある際には自らにアラームを鳴らすようにしている。
それは依頼された取材者も同じである。編集がヤイノヤイノと騒がしいと、やるべきとわかっている作業をすっぽかすか忘れるかしてしまう。欲しい欲しいとデスクは叫ぶ。で記者は最後には「これでも食らえ」と危険情報を投げてくるかフケる。フケると編集者の怒髪は天を突くが考えてみればその方がまだ「これでも食らえ」より良心的なのだ。

偉そうに書いたがこれらは情報収集の基本である。民主党には弁護士やら新聞記者OBやらがワンサカいそうなものなのに何やってるだか。永田議員は旧大蔵官僚上がりだ。要するに情報源の側だった人である。権限で勝手に情報が集まる側といってもいい。集まった情報がオーソライズされる側の住人だったともいえよう。だからわからなかったのかな。

永田議員の場合は国会議員だから先日書いたように院外で発言の責任を問われない特権がある。少なくとも「送金メール」なるものが出回っているのは事実なのだから「フリーの記者」が多分期待したように国会で「こうした文書が出回っている」こと自体を問題にすればよかった。対象も「武部氏の周辺」ぐらいにしておいてね。
すると検証責任は事実上自民党に移る。その結果がどうであれ胡散臭い関係があれば一端はえぐれたであろう。

永田議員は辞職の方向だというが、それは最悪の選択である。それでは国会内の発言さえ唇が寒くなる悪しき前例となる。そんなことをするぐらいならばいっそ疑惑追及に関しては名うてのガンマンである日本共産党と共闘したら。あの国宝級の調査力を借りるのだ。イデオロギーが違っても「自民党幹事長周辺の黒い噂の解明」の一点でならば協力できようよ。銀行名と口座番号をそっと教えてお願いって。少なくともあの人達はまかり間違っても「にぎりつぶす」心配はない。

エッ。共産党はとっくの昔に「送金メール」の入手していて調べあげた結果ガセネタとわかっているかもって。むむむ。あり得るから恐い

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2006年2月24日 (金)

君はフリージンガーを見たか

新聞記者以来の習性で会社ではテレビを付け放しにしている。もう臨時ニュースを追う必要がなくなって久しいのにね。
その時、ものすごいモノが視線をよぎった。『モンスター』でドクターテンマがヨハンを群衆から察したような・・・・。ザザザッて感じで。「お前がテンマか」という半畳を入れている場合ではない。以下を読みたもう。
何だ何だとテレビを見つめたら、そこに確かにモンスターがいた。ただ名前はヨハンではなくてアンニ・フリージンガーというスピードスケート女子長距離のドイツ代表選手だ。

完璧なフォルムだ

しかも解説を聞いているとフリージンガーはすでに「女王」と呼ばれる存在であって、つまり既に有名な人物だというではないか。解説者が「アンニ」とファストネームで呼んでいたところからも知名度がわかる。こんな完璧な存在を今まで知らないで暮らしてきた自らを恥じた。
ところでスピードスケート女子長距離などという競技は日本にあるのか・・・・というとあるのである。なぜかというと代表選手が出ているからだ。そういえば橋本聖子はアルベールビル大会の1500メートル銅メダリストだった。だが橋本聖子とフリージンガーが重ならない。全く別種の人類としか思えない。
ただ橋本聖子のような存在がいない今の日本メディアの露出では普通の人ではフリージンガーを知る機会は少ない。というか普通の人ではない、言い換えれば、いや言い換えるまでもなく異常な人である私でさえキャッチできなかったのだから私にフリージンガーを知らせなかった責任は大マスコミにあるといっていい・・・・ってことにはもちろんならない。

そこでさっそくネットで検索してみると間違いなくフリージンガーは女王にふさわしい経歴である。前大会のソルトレークシティー五輪1500メートルの金メダリストにしてW杯通算33勝。世界記録は4度も塗り替えている超豪なのだそうだ。
競技後にご尊顔を拝したが単に美人とかかわいいというレベルではない。もちろん大変な美貌だが崇高な面立ちでもある。笑顔も「こぼれるような」とか「ややはにかみながら」といった程度とは遠い。民草に向ける王侯貴族のそれである。しかも王女とか妃殿下ではなく女王、つまり王位にある者にしかない輝きがある。

驚いたことはまだある。今大会の、つまり私が目にしたフリージンガーは不調であるという点だ。だったら好調時のフォルムはどうなのか。DVDなど売っているのか。これまた検索しようとして止めた。見つければ買うであろう。買って見たら気を失ってしまう可能性が高い。
ネットの検索によると過去にセミヌードも披露したんだって。見たい! ただこの衝動は性的好奇心に発するとは思えない。名戦闘機の設計図を見たいというのに似ている。何がどうなるとここまでソフィストケイトできるのか。メカニックなだけでもなく愛らしいだけでもない。ともかく非の打ちどころがないのである。競技のDVDでさえ危険なのにセミヌードとは兵器に等しい。

もしやヒトラーはフリージンガーみたいな男女をそろえて第三帝国を完成したかったのかもしれない。
しかし総統。お言葉ではありますが、それは無理です。フリージンガーは滅多にいないから凄いのであって「フリージンガーをそろえる」というのは言語矛盾です。きっとドイツ語でも言語矛盾です。やはりあなたの構想は妄想です。

日本人選手やらその他大勢と比較するとフリージンガーの存在は戦国自衛隊状態である。わが国ではフィギュアスケートで日本人選手「三人娘」とやらがどうこうとわめいているが私はそんな黄色い猿の飛んだり跳ねたりに興味はない。
フリージンガー29歳。年齢も私の好みだ。本当はもう少し上だといいけど。念のため言っておくと私の好みであってフリージンガーが私を好むわけではない。独身だがオランダ人の彼氏がいるという。これほどの女性と付き合える相手はアジアには滅多にいるまい。下手に相手にしていただければ死んでしまう。文字通りの「最終兵器彼女」である。

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2006年2月23日 (木)

民主党の悪い癖

「楽しみにしていて下さい」と思わせぶった挙げ句の党首討論で民主党の前原誠司代表が例の送金メール問題を茶を濁す程度の時間で済ませた。しかも口座名も銀行名もあげず仕舞い。無理筋だと20日に指摘した国政調査権の発動を繰り返すばかり。

実はこれが民主党の悪い癖である。このブログをかつてより読んでいただいている方には「またか」と憤られそうだが、かつて小誌が民主党が掲げる「政権担当能力」の具体的な姿を取材しようとしたら「答えられる者を用意できない」と最後まで突っぱねられたことを昨年数回にわたって書いた。
つまり民主党は他でもない当の本人が「○○だあー」と打ち上げた、その○○の具体性を尋ねると途端に黙ったり、答えられないとしたり、他の問題にすり替えようとする不可解な習性があるのだ。

奇っ怪である。小誌は「ノンフィクションだあー」「弱者・少数者が主な取材対象だあー」と叫んでいる。だから他のあれこれ、例えば「なぜ売れないんですか」という質問には答えられなくても、自ら叫んだスローガンの趣旨ぐらいは説明できる。小社ですらできることを民主党ができないのはなぜか。
それは多分この党が何かやりたいことがあって始めたという出生を持たないからであろう。魚を売る、本を売る、ボランティアにいそしむといった単純な興味や本能的な欲求から行動を開始していれば「○○だあー」が説明できないはずがない。
結局この党は自民党の補集合である。就職活動の際に自分のしたいことができそうな会社を訪問するのではなく回りの動きに合わせて支離滅裂なエントリーをする人がいるが似ているね。だからいざ面接の時に「当社を希望した理由は」と聞かれて答えられない。

民主党が本当は誰のための党であるべきかの答えは出ている。小泉「構造改革」でふるい落とされていく人々のための党だ。無論ふるい落とされかかっているのに「オレは違う」と事実をみようとしない人は多い。その矜持を捨てるのもまたつらい。
だから、そうした人々を「君は弱者だ」とカテゴライズして「わが党はあなたの味方です」といっても何やら自らの貧弱な姿を見抜かれたようで響きにくい。だから誰もが気の毒だと自覚せざるを得ない人々を応援することで間接的に「味方」であるメッセージを送るべきである。ゆえに1月20日に「前原代表は豪雪地帯で体を張れ」と書いた。

今ならばレイテ島の地滑りである。私は発生以来、気になって仕方がない。近隣のフィリピンで約1400人が行方不明になっていて明日の命もわからない状態なのだ。
ところが今日(22日)にしてから朝よりトリノ五輪の女子フィギュアスケートの日本勢の話題一色である。いつから日本人はご近所の国の災難よりも採点基準さえハッキリしないフィギュアスケート選手の「活躍」の方に目がいくような血も涙もない民族に成り下がったのであろうか。
前原代表がレイテに赴けば全く報道しないわけにはいかないから伝わる。その時に初めて民主党が何を大切にしているのかわかる。そうしないのはそうした人々などどうでもいいと思っているからだ。だったら小泉自民と変わらない。自民と同じ政党をもう1つほしいとは誰だって思わない。
できもしないことをできるように振る舞っていても化けの皮がはがされて終わりだ。労組依存を改めるのはよろしいが、だったら選挙の時に誰がポスター貼りをするのかと聞かれて突然黙るようではダメなのである。

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2006年2月22日 (水)

麻原彰晃と大川周明の「詐病」

「(この法廷は)遊びだよ。遊び」(麻原彰晃)
「この東京裁判は茶番である」(大川周明)

麻原の言は1997年4月の東京地裁における弁護人質問に答えて、大川発言は裁判当初から不起訴になって以後に何人かが聞いたとされる。
一審で死刑判決を受けた麻原被告に対して東京高裁が依頼した精神鑑定の結果が20日に公表された。「偽痴呆性の無言状態」だという。新聞の解説では「脳の変化を伴わない知的レベルの見せかけの低下」だそうで要するに精神障害は認められないということだ。
これを不服として弁護団が控訴趣意書を提出しないままだと地裁判決で確定する可能性が強い。といって控訴趣意書の提出は鑑定の結果を事実上受け入れるに等しいから弁護団もしにくい。出しても控訴棄却がありうる。

私は精神医学の素人だから鑑定結果の真偽はわからない。また拘置中の麻原被告の取材はジャーナリストに許されていないから(ここも暗黒司法の一端)接見した医師や家族などの話から判断するしかないが、仮に詐病だとしたら、ただならぬ覚悟の名演技である。漏れ聞く様子では脳に何らかの病を得ているとしか思えないからだ。
だいたい詐病の動機がわからない。どっちに転んでも死刑ならば心神喪失で逃れようとするのはわかるが事ここに至っては死刑が確定してしまう分だけ損である。
真実から逃げているとの解釈も多いが、拘置所での書くもはばかられる糞尿まみれの途方もない状況なら我慢できるが真実と向き合うのは耐えられないという精神構造がわからない。

気になる点がある。小社刊の『カルトにハマる11の動機』の著者で草創期からのオウム真理教信徒だった加納秀一氏の記載である。京都大学で行われた講演会の質疑応答で「麻原はほとんど間髪入れず即答する」(前掲書)。その際に学生の「あなたは答える時、考えてしゃべっているようにみえないんですが」との質問に対して麻原被告は「はい、そうです。私は考えていません」と答えた。
考えもせずに即答し、どうやらその内容は京大の学生をして「おーっ」「すごいね」の声が上げしめるほどだった。この後に10人近くの京大生が入会したという。
こうした構図が生じる理由を加納氏は「内的確信」が麻原被告にあると想像する。一種のアイデアリズムなのか。考えていないならばしゃべっても黙っても同じである。私はこの「内的確信」が知りたい。ジャーナリズムに閉ざしたまま刑死したら永遠にわからなくなる。

詐病といえば極東国際軍事裁判(東京裁判)でA 級戦犯として起訴されながら精神鑑定のために裁判から除かれ、結局は不起訴となった大川周明を思い出す。
大川と麻原被告はよく似ている。人相風体が異様であり、オカルティックな言動で注目を浴び、なぜかエリート層を引きつけ、それらを犯罪に走らせ、裁判となるや精神障害を疑われた。そして冒頭のように裁判そのものに否定的であった。共同謀議が問題となったのも似ている。
大川の裁判での不可解な行動は以下のようだ。

水色のパジャマに、素足に下駄をつっかけ、洋服の上衣を手に持って入廷した。(中略)頭をかく、うつむいている顔から長い鼻水がたれる、顔を起こして合掌する、午後は上衣を着て入廷したが、暑くなると脱ぎ、パジャマのボタンをはずして胸をはだける(中略)そのうちに東条(英機)の頭をピシャリとやったのである(『占領と民主主義』神田文人著)

鑑定にあたった内村祐之東京大学医学部精神医学教室教授は最終的に「進行麻痺」の診断を下した。進行麻痺は精神障害である。梅毒トレポネマが脳内を侵して発病する。問題は1913年に梅毒トレポネマを脳実質から発見したのは野口英世であり、東京裁判の時点ではマラリア療法やペニシリン治療などの治癒法が確立しつつあった点だ。すぐれた学究でもあった大川がこのことを知っていた可能性は大きい。
要するに大川は精神障害ではあるが治るという実に都合のいい病気にかかっていたわけだ。裁判から外された後に大川が難解なコーランを全訳したり自伝を書き残していること、1957年の死去まで71歳まで生き長らえていること、冒頭の東京裁判への非難などを考え合わせて詐病説はいまだに根強い。

ただし内村祐之教授が詐病とわかって精神障害の診断を下したとは考えられない。内村鑑三の息子でもある彼は元々大川に何のシンパシーもないし、そもそも内村祐之といえば日本に「精神医学」を確立した大学者である。詳しくは『日本の精神鑑定』(みすず書房刊)に譲るが、仮に内村をも欺いたとすれば途方もない怪物である。
東京裁判を実質的に仕切っていたGHQがこの点を深追いしなかったのは大川はしょせん民間人でもあり共同謀議説の立証などでも脇役で、変に騒がれては迷惑との判断もあったであろう。それに対して麻原は一連の事件の首謀者とみなされていて彼の裁きなくして事件の司法的決着はつかない立場にある。

いずれにせよ大川や麻原被告のようなモンスターの根本を精神医学にだけ委ねるのはあまりにも危険である。彼を葬っても「内的確信」の所在や「偽痴呆性」とやらを貫く理由を暴かないと第二・第三のモンスターが出てくる予兆さえ我々は学べない。そして本来はそれこそが彼を真に罰する方法だ。医師や臨床心理士以外のあらゆる分野のエキスパートに接見させ、その正体を突き止めるべきである。

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2006年2月21日 (火)

もはや小泉改革は極左である

衆議院の議席は480ある。小選挙区は300あって1選挙区で必ず1人は当選する。比例代表区は180あって政党にドント式で比例配分される。結果として総選挙をやれば確実に480人が埋まる。たとえタイゾーだとしても。
・・・・という当たり前のことが諸悪の根源のような気がするから日本の民主主義もどん詰まりだ。

先の総選挙で痛感したが小選挙区で勝てる公算は自民か民主の公認ないしは事実上の公認がないと不可能である。うち自民熱烈支持の人とは口も利きたくないので、この際除けて考えるとすると「よりまし自民」か民主のどちらかを選ばねばならぬ。どうやらこの「よりまし自民」が小泉改革らしい。
まずここでため息が出る。直近の各種世論調査で小泉内閣の支持率が下がっているが、それでも4割以上いる。ねえ読者の皆様。皆様の回りに小泉支持の人っていますか? いったいどこに4割もいるのだろうか。4%でなくて4割だ。
私が日本語を生業としている仕事でなかったらとっくの昔に海外へ逃げ出している。その意味では仕事の選択を誤ったと後悔しきりである。
確かに小泉登場以前のヨッシャヨッシャの油ギッシュばらまき金権自民よりはいいかもしれない・・・・といったんは思ってもおかしくはない。もう通用しない方法だし森喜朗前首相の数々の愚行を目にすれば誰だって勘弁してよと願う。だから当初の小泉ブームはわかるが5年経っても支持率4割は解せない。
要するに自民党内に小泉的でもなくヨッシャヨッシャでもない、別の魅力を醸す人物がいないということであろう。

今は格差社会かとの議論が国会で話題となっている。冗談じゃない。格差社会に決まっている。出版界だけでも大版元と零細版元、老舗版元と新参版元には歴とした格差がある。もともとある格差をウンと広げたのが小泉改革である。そうに決まっている。例えば女子学生が就職活動の時にどんな災いをこうむっているかを知るだけでわかる。
あらゆる切れ目に存在する格差を広げ、上と下にある者を反目させるのが格差拡大である。その「上」もまた真に上なわけではなく、さらなる上から見れば下である。
こうした微差のナルシシズムにつけ込んだのが昨年の総選挙だった。小泉自民に入れた社会的弱者は「郵便局員は公務員でのうのうとしているからバッサリやってくれ」とのデマゴーグに一杯食った。よくよく考えれば一介の郵便局員は別に豪勢な暮らしをしているわけでも怠惰なわけでもない。それでも劣悪な環境下にある契約社員やフリーターよりは恵まれていよう。その裂け目に塩を塗って反目させた。人間の尊厳を踏みにじる行為である。

政治とは不合理な存在である。市場原理は合理的である。ダメ人間をクビにするのが市場原理であり助けてやるのが政治である。だから「官から民に」が万能なはずはない。もし本気でそう信じていたら無政府主義である。かつて日本は「成功した唯一の社会主義国」と揶揄されたが今は理念なきアナキズムに走っている。その点で私はかつて述べたように小泉政権を左翼と位置づける。しかも極左だ。

公務員は本質的に泥棒である。人の財布からカネを取れば泥棒だ。国家はそれを税の名の下に合法的に行う。その税で暮らしているのが公務員だ。だから泥棒の一族である。ゆえに私は彼らを人類とは呼ばない。人類によく似た「吏類」という科である。
彼らを泥棒として牢屋にぶち込まないのは、そのお金で公務を執行するからだ。盗んだ金で暮らす代わりに金主のためにサービスしますとね。そこで人々は納得する。私もその通りにする「吏類」は必要だと判断しているし頭が下がる働きをしている「吏類」は尊敬さえする。無用論をぶつ気はない。
だから本来は「官から民に」ではなく官のサービスが税に見合っているかが大切なのだ。そんなことは期待できない。泥棒はしょせん泥棒だから減らしちゃえというならば合法的に盗んだ金を返すのが常道であろう。つまり減税すべきだ。だが基調は増税である。つじつまが合わぬこと甚だしい。

そこに遅れてきたシカゴ学派みたいな竹中平蔵大臣と「カイゼン」の奥田の爺さまが好き放題をやる。アングロサクソン流弱肉強食を背景にした「カイゼン」では心優しき青少年はニートになるかホリエを目指すかしか身を守り心を痛めない方法がない。
小泉改革は「世の中はジャングルだ」と宣言して人々に「ジャングルの掟を思い出せ」と鼓舞する。大昔のDNAを揺さぶればジャングルの掟ぐらいはイメージできる。それは食うか(ホリエ)食われるか(自殺)逃げるか(ニート)だ。
人類がもし進歩してきたとすれば「世の中はジャングルではない」を追求した点であろう。小泉首相は百獣の王ライオンだけあって人間社会がジャングルの掟で仕切られても平気だろうが、その行動は人類の進歩を否定して獣に戻れというに等しい。獣はより弱い者を餌食にしてしか生きられない。

冒頭に戻ろう。自民党内に人を得られぬ以上は民主党に期待するしかない。まったくもって絶望的だが実際問題としてそれしか選択肢はない。ところが・・・・。ああ随分と書いてしまった。この続きは後日。

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2006年2月20日 (月)

永田寿康議員は斎藤隆夫になれ

堀江貴文被告が武部勤自民党幹事長の二男に3000万円を振り込むよう指示していたとのメールを民主党の永田寿康衆議院議員が国会で暴露して大問題だ。
このニュースを聞いての第一印象は「まだ民主党はあったのか」であった。昨年の総選挙前に民主党への批判を散々書いてきた。それは期待の裏返しであったが聞き入れられることなく惨敗し前原誠司新代表体制となった。
その前原体制は対案主義との愚挙を打ち出して私はすっかりサジを投げてしまった。議員が法案を作るのが主流の立法機関ならばともかく内閣提出法案が主流の日本では与党の法案には霞ヶ関というシンクタンクがついている。

一方の民主党は昨年このブログに再三書いたごとく代表級の事務所の郵便物さえあふれ返って読まれていないありさまだ。明らかに多勢に無勢である。
国会は議員が1票を持って過半数で決するのが習いだ。いわば平原での決戦で無勢が正面から多勢に戦いを挑めば負けに決まっている。事実最近の報道でも

民主党案は賛成少数で否決された

で終わり。露出は減りまくり最近では「もしかしたら民主党議員はどこかで大量死してるかも」と思った。いや思っちゃいないがそんな感じだった。

で、久々にスキャンダルという無勢にふさわしいゲリラ戦を仕組んだはよかったが例のメールには送受信者および振込先の銀行口座が明記されていないので自民党の反撃に遭い懲罰動議をだされる始末である。
「情報提供者を守るため」に隠さざるを得ないとの民主党の主張はまともで、それを答えよとの自民党の主張はメチャクチャだ。
だがそもそも自民党とはそうした党である。土豪劣紳とボンボンと小役人上がりに加えて小泉チルドレンなる有象無象が権力の蜜に結集した集団に「情報源の秘匿」が表現の自由に不可欠だといっても理解できる脳みそが存在しない。
だから前から言っている。せめて野党ぐらいは「情報源の秘匿」を法的に担保する法改正案ぐらい提出せよと。それをしないで慌てふためいても遅いのだ。
最初に名誉棄損だとの声が出た。しかし憲法51条で永田議員の演説や討論は「院外で責任を問はれない」から同58条の「院内の秩序をみだした」行為としての懲罰を当てはめにきた。

民主党の反撃は憲法62条で定めた国政調査権の行使、具体的には同条を受けた国会法104条で議院または委員会による記録の提出の求めを銀行に行うならば情報源を明らかにすることなく事実が明らかにできるということだが無理筋だね。
104条は主に立法機関が「内閣、官公署」といった行政に対する牽制の意味合いが濃く、民間企業である銀行に準用したら、それが極めて重要で特異なケースと証明できない限り一種の職権乱用であるからだ。

さて憲法51条で守られていない小誌のようなメディアが「情報源の秘匿」を守りつつスキャンダルを追及すると相手が強者の場合にはしばしば民事の名誉棄損訴訟を起こされ、下手すれば刑事でも告発される。「情報源の秘匿」が法的に保護されていない我が国では結局はメディア側が負けるのだ。私が暗黒司法と呼ぶゆえんである。
こうした蘊蓄がまるで理解できない脳みその集団は、したがって同様の論理で懲罰委員会の審査を進めよう。逆転するには「情報源の秘匿」を破って事実を明らかにするか情報源を説得して名乗り出てもらうしかない。でも後者は難しい。なぜならば情報源はだいたい想像がつき、それがその通りだったら名乗り出ようがないからだ。といって前者を実行すれば民主党への内部告発などは今後いっさいなくなり信用は地に堕ちる。

むしろ懲罰委で争ってみてはどうか。腐った脳みその持ち主のなかには早くも「除名だ」と叫んでいる者もいるらしい。除名には出席議員の3分の2以上の賛成が必要だが現在の与党+自民党に帰りたい郵政民営化法案反対議員で成立可能だ。
永田議員はその時点で不屈の男になり得る。というのも除名の歴史は今から考えれば誤りの歴史とも言い換えられるからだ。
直近の1951年、日本共産党の川上貫一議員の除名は多数講和や米軍基地政策に反対し、GHQの怒りを恐れた国会が「品位を汚した」云々で決行した。現在より振り返ると明らかに除名は行き過ぎである。

その前が有名な1940年の斎藤隆夫衆議院議員の除名である。彼がなした「反軍演説」が聖戦を汚す行為として除名に至るのだが、今日では「反軍演説」が軍部独裁に対する政党政治家の最期の一矢であり、極めて勇気ある感動的な演説であったと賞賛されると同時に、それを圧殺したのは議会の自殺行為と評価されている。

民主党および永田議員よ。どうせ仕掛けたケンカならば除名覚悟で突っ走れ。「反軍演説」直後の斎藤のように支持する国民は多数いる。間違っても情報源をさらし者にしたりナアナアの妥協をはかったりしてはならない。ましてや斎藤の時みたいに民主党自体が永田議員を切るような保身はもってのほかである

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2006年2月18日 (土)

ドンキのオリジン買収は独身男性無視だ

私のような中年独身男性の友である「オリジン弁当」を経営するオリジン東秀が、これまた中年独身男性の友であるドン・キホーテに買収されつつある。TOBに失敗して誰もがあきらめたと思っていたら市場で買い進んでいたとはね。
さすがドンキ。前身の名称が「泥棒市場」というだけはある。泥棒だから死んだふりをするのはお得意だ。アッ!それはクマに襲われた時だった。
違う違う。泥棒(窃盗犯)にもいろいろあるが警察がノビとか出店荒らしと呼び、ついでに記者もその隠語で覚えている泥棒の類とよく似た行動だと言いたかったんだ。デスクは仮タイトルに「出店荒らし」と一行つけて出稿するのだ。
出店荒らしとは閉店中の店などに深夜忍び込んでは盗むノビ(忍び込み)である。「泥棒市場」だけあって「市場」にノビをかけたわけだ。ただし夜間取引はライブドアの一件で厳しくなったから死んだふりで市場に忍び込んだ。しかも鈍器(ドンキ)を手にして・・・・とベタな洒落にもなる。お里が知れたってとこですかね。

どちらも中年独身男性の友だから私は大歓迎!といえるかというと複雑である。オリジン弁当を頻繁に訪れる身である私にとって、その経営母体がドンキとなると、やはり頻繁に利用するドンキの店舗のイメージが重なってしまうのだ。
たぶん中年独身男性にとってのオリジン弁当はこんなところだ。自炊できないではないが40過ぎて1人で料理を作るのはどえらく空しい。ウソだと思うならば40過ぎまで独身でいるか、すでにその年齢に達している既婚者は妻子を叩き出してみればわかる。で、必然的にコンビニ弁当に走るわけだが、たまにはワンランク上の総菜や弁当を食べてみたくなる。そこで登場するのがオリジン弁当か「ほっかほっか亭」である。
ところが「ほっかほっか亭」は深夜営業をしていない。一方の私は編集者なので終電帰りは当たり前の身である。すると燦然と輝く「ワンランク上」がオリジンなのだ。オリジンが燦然と輝いていいのかとの突っ込みはこの際なかったこととしよう。

一方のドンキは中年独身男性が身の回りのあれこれを調達するに当たって「まあいいか」レベルの、すなわち「ワンランク下」を間に合わせる存在である。

したがって「ワンランク下」が「上」を飲み込むと価値観の変容を我々(といって何人いるか知らぬが)中年独身男性は強いられる。コンビニ弁当をアベレージに設定すれば、それ以下の存在となる。ファーストフードは何となくコンビニ弁当と同格だ。となると「賞味期限切れのコンビニ弁当」くらいがイメージとして近い。だがコンビニは期限切れを売らない。
もっぱら賞味期限切れ弁当を狙うとすれば小誌の分厚い?取材の結果としてはホームレスということになる。そこまでは追いつめられていない当方としては納得のいかない組み合わせである。

なぜオリジンが「ワンランク上」かというと前面に健康志向を打ち出しているからである。私は自分の健康なぞに微塵も気を使っていない。矛盾するようだが正しい。ここから重要なところだが健康のことなど何も忖度しない身が健康志向の店で食物を買うという点で「ワンランク上」の気分が味わえるのである。
わからないというあなた。あなたは人の痛みがわからない愚か者か正しい生活を日々送っている賢者かのどちらかだ。
オリジンの成長を支えた総菜の量り売りも中年独身男性にはありがたい。それをさかなに家で酒を飲む。独身だから当然1人で飲む。その友が缶詰めのイワシ缶よりはオリジンの総菜の方がぜいたくであろう。

ダスキンの資本下にあるミスタードーナツはどう説明するとの詰問もあろう。ないか。でも答えよう。ミスドは中年独身男性の食の枢軸ではない。ミスドとすら呼ばない。しかもミスドは添加物に関する一連の騒動で、ある意味キチンと自らが何者かを情報公開している。

オリジンに対して友好的TOBを発表したイオングループ、もっといえばジャスコとの組み合わせならばどうかというと、やはりドンキよりはいいと答えざるを得ない。
ジャスコは既婚女性の友である。そのジャスコがオリジンを傘下に収める。オリジンは中年独身男性の友である。中年独身男性は仮空の愛妻弁当つまり妻(既婚女性)の味を夢想していると同時に多くは可及的速やかに妻を得たいと望んでいる。
こうした論法から正義はイオンにあるとなる。ドンキよあきらめよ。

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2006年2月17日 (金)

ライブドア粉飾立件は難航か

堀江貴文被告が逮捕される前後から次々と紙面を飾った起訴事実以外の「新疑惑」のネタ元はどこか。「新疑惑」の核心はライブドア本体の粉飾である。報道内容は詳細を極めていた。
ライブドア社はガサ入れ以降は主立った資料がないからネタ元になりようがない。一部に関わった人物や機関は全体像を知りようがない。粉飾疑惑の当事者は身柄が取られているから取材できない。となると資料を持っていて全体を想像しうる唯一のネタ元は大方予測がつく。
仮に粉飾での再逮捕があったとして会見などで明らかにされた容疑事実と「新疑惑」のあらましがピタリと一致すればネタ元は地検で決まりだ。だから私は「新疑惑」報道の記事を大切にしまってある。

一方で堀江被告は起訴されたが現時点(16日)で粉飾で再逮捕されていない。この点は意外と重要な意味を持つのではないか。
堀江被告が起訴された日に出された伊藤次席検事の

本件はあくまでその(証券取引の公正を害する犯罪行為)一端であり、引き続き、証券取引等監視委員会と連携し、全容解明に向け、徹底的に捜査する

とのコメントは「並々ならぬ意欲」と評価するのが正しいか。私はむしろ焦りとまではいわないが案外と詰め切れていないいら立ちを示している感じがする。人はいらつくとしばしば激しい口調になるからだ。

起訴時点で再逮捕しないのは珍しい。少なくとも当局の定石ではない。なぜならば保釈を許してしまう危険があるからだ。未決勾留でつないだとしても窮余の策に近い。
それができなかったのはできない理由があるはずだ。粉飾の全体像を明らかにするにはカネの流れを解明する必要がある。報道によれば資金洗浄まがいの手法は最終的にスイス系のプライベートバンク(PB)が絡んでいるようだ。となるとここで手間取っている可能性が大きい。

スイス系PBの存在はスイスという国家の独自の歴史を知らないとわかりにくい。極東の我が島国と違ってスイスはかつて列強と呼ばれた欧州の大国、具体的にはフランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国、イタリアの押しくら饅頭の真ん中に位置していた。そこでの生き残りは株の世界でいう「逆張り」に似る。
すなわち帝政や王政、独裁制で効率よく統治するに対して直接民主制を、常備軍による植民地拡大ではなく永世中立を、常備軍による防衛ではなく軍隊の貸し出しを、それぞれ用いてきた。
銀行も永世中立国だから各国が預けたという広く指摘される側面があると同時に利害相反状態の各国間の資産を分け隔てなく預かることで攻撃しにくくするという防御の手段との面も大きい。
戦時国際法など屁とも思わなかったナチスドイツが敵視していたユダヤ系の資産状況を教えろとスイスに迫った際に、スイスは軍事侵攻を避ける代わりに情報開示するとの取引に応じなかった。むしろ顧客情報の漏示を刑事罰に問うよう法改正までしたのである。義務は退職者にまで及ぶ厳しい内容だ。
これも逆張りの一環で、そこまで厳しければ同時に資産を預けていたであろうナチスのそれも安全となるからヒトラーでさえスイスを踏みにじらなかった。

有名なサインと番号だけで口座が開けるシステムは昨今ではさすがに減ってきたが匿名性の高いスイス系PBは健在である。これに加えて厳しい守秘義務があるから犯罪者の口座でさえ容易に情報提供をしない。これはスイスの国防上の要諦であるから国内では無敵の東京地検特捜部も四苦八苦しているであろう。
ここがブラックボックスになってしまうと粉飾の全容を立証するのは難しい。親族でさえ番号を生前に聞いていなかったばかりに口座を引き継げないほどの厳しさである。犯罪者は別だとの論理をいったん認めると結局はスイス系金融機関の信用低下につながり同国の安全保障の根幹が揺らぐ。
フランスは核を持つ。核兵器の使用は犯罪に等しい。だが安全保障上許されている。ならばスイスの政策だけを責めるのはお門違いだ。

さて文頭のネタ元である。仮にそれを検察とすれば、このブラックボックス解明の大変さを事前に察知していたのではないか。だからマスコミにリークして万一未決勾留が長引いても世論の批判を招かないように手を打ったと考えられる。
ちまたに「検察のリーク」との言葉がよく使われているが本来、当局は捜査中の事案をメディアがすっぱ抜くのを嫌う存在である。それが進んで「リーク」する動機があったとすれば正面からの捜査では立件の難航が予測される場合しか考えられない。
同時に堀江被告の否認もスイス系PBの特殊性を知っていれば合理的判断だともいえる。誰が何といっても顧客の堀江被告が要求しない限りスイス系PBが情報開示をしないとなれば、そしてそこがブラックボックス化するとわかっていれば文字通り「沈黙は金」である。

スイス系金融機関といえば『ゴルゴ13』のデューク東郷の振込先である。彼と堀江被告はよく似ている。まず2人とも優秀な狙撃手である。だから依頼人は彼に仕事を任せる。ゴルゴは銃で、堀江被告は市場で、アクロバティックな手法をも時に駆使して依頼人を満足させる。そしてトドのつまりは犯罪者でもある。
そうだ。ブラックジャックも「スイス銀行を通してキャッシュで」とのセリフを吐いていた(73話 こっぱみじん)。彼もまた優秀な腕を持ち、結局は犯罪者だ。

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2006年2月16日 (木)

奥田碩トヨタ会長という名の怪物

奥田碩トヨタ自動車会長。73歳のこの爺さまがどれだけの権力を握っているのか。まずは利益1兆円企業のトヨタの会長である。同時に道路行政を担う国土交通省交通政策審議会の会長でもある。車と道路は不即不離の関係であるが彼は両方のトップ級を兼ねる。

トヨタはいうまでもなく東京証券取引所の1部上場企業であるが奥田会長は東証の社外取締役である。「社外」という言葉のイメージから深く詮索されないが、社外取締役は商法に定められた法的な役職である。ちなみに「社長」や「重役」の呼称に法的な位置づけはない。
社外取締役は通常の取締役のように業務は執行しないが経営に対する監視や明確化を職務とする。自らの会社の株券(しかも超優良)の売買をする鉄火場を公正な立場で監視できるのか。

日本経済団体連合会(日本経団連)会長でもある。日本経団連は旧経団連と旧日本経営者団体連盟(日経連)が合併してできた。旧経団連は大企業の集合体で「財界の総本山」と呼ばれ自民党の大スポンサーだった。旧日経連は「財界の労務担当」とされて労働組合の敵役である。
したがって日本経団連会長は大金持ち代表兼労組対策のトップということになる。財界は伝統的に与党に強い影響力を持つ。

経済財政諮問会議の有力な民間議員でもある。同会議は01年の省庁改正で内閣府に新設され予算編成の基本方針など国家財政に深く関与する。郵政民営化など小泉「構造改革」の方針(骨太の方針)はここから発した。
05年に成立した郵政民営化関係法に基づいて発足した日本郵政株式会社の社外取締役にも奥田会長は就いた。日本郵政という会社は巨大な物流と金融機関である。奥田会長は民営化を進める当事者として経済財政諮問会議議員を務める一方で、その所産として誕生した日本郵政の役員にも滑り込んだ。

まだある。彼は女帝女系天皇を認めるとした「皇室典範に関する有識者会議」の一員で紀子妃の懐妊がなければこの会議で決まった皇室典範改正法案が今国会に提出されるはずだった。

つまりこういうことだ。まず奥田会長は利益1兆円企業(断っておくが売上1兆円ではない!)の長であると同時に日本経団連のトップでもあるから民間経済の中枢である。ドンといってもいい。加えて旧日経連を引き継いでいるから労働者の特に賃金アップに渋い顔をする親分でもある。

財界は政界には強い。だから政界への影響力はある。だが霞ヶ関には弱いとされていた。しかし奥田会長は交通政策審議会会長であり何よりも経済財政諮問会議議員だ。同会議は霞ヶ関の中核「官僚の中の官僚」たる財務省主計局の権限を引きはがす力を持つ。この時点で霞ヶ関にもにらみが効くから無敵となる。同会議の「骨太の方針」は国家財政を牛耳る。
つまり奥田会長は広義の「経済」である民間経済と国家財政の両方に強い影響力を持っているのだ。その上に東証という世界有数の市場の重役だ。

さらに「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーとして皇室にまで影響力を伸ばそうとした。それは頓挫しそうだが今度は日本郵政というメガバンクが束になっても勝てそうもない金融組織の重役に名を連ねた。郵政の物流部門を担うのはもちろん車である。運ぶのは信書すなわち個人情報だ。

数え上げればきりがない。例えばトヨタはすでに豊田工業大学を持ち、海陽学園設立の中心でもある。同学園は中高一貫全寮制エリート育成男子校で今春より開校するが早くも高い偏差値が予想される。遂に教育にまでトヨタは進出してきた。

ついでにいうとトヨタの年間広告費はばく大でマスコミはトヨタ批判などできようはずもない。

長々と書いてきたが、我々は政官業+メディアのすべてにおいて強烈な影響力をいつの間にか1人の爺さまに与えていたのだ。小泉首相を私は独裁者と確信するし大嫌いだが彼の場合は少なくとも選挙で選ばれての権力の座だ。ところが奥田会長は違う。
そうした人物に巨大権力を与えている。しかも批判さえされないから国民の大多数がその怖さを感じない。ゆえによけいに怖い。利害相反関係やマッチポンプと疑えるような職務の兼任も許している。

奥田会長の突出と小泉政権5年間は重なり合う。この間に日本はずいぶんと息苦しくなった。その理由は「乾いたゾウキンを絞る」トヨタ式経営が全国民を覆い出したからといって間違いだろうか。いつの間にかカンバンやアンドンやカイゼンが生活の隅々にまで忍び寄っている気がする。
座っている者は立っての作業を求められ、最適な導線とやらを歩まされ、生きるに十分な収入で気安く暮らせる生活よりも徹底的に「カイゼン」し続けて利益の最大化を目指す生き方の方が善とみなされる社会だ。
当然のこととして落伍者が出る。トヨタ内ならば退職して去っていくからいいが国家は落伍した国民を国外追放するわけにはいかない。結果としてニートや意図せざる無業者やホームレスが生まれる。自殺者は毎年約3万人を数える。

少なくとも私はゴメンの構図だ。トヨタ式はトヨタの中だけでやっていてもらいたい。じゃなければ利益1兆円から国民に給料を払え

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2006年2月15日 (水)

第48回グラミー賞の感想

U2がノミネートされた5部門全部、それも最優秀アルバムと優秀楽曲の主要3部門の2つを獲得した。確かにHow To Dismantle An Atomic Bombというアルバムは買ったし、完成度も高いし、U2は好きなバンドだし、ついでにipodのCMも格好よかった。でもノミネート全勝は持ち上げすぎじゃないの?

グラミーの傾向として「実績」「安定感」「リベラル」「正統派」が重視されるがU2・・・・というより Bonoには全部ある。もはや崇高な哲学者の趣だ。01年と02年もU2はもう1つの主要部門である最優秀レコード賞を連続受賞。とても審査員に好かれやすい要素がそろっている。
とんがっていたようなイメージがあったがいつの間にかデビュー25年。ただし来日コンサートで朝の9時から客を並ばせるようなことをやっていると言行不一致と今に叩かれるぞ。

ちなみに最優秀レコード賞はGreen DayのBoulevard Of Broken Dreams。Green Dayが以前はパンクだったというと今のファンは驚き、パンク時代のファンはそうして驚く人が多数いることに驚く。「よくぞ更生しましたね」とのご褒美か。

Kanye Westは激高しているだろうよ。8部門ノミネートで3つ獲得といっても最優秀レコードと最優秀アルバムは逃した。あれだけ売れても結局「お前はRapの賞をもらっとけばいいんだ」との扱いはないだろう。きっとブッシュの陰謀だと思い詰めているに違いない。審査員席があったらダイブしそうだな。
でもそのルサンチマンが巡って彼の作品をよりエモくしているような気もするから悪くもなさそうだがいかがか。やっぱり怒るか。

Kanyeと同じく「8の3」だったMariah Carey。Kanyeと親しいMariahがKanyeとそっくりな地味目の受賞。でも満足度はKanyeと逆できっとホッとしている。何しろ解雇の憂き目まで遭っての、ほとんど奇跡の復活だったから。
MariahもU2と正反対でグラミーからは疎まれてきた。最初の全盛期のハーやフーがいけないのだね。でもそれを止めて売れなくなって開き直ってハーフーに立ち戻り、思わず目が点になるPVも作ってアルバムを売りまくったのだから。一種の肉体労働者のそれに重なりリベラルの琴線に触れたのかも。

大御所ではStevie Wonder が2部門でBruce Springsteenが1部門で受賞。対象となった曲やアルバムは両者とも原点回帰的意味合いが強かった。StevieはMTV時代のキャッチーな路線以前の戦闘的な楽曲を、しかも10年振りに発表となれば伝統と実績を重んじるグラミーで無冠とはいえない。Bruceは以前にも書いたようにブッシュとの戦いに負けて静かなアルバムを出した。リベラルが放っておかない。
いずれにせよ「歌丸師匠に座布団一枚」という感覚に実に近い。

Gwen Stefani様はお気の毒でした。やっぱり色々な意味で行き過ぎたんですね。最優秀アルバムでもおかしくなかったけれども相手が Bonoでは。フェロモンでは哲学者には勝てないということか。最優秀女性ポップボーカルパフォーマンスは彼女のためにあるような賞だと思っていたがKelly Clarksonに負けてしまった。朝日新聞の元旦紙面を飾ったのはやはり不吉な兆候だった。
でもファンは変わらぬ大爆発を今後も期待している。Madonnaは「Gwenは私を真似ている」と批判しているようだが元祖誰かさんを真似てデビューのMadonnaのいうことを気にする必要はない。というよりラジー賞に突っ走ったら本当にMadonnaの真似になるから頼むので止めて下さい。

そのKellyちゃんが最優秀ボーカルアルバムを合わせて2部門、彼女のノミネートは元々この2つだったから完勝したわけだが、批判する声もあろう。だが以前に述べたようにアルバムを聴けば彼女が受賞にふさわしい能力の持ち主であるとわかる。現にアメリカのティーンは圧倒的に支持しているではないか。ロックは元々ティーンが支えていたのである。

最優秀新人賞はCiaraとJohn Legendの一騎打ちとの下馬評通りで8部門ノミニーのJohnが優勢勝ち。怒り心頭のKanye先輩にどう報告したものか。あの「マハ・マハ」と聞こえるBlack Eyed Peasも含めてヒップホップは強かった。ただ最後の壁が破れない。

それにしても最近、というより21世紀に入ってからのグラミーはそこそこ納得はいく選考ではあるが以前の輝きを失っていると感じるのは私だけか。それは前述のような傾向から選ぶべき人やグループを見下したり排除している(といえばだいたいわかるよね)のか、アメリカのポップスが曲がり角に来ているのか。でもこの「曲がり角論」はいつの時代でもやっているから判断が難しい。日本のレコード大賞のようにならないか心配だ。

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2006年2月14日 (火)

「錬金術」で「勝ち組」が嗤える訳

驚いたことに「オレは勝ち組だ」「私も勝ち組に回った」と平然と言う人々っているんですねえ。今回はそうした人々を思いきり嗤ってやる。

「勝ち組」を私が初めて知ったのは小学高学年で見たテレビであった。ブラジルへ戦前に移民した日本人や日系人が先の大戦での日本敗北を認めずに「日本は勝った」と叫んで天皇陛下万歳をしていた。日本にいれば、または復員・引き揚げをしていればGHQ占領下の焼け野原にあって嫌でも日本の敗戦を実感せねばならなかったがブラジルなど主に南米への移民はそれがなかったから「日本は勝った」と盲信し続けた可能性が高い。
さらに勝ち組は集団を作って日本の敗北を認める日系移民と衝突するなどの事件も起き、「勝ち組」は一時期社会問題ともなった。
私はここで移民の「勝ち組」自体を揶揄する気はない。彼らのことはほんのちょっとしか調べたことはないが随分な辛酸をなめていたとの背景があるからだ。そこでここでの使用は彼らの背景を切り離して純粋に「勝ち組」の言葉の定義のみを扱う。以上をご了承いただいた上で攻撃開始。

要するに「勝ち組」とは本当は負けているのを勝ったと錯覚している人々である。負け組とは事実を認める聡明さを何らかの理由で持ち合わせていた者達だ。したがって現在「勝ち組」などとうそぶいている人や、回りにそう呼ばれていい気になっている人は要するに愚か者の意味合いが濃い言葉を自身に冠せられて悦に入っている馬鹿者ということになる。
私がテレビで最初に見た「勝ち組」は自分の年齢から計算すると1970年代前半である。つまり敗戦後四半世紀も経ち、少なくとも経済的には戦前を大きく凌駕するまで成長していたのに、なお25年以上前の事実を事実と受け止められなかった人となる。どえらい勘違いをものすごく長期間抱いていた集団ともいえよう。それが「勝ち組」だ。
今とは用法が違うとの反論もあろう。だが「勝ち組」という言葉は同じである。古今異義語に収録するほど遠く隔たってもいない。少なくとも自らを勝ち組と誇っている人は本来の意味での勝ち組の意味を知らないという一点で愚かである。知っていたら恥ずかしくて「勘弁してよ」となるのがまともな素養の持ち主である。もし知っていてなお喜んでいるならば本気モードの大馬鹿といえよう。

「錬金術」も似たような言葉である。さすがに「私は錬金術の使い手だ」と自称する者は少なかろうが「ビジネスモデル」だの「スキーム」だのといった言葉に錬金術の意味合いを込める人は結構いる。そして誇りたる者も、だ。これまた大笑いの対象といえる。
錬金術の元来のいわれはGOLDの金を他の材料で作り出そうとする術にある。そしてそのことごとくは失敗した。つまり錬金術は「必ず失敗する行為」を指すのである。確かに歴史上錬金術の試みが化学を生み出したとの功績はあるが、それはあくまでも結果論に過ぎず、言葉の意味は「必ず失敗する行為」で変わらない。
カネがカネを生み出す仕組みで大もうけしているつもりのあなた。これこそ錬金術とほくそ笑むあなた。その時点であなたの失敗は約束されている。本当におめでとう。

日本は言霊の国である。その言葉に宿った霊は、それを名乗ったり意識した者に憑くであろう。その点で現在「錬金術」で「勝ち組」になったなどとされたり自認している者は悪霊に取り込まれたようなものだ。
誰が思いついて現代の現象にこの言葉を名付けたかわからぬが、まさに絶妙のネーミングである。あるいは言霊自身が自らにふさわしい人物を選択したのかも知れない。悪霊に取りつかれた方々よ。重ねて申し上げるが本当におめでとう。

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2006年2月13日 (月)

闘牌伝説アカギとトリノ五輪

毎週火曜日深夜(曜日は水曜)に日本テレビで『闘牌伝説 アカギ』という麻雀アニメを放送している。私はまったく麻雀のルールを知らないのだが何のきっかけか毎週見るようになった。
何しろルールのわからない私にはCM入れて30分の放映時間中、徹頭徹尾何をいっているのかサッパリわからないのだ。例えば先週の「第19話 鬼神の昏迷」における決定的場面(らしい)会話は以下の通り。主人公のアカギが「爺さん」こと敵役の鷲巣に逆転した瞬間だ。

ナレ「パーソー引き、鷲巣、ウーピン切りでテンパイ」
鷲巣「勝った。これでウーピン切りの後、鈴木がワシにウーワンを差し込んで終わり。(中略)」
アカギ「ロン」
鷲巣「エッ!」(と驚く)
アカギ「トンチュン。親のヨンジュンプ(?)リャン。爺さんザンク直取りで逆転だ」

?やカタカナ部分などはルールを知っていればわかるのかもしれないが、ただ聞き起こしただけだとこうなる。
それをなぜ見るのかというと完全に無駄で無意味な30分を週に1回味わう喜びを感じたのである。「お前は不完全だ」と思い知る瞬間は恥多き人生ゆえ多々あるが、ここまで自分の無知が明らかになる番組は珍しい。

アカギの声を萩原聖人が担当しているのもいい。萩原はあんなきれいな女優さんを妻としたのに家庭を顧みずに麻雀三昧などの挙げ句に離婚した筋金入りである。ルールを全く存じ上げない私でも口調から「こいつは本物だ」ということが何故かわかる。
プロフェッショナルしか言葉に重きを込められない専門用語というのは世に存在する。例えば私が「闘本伝説 アストラ」という脚本を作ったとして「零細版元の青焼きを真っ赤にされたら真っ青だ」とか「先生は5日はサバを読んでくるから、こっちも進行を10日ぐらい早めに伝えてちょうどいい。それ以上になると初稿の出の遅さを怪しまれるからな」みたいなセリフを考えたとして出版をまるきり知らない人がアテレコしたら多分真実が伝わるまい。

ネットでちょっとだけ調べてみると一様に萩原聖人が冬ソナのヨン様を担当したことに驚いている。これも面白い。多分「アカギ」ファンの大半は雀鬼だ。だからアカギに萩原は適役と考えて声優としての彼を私と同様にネットでちょっとだけ調べてみたらヨン様だった。イメージが重ならないから驚いたというのが真相であるのは疑いないが、それ以前に驚けたということは雀鬼のほとんどは冬ソナに全然関心がなかったとの何よりの証拠であるという点が実に面白い。
『ヒカルの碁』のように碁を知らなくても楽しめるストーリーではないから「アカギ」は痛快である。碁のルールも私は毛ほども承知しないのでアマチュア本因坊戦の取材に駆り出された時は心底凍った記憶がある。

もっとも私のような楽しみ方をするヒト科はほとんど存在するまい。私とて週に30分だから楽しめるのである。ところが・・・・昨日当たりから毎日「アカギ」的番組が長時間放送されているのをご存知か。冬季オリンピックというやつである。
例えば今日(12日)「男子ハーフパイプ」という名の競技が行われているが何が何だかサッパリわからん点でアカギに匹敵する。
というより実況自体はほとんど何を言っているのか聞き取れない分だけアカギよりも難解とさえ訴えられよう。競技後のスローモーションでの解説でやっと聞き取りぐらいはできる状態だ。

解説「これもしっかりグラブ・・・・ツーグラブをしようとしているのですね今。手が2回出ましたね」
アナ「ちょっとやり過ぎの感もありますね」

何でこれで会話が成立するのだ!

解説「このツューフェイキ(?)というのは標準技として扱われますのでスタンダードエアは知っていることになると思いますんで・・・・」

「謎でしかない解説」というあり得ない日本語を当てはめるしかない。

だいたいハーフパイプというのは日本のどこで誰がやっているのだ。何でハーフなのだ。
確かにこれだけならば調べればすぐわかる。だが冬季五輪の競技はこんなのばっかりである。それを不祥事続出の公共放送が延々とたれ流して国民は暴動を起こすどころか見入っているというのは理解に苦しむ。こうしたマクロなニーズさえ理解できないから私の見立てる本は売れないのかと悲嘆にくれるしかない。

そこで私はひそかに名づけた。これは「内股すかし現象」と。柔道技をまるで知らない大半の日本人が2000年のシドニー五輪での柔道男子100キロ超級決勝戦でフランスのドイエ選手に敗れた日本の篠原信一が実は「内股すかし」で勝っていたとワーワー騒いだ「事件」だ。多くの日本人があの時初めて「内股すかし」という名を覚えた。でも説明できる人は当時も今もほとんどいないに決まっている。要するに空騒ぎ。それがまだまだ何日も続くのだ。

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2006年2月11日 (土)

紀子妃ご懐妊に踊る阿呆

2月6日に

だいたい125代男系が続いたという「神話」を信じるならば今後も何かがあって何とかなるはずである

と書いたら8日に紀子秋篠宮妃の懐妊が発表された。どうだオレの慧眼はと威張ってみたい気もするが、というかここまで書いて既にして威張ってもいるのだが、どうも素直に喜べない。生まれてこの方素直に喜んだ記憶がない性質なので取り立てておかしくはないのだけれど。
もどかしさを一言で表すならば「エッ、これでいいわけ?」だ。

まず125代とやらを信奉するコケむした皇国史観の持ち主が喜ぶのが腹立たしい。三笠宮寛仁親王は自らが皇族なので125代を口にするのは仕方がない。皇族でありながら「神武天皇なんてでっち上げ」という発言もまたしにくいであろう。問題は殿下に連なるような形でピーチクパーチクと125代とやらを歌う面々である。
彼らが得意満面かと思うだに小憎らしい。バカにつける薬がないのは我慢するけれども神話は史実だと荒唐無稽を唱える連中がそれみたことかと叫ぶ声が早くもあふれてきているのはウザったくて仕方がない。

その期待の原点が「紀子妃が男子を出産するかも」にあるのも面白くない。むろん新たな生命の誕生自体には諸手をあげて歓迎するが、男子でなかったら落胆するという感覚が「これでいいわけ?」につながる。男子ならば現行の皇室典範で健やかに育たれれば現世代の大半が死に絶えるまで一応「男系男子」でつながる。
でも女子が生まれる可能性も50%あるのだ。私は男だから感覚的にわからないのだが、女性はこうした社会的風土に違和感を持たないだろうか。

マスコミは表立って「男を生んでくれ」とは報じない。それがまた小憎らしい。「仮に男子の場合ならば」と触れる一方で「ここは静かに」などとわきまえたふりをする。ウソを言えウソを言えウソを言えウソを言え! あなた方が騒ぎたくて仕方ないのはわかっている。男子の出産を願っているに決まっている。キャスターだのコメンテーターだのの顔には皆そう書いてある。ならば正直にいうがいい。その点では憶面もなく紀子妃の第3子が男子であるのを期待する皇国史観軍団の方がバカだが正直だ。
要するに正直なバカと教養人の装いの偽善者が圧倒的なのだ。偽善じゃないと言うならば反問しよう。では紀子妃の第3子が女性の方が望ましい理由を1つでも挙げられるか。

世が偽善にあふれていることくらい私の年齢となれば知っていない方がおかしいが見せつけられると反吐が出る。皇室に関しては雅子皇太子妃が女子を生んだ際を思い出す。例のキャスターだのコメンテーターだのは破顔一笑で「おめでとう」「おめでとう」の大合唱だったが、その顔に「男の子だったらなあ」との嘆息が隠れていた。テレビが拾った街の声を発した人の顔にも同じものが控えていた。本心を隠してニヤーッと笑う大人の顔、顔、顔。汚物を踏むと同時に口に放り込まれた気分であった。
紀子妃の第3子が女性でも同じ顔が国中で並ぶであろう。見たくはないから家にこもっているか。あえて見るべく街に出るか。

逆に男子であったら愚かなほどに熱狂するであろう。そして「もちろん女の子でもめでたさは変わりませんが」風のメッセージを挟み込んで偽善者は体面を守る。本音は「女の子でなくてよかった」という男尊女卑むき出しなのに。そんな光景もまた反吐が出る。

これで小泉政権の屋台骨が揺らぐというのも面白くない。断っておくが私は一刻も早くこの死神のような首相には退散してもらいたいと願っているが皇室典範改正を政争の具にできなくなったのを機にレームダックに陥るのは筋が違う。小泉政権はその失政により退陣させなければ意味がない。

しかし今の時期に妊娠数週間ということは・・・・との詮索は野暮とわかれど皆がしているであろう。紀子妃は秋篠宮殿下との婚約発表の際に殿下を「初恋の相手」と言い放った。私はその時「この人は女傑だ」と恐れ入った覚えがある。大学時代に出会った殿下がいくら何でも「初恋」ではあるまい。幸運につぐ幸運でメチャクチャ政治を5年も持たせてきた小泉将軍が、まさか菊の女傑に張り倒されるとはね

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2006年2月10日 (金)

堀江貴文と「光クラブ」山崎晃嗣の当局との戦い

堀江貴文容疑者が容疑を否認している。この行為は商人としては妙だと1月26日に書いた。それはいまだに続いている。となると1月18日に半ば思いつきのように述べた山崎晃嗣との比較をもう少しした方がよさそうだ。
周知のように山崎は東大での全優をめざして時間と内容を徹底的に分類した「山崎日記」を作った。そこには「○ 総有益」「◎ 睡眠」「△ 女色」といった記号および①から⑥までの「有益時間」の等級を割り振った「時間用途表」が付されている。
これがコンピュータのプログラミングにそっくりなのだ。多分山崎が今日あればコンピュータを駆使するであろう。その点で東大在学中にプログラマーとしてスタートした堀江容疑者とよく似ている。

さて問題は物価統制令違反容疑などで逮捕され、不起訴になるまでの山崎の戦いぶりである。『私は偽悪者』など自著で能弁に語る山崎が、この間についてはほとんど述べていないが法律知識を駆使しての弁明はおおむね想像できる。
物価統制令はいわゆるポツダム勅令の1つで「終戦後ノ事態ニ対処シ物価ノ安定ヲ確保」するのが目的である。その10条に「何人ト雖モ暴利ト為ルベキ価格等ヲ得ベキ契約ヲ為シ又ハ暴利ト為ルベキ価格等ヲ受領スルコトヲ得ズ」とあるが何を暴利とするかは明白でない。
となると臨時金利調整法で定められた金利に違反するとなろうが同法は「光クラブ」のような業態を「金融機関」と認めていない上に、仮に援用したとしても当時の金利は旧大蔵省の行政指導を参照しているだけで法文化されていない。まさに堀江容疑者がいったとされる「脱法だが違法ではない」である。
「光クラブ」事件は1949年に起きた。貸金業法(後の出資法)は同年に制定されていて逮捕時点で容疑を問えるか実に微妙であった。つまり「違法」というにはギリギリの線だったのである。
それがなぜ摘発されたかというとド派手な広告戦略で目立っていた「光クラブ」を全国に蔓延していた多数のヤミ金融を牽制するための「一罰百戒」で目を付けたのであろう。ここもライブドアと似る。

さらに「光クラブ」摘発には山崎が管理していたいわゆる「二重大福」を当局にリークした、山崎側に立てば「スパイ」が社内にいたのも大きい。ライブドア事件では全容はまだわからないが特級の情報を当局に流した内部告発者がいたと考えてまず間違いないから、その点もソックリだ。「ユダ」の存在である。

もう少し広い目で外部環境を比較するのも面白い。現在でいう「ヤミ金融」は出資法の上限を超えて貸し出す違法行為だが、違法は圧倒的な遵法との社会状態があって初めて意味をなす。だが「光クラブ」の時代は経済そのものがヤミで成立していてヤミ経済のヤミ金融はいわば常識であった。物価統制令なぞ守っていたら死ぬばかりである。
ライブドアの場合も偽計や風説の流布に類した方法を使う企業はいまだに多いと推測される。「公認会計士の仕事とは決算の粉飾である」という冗談が笑えない状態はつい最近まであった。
「光クラブ」もライブドアも経済政策の転換点でグレーゾーンを走っていた。これを意図的に走ったとすれば犯罪だが時代そのものがグレーだったとなれば堀江容疑者の否認も彼の側に立てばわからなくはない。

「光クラブ」が成立し得たのは金余りと金詰まりが存在して既存の金融機関で両者をマッチングできなかったからである。金余りはヤミで大もうけした人々である。金詰まりは1948年の経済安定九原則の決定と翌年からのドッジ・ラインの実施で急速なデフレ状態に陥って資金繰りが苦しくなった中小企業が主だ。「光クラブ」はまさにその時期に急拡大し、同時に摘発された。
この構図も現代と非常に似ている。株式バブルで巨万の富を得て運用先を探している人と資金繰りが苦しい中小企業は多数ある。「光クラブ」とライブドアの違いは「運用先を探している人」が他人ではなくライブドア自体であり、「資金繰りが苦しい中小企業」にカネを貸すのではなく買収する点だ。

山崎の当局との戦いは実態にそぐわない法律や明文化されていない行政指導で摘発されるのは不可解である。なぜならば自分は現実的に生きているし皆も似たようにしている。ただ目立っただけで罪に問われるのはおかしいという点だ。ホリエモンの否認もおそらく近い心象であろう。一言でいえば「何でオレだけ?」である。
だが警察や法曹の立場は違う。現実が現行法を無視ないし否定しているという事実が仮にあったとしても、それを認めたら司法の自己否定になるからだ。東京地裁の山口良忠裁判官は1947年にヤミ米を食べるわけにはいかないとして餓死した。そうした精神を本来的に要請される仕事なのだ。
堀江容疑者は、もしかしたら本気で山崎のように勝利を得るつもりなのかもしれない。だが自由の身となったはずの山崎を待っていたのは信用の失墜と行き詰まりであった。堀江容疑者もまた容疑を認めて保釈されたとしても行き場はすでにないと悟っての戦いである可能性もある。だったら徹底抗戦だと。いずれにせよある種の悲劇である。

なお山崎には裏社会とつながりもあった。ライブドア事件でもチラホラ裏社会の名が挙がっているがまだ確かではない。いったん裏社会を論じるとなると相当な覚悟がいるので証拠がもう少しそろってから比較してみようと考えている。

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2006年2月 9日 (木)

バレンタインデーという憂鬱

それは「一部のイケメンを困惑させ、大部分のもてない男を憤激させる壮大な愚挙」と定義できよう。
もらったことがないひがみから言っているのだろうって? フフフ違うんだな。私とてチョコレートとは限らんまでも、その日および前後になにがしかのプレゼントをしてくれる未婚の女性は毎年何人かはいるのだ。
エッ!裏切り者だって? このラインで「もてる」「もてない」を区別して戦うのはよそうよ。広義の「もてない」が万国の労働者のように団結してこそ資本家階級であるイケメンに勝てるのだとマルクスは言っていないから私が言おう。
「もてない」同士が微差のナルシシズムを競って際限なく足を引っ張り合ってはならない。醜悪が醜悪を演じてどうする。「もてない」の矜持は「私もそうだ」とカミングアウトした者のバックグラウンドを詮索せずに快く仲間とするところにある。少々チョコをもらっていたからといって、たまたま彼女がいたからといって排除の論理を働かせては敵の思うつぼである。むろん敵とは・・・・

おっとっと。タイトルとそれた方向へ無意味にもっともらしく突っ走るところだった。軌道修正して改めてバレンタインデーを述べる。

女より/智恵ありといふ/男達/この戦いを/やめぬ賢さ

と与謝野晶子に痛烈に皮肉られたように男性の大半は女性よりアホである。だがバレンタインデーとダイヤモンドへの執着だけは晶子の歌の「男」と「女」を入れ替えていいのではなかろうか。
バレンタインデーが日本の製菓業者の、ダイヤモンドは月収の何とかがデビアスの、それぞれの商魂に発したことは今さらいうまでもない。うちデビアスの市場支配力は近年低下しているが日本の女性がしょせんは白墨と同一に過ぎないあの鉱物にかける妄執はやまない。
恋のあれこれで男が犯す最大の錯誤は「(ある女性を)想っている量が他の男性より勝っていれば女性は評価してくれる」であろう。「君はあいつの方が好きかもしれない。でもオレの君への想いはあいつの何倍もあるのだ」といえばわかってくれるとか考え直してくれるといった勘違いである。実際には何の効果もないばかりか有害でさえある。「キモい」を決定づけるのだ。
これと同じ錯誤を女性はバレンタインデーで犯す。正体は「私が心を込めて贈った大好きな食べ物を相手は喜んでくれる」だ。したがって最高級のゴディバならば恋する男性の心を動かせる、ないしは義理チョコに止めれば相手も「義理に過ぎない」と出過ぎた真似はしない、とね。
そうじゃないんだな。最高級チョコを贈られる男はほんの一握りしかいない。したがって彼の下には最高級しか集まらないから最高級の価値を究極的には保持し得ない。これを経済学では合成の誤謬という・・・・というのはウソだが似たようなところはある。

いったいに女性は甘いものが好きである。だが男性は必ずしもそうではない。だから贈り主の女性が大好きな甘いチョコが恋する男性を甘くさせるとは限らない。

戯奴のため/我が手もすまに/春の野に/抜ける茅花ぞ/召して肥えませ

とは万葉にある紀女郎の相聞歌である。これに似た勘違いといえよう。

一方の義理チョコは明白に「義理チョコだ」と言い放つか板チョコのように間違いなく最底辺のチョコだと広範に認識されているものを贈らないと相手は相当の確率で「義理に過ぎない」とは思わない。相手は乾きに乾いた砂漠の漂流民の如しだ。ならば泥水でも甘露である。よって義理以上と邪推されて、つまり誇大妄想を与える。かくしてアンパイはストーカーへ変貌を遂げる・・・・やも知れぬのだ。

女はキモい男に贈り物をされれば大半の者が嫌であろう。だが男は違う。とくに「もてない」は。「オレも結構イケてるじゃん」と本気というか本能というか、名づけようのない想いで胸を焦がす。

結論。バレンタインデーは女性にとってバカげている。本命の男性には甘さが届かず、義理の相手の胸を熱くするだけだ。

・・・・ふむう。ということは結局は女性の愚かさを指摘したようで、その淵源は男性側にあるということか。世に男と女しかいない。なのに恋の行き交いは複雑怪奇である。

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2006年2月 8日 (水)

堀江貴文と水野忠邦

堀江は叩くに(たかふみ)
もってこいの木魚だ
さあぶっ叩け、ぶっ叩け

この戯れ歌には本歌がある

水野は叩くに(ただくに)
もってこいの木魚だ
さあぶっ叩け、ぶっ叩け

1841年から43年までのいわゆる「天保改革」を主導した老中首座の水野忠邦が改革に失敗し、幕閣を追われた際に庶民から「ざまあみろ」との意を込めて歌われた。この忠邦と堀江貴文容疑者を似ていないかとの少々ムチャな推論。ご興味があらばしばしご笑覧。

10代将軍徳川家治の治世で権勢をほしいままにした老中田沼意次の失脚は史上最悪の凶作とされた「天明の飢饉」が最終的に引き起こした。全国統計はないが一部で人口が3分の1にまで減少する悪夢であった。「米がすべて」経済の江戸幕府は壊滅状態に陥ったといっていい。家治の死とほぼ同時に田沼も退場する。この辺をまず1945年の敗戦と一致するとしてみよう。

1786年に11代将軍に就いた徳川家斉の治世の冒頭は、この敗戦処理にあった。中心人物は松平忠信。世にいう寛政改革である。1787年から93年まで6年だから戦後に当てはめれば1951年までのGHQによる戦後改革の時期とほぼ一致する。彼の退場後は家斉の親政へとつながっている。
家斉の治世は1837年まで実に51年。将軍職を12代家慶に譲った後も死去した41年まで前将軍(大御所)として実権を握ってきた。合わせて55年。敗戦から21世紀までのすべての年月に相当する期間を治めてきた化け物である。
家慶はこの化け物のような父親を背後霊のようにして育った。将軍になった時点で44歳。父が死んだのがようやく48歳の時である。長い雌伏を味わった彼は父がこの世からいなくなってやっと自分の親裁を勝ち取る。そして改革を始めた。それが天保の改革だ。

雌伏が長かったことや家斉時代が太平と腐敗と大衆文化の花盛りだったこと、その結果として寛政改革の貯金をすっかり失って深刻な財政危機にあったこと、権力を握って急進改革を目指した点などで家慶は小泉首相とそっくりだ。先程来試みている戦後の時間尺とも一致する。
そして家斉時代の後半から野心むき出しで出世街道を強引にばく進したのが水野忠邦だ。唐津藩主の子ではあったが庶子であり、にも関わらず藩主の座を射止め、出世コースである浜松藩へムリヤリ転封する。転封は社名をライブドアに換えた堀江容疑者と似ていなくもない。
家斉の治世では水野忠成という田中角栄から橋本龍太郎までの旧田中派の頭目を全部合わせたような巨大利権政治家がいたが、忠邦は彼に取り入った。
ライブドアの躍進は橋本政権頃に進められた制度改革に追うところが大きい。そこにも類似点がある。

さて家慶と忠邦の構造改革は激越であった。忠邦のそれは株仲間の解散に象徴される。既存の段階的かつ封建的な商取引を解体してエンドユーザーを直接支配しようとしたのだ。日本史には欧州にみられる絶対主義体制がみられないが忠邦のしようとしたのはそれに似る。上知令は土地を封じられ安堵されるのを基盤とする封建体制への挑戦であった。
まさに既得権益に対する挑戦であり「すべてがインターネットになる」との堀江語録は株仲間の解散の目的に近い。それを47歳で忠邦は将軍の保護下で直進した。

その結果どうなったか。破壊はいたずらな市場の混乱を招き、忠邦の専横をあしざまにいう者が多発し、結局は家慶にも見放されて彼の栄華は3年で終わる。最後は石もて追われるように幕閣から追放されただけではなく減封されるは辺地への転封を食らうはの処罰を受けた。冒頭の戯れ歌はその頃の流行だ。小泉政権に持ち上げられ、世相がアンチに回るや見捨てられたホリエモンとどこか似ている。

忠邦の失敗はしょせんは既存の価値観で築かれた舞台で既存の価値観を覆そうとした矛盾にあると指摘されている。ライブドアの躍進も前述のように橋本政権以後の戦後営々と続いた保守の価値観で許された範囲内の自由で築かれてきたはずなのに、いつの間にかその範囲を超えそうだと少なくとも保守の価値観ではみなされた。一方の堀江容疑者の挑戦も先進的なようにみえて現代のアンシャンレジームの代表格とさえいえる民放地上波やプロ野球球団という方向に興味が傾いていった。

ちなみに家斉治世下の大衆文化における忌避される美意識に「野暮」があり水野忠邦はその代表格だった。今となっては「女はお金についてくる」といった堀江語録も野暮に聞こえる。だが一時期まで明らかに彼は正反対の好もしい美意識である「粋」として扱われていた。真心だ愛情だが野暮で「女はお金についてくる」は粋とね。それはいつの間にか「粋がっている」とにらまれ、最後は野暮に転落する。山東京伝ならばどう書くのかな  

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2006年2月 7日 (火)

清原・ノリという名の偽善

今シーズンからオリックス・バファローズの一員となる清原和博と中村紀洋のキャンプ地での人気は大したものだそうな。スポーツ紙も連日大きく扱っている。たぶん小泉政権のせいで奈落の底に落ちた日本人の程度というか低度というか、そんなことがプロスポーツの世界でも垣間見える。

スポーツ選手に人格を求めるのはお門違いである。人格者とされた王貞治でさえ「実は私もね」と苦笑混じりに現役時代のやんちゃ振りを各種メディアに披露しているほどだから。だが石田禮助ではないが「粗にして野だが卑ではない」品格は求められよう。清原・ノリの人気も彼らが「粗にして野」であるように映る点にありそうだが、2人とも私のみるところ「卑」である。
それを如実に感じたのは2人がオリックス・バファローズへの入団を決めた際、ないしは直後にしきりに語った「亡き仰木彬前監督への恩返し」だの「引き合わせ」だのという文言である。こんな言葉をどの口から吐けるのだろうか。
経歴から察する限り、彼らは後ろ暗さや力のなさを覆い隠すために「口なし」の死人をダシにした卑怯者であり偽善者である。

清原と仰木の2人に接点を探すとすれば05年のシーズン前に所属していた巨人の堀内監督(当時)から事実上の戦力外扱いを受けていた清原に監督を引き受けた仰木がオリックスへの移籍を勧めた時からである。しかし清原は「泥水を・・・・」云々などとクサイ言葉で巨人に残る未練を示して袖にした。
05年シーズン終了前後に今度は本当に巨人から三行半を突きつけられても清原は仰木の誘いに生前ついに応えることはなかった。彼がオリックス入りを決めたのは他球団から相手にされないのを確信して唯一誘ってくれた球団だったからに過ぎない。
しかも決断は仰木没後である。何が「恩返し」だ。恩知らずの方が表現としてはふさわしい。恩知らずが恩返しとシレッと言う。こうしたのを偽善者と呼び卑怯者と指弾して何かおかしいか。

中村紀洋に至っては悪人の領域に近い。仰木が近鉄バファローズ監督を務めたのは1988年から92年まで。中村は大阪府立渋谷高校から91年に入団したから仰木近鉄時代に戦力として活躍したとはいえない。
2002年にアメリカ大リーグのニューヨーク・メッツへの入団を合意したにも関わらず不可解な主張をして近鉄に残留した。中村側とメッツ側の言い分はとらえ方もさまざまであろうが結果的に中村は6年約40億円の破格の契約を近鉄球団とかわした。その時に彼は確か「長嶋さんのようになりたい」と言った。ドメスティックでも未だ英雄視されるミスターのように、とね。
ところが当の近鉄球団がオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅するとなると手のひらを返すがごとくに新球団のプロテクトを拒みポスティングで海を渡る。「仰木さんへの恩返し」どころか仰木が率いることになった球団から逃げ出したのである。長嶋になるのはどこへ行った。
もっとも大リーグではまったく通用せずに日本に舞い戻ろうとしたはいいが意外なほど他球団の感触は悪く、ここから先は清原と同じような経緯でオリックスに入団する。今度は仰木とともに清原を尊敬しているとまで言い出した。

恩とは生前に報いるべきであろう。その機会がなかったならば別であるが2人ともあったにも関わらず袖にした。だとしたら死者にはまず謝罪から始めるのが筋である。ダシにするなどもっての他だ。

仰木が育てた選手として有名なのは野茂英雄とイチローである。この2人は公式には仰木死去に対するコメントを出していない。さすがの振る舞いといえよう。私とて恩人はいる。その人が急逝したらぼう然とするばかりである。言葉を生業としている私ですら言葉が見つからない。恩とは本来そうしたものではないか。
野茂とイチローが仰木に強い恩義を感じていたのは雑誌やテレビの対談などを見聞する限り間違いない。逆に清原と中村にはそうした形跡が仰木の生前までに全然うかがえない。ところが死後に饒舌なのは後者である。明らかにうさんくさい。

と、清原と中村を批判したが本当に訴えたいのは2人をくさすことではない。こうした人物をヒーローとして受け入れる側の知性の低さ、感度の甘さ、倒錯といった点である。日本人は卑怯な偽善者をそうと見抜けず、あべこべに「おとこ気がある」「情け深い」などと評価するようになった。これを倒錯といわずに何と呼ぶ。小泉は笑っている。ブッシュは嗤っている。

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2006年2月 6日 (月)

女系天皇論議は郵政の焼き直し

日本人の知能をジェットコースターのように下降させる「小泉劇場」の次の演題はどうやら「女性・女系天皇」であるらしい。

嫌な感じだ。何やら先の演目だった「郵政民営化」を思わせる。仕立てがそっくりだからだ。
まず民間人の諮問会議に意に沿った報告案を出させる。今回の皇室典範改正は私的な諮問機関(皇室典範に関する有識者会議)であるが格好は同じだ。
内容は女性・女系天皇を認めるというもので小泉首相は今の通常国会に提出する方針を明言した上で自民党に対して採決において党議拘束をかけるとの認識を示した。
皇室典範改正案が内閣提出立法として提出しようと首相が決めれば提出できる。それは郵政民営化法案の時と同じ。そして採決に反対すれば党議拘束違反となる。これも同じ。

一方で超党派の日本会議国会議員懇談会は原則として男性・男系を守るべきと訴える。ご丁寧に同会の会長は郵政民営化法案に反対した平沼赳夫衆議院議員である。これに女性天皇はともかく女系は反対との意見を加えると自民党議員も3分の1が典範改正の反対の様子である。

私は9月の退陣を控えて小泉首相が後継指名程度の「劇」で満足するとは思えない。むしろクライマックスには日本人の原点ともいえる天皇制をみやげに持ってくるのではないのかと疑っている。というか実は密かに確信している。

もし党議拘束に反して自民の3分の1が反対したら、同様に倒閣を目指して反対しよう野党と合わせると採否が微妙となる。万一衆参いずれかで否決となれば・・・・待っているのは衆議院解散ではないのか。
大宰相たるもの解散は3回したい。そうすれば吉田茂や佐藤栄作並みとなる。小泉首相にとって勝敗など二の次だ。郵政民営化法案が参議院で否決された時にみせた彼の喜びを隠しきれない顔が忘れられない。「正義は我にあり」と叫んで戦ってみたいはずである。

女性・女系天皇容認を錦の御旗にできるかというとできるんだな。そもそも男系男子に限るとした制度自体が根本的に男尊女卑である。伝統だ何だというが、それは男尊女卑の伝統である。おっさんが群がり寄って反対を唱えるほど反発は強まるであろう。
反対派が唱える「125代続いた男系を守れ」はホコリをかぶった皇国史観を持ち出したに等しい。何度も書くが初代神武天皇から9代は存在しない。まあ存在しただろうと推察される10代以降の天皇在位も記紀などから計算すると10代崇神68年、11代垂仁99年、12代景行60年、13代成務60年とムチャクチャである。
Y染色体を守れという考え方自体がナンセンスであるのも前に書いた。仮に守るべきとしてもどの天皇のY染色体を指すのかサッパリわからない。

しかも現時点で皇太子殿下の次の世代の皇族はすべて女性であるから女性・女系を認めないと皇統は絶えるという主張は実に説得力がある。旧伏見宮系の男子を皇族に復帰させるとなると「愛子様はどうなる」「雅子様がお気の毒すぎる」となろう。首相が口に出さずとも世論は急速にそうした心情に傾こう。
女系と女性の天皇は意味が違うと論戦を挑んでも小泉劇場に慣らされた有権者には理解できまい。なにしろ英霊と戦没者を同一として語って平然としていられる首相に5割近い支持を与えている国民だ。

「男女は平等。皇太子と雅子様の間に生まれた愛子様が次の次の天皇になるのは自然。成人した愛子様が結婚なさるのも当然。その子が女系であろうと皇統を嗣ぐのがなぜおかしい」とわかりやすくライオンが吠える。
ウダウダ言う反対勢力は女の敵、皇国史観の妄執者、男女平等の価値観さえ受け入れられない差別主義者のレッテルがあっと言う間に貼られる。

さあこの論理を超越して小泉首相をギャフンといわせられるか。本当をいうと女系天皇論議はおかしい。なぜならば天皇制は制度として男尊女卑であり身分差別であるからだ。民主主義国家の日本で例外的に男尊女卑と身分差別を認めようとの出発点がある。
そこを有権者に納得させられるかというと難しい。なぜならば小泉首相によって何年もバカ教育を施されているうちに我が国には男尊女卑と身分差別の例外があるとの認識さえできない人がたくさん生まれているからである。

もう一つおかしいのはなぜ小泉首相が改まって皇室典範を改正しなければならぬのかだ。よくよく考えると彼の「治世」の最終盤に扱ってもらわねばならぬ理由はない。まだ壮年の皇太子と秋篠宮殿下が控えているのである。
だいたい125代男系が続いたという「神話」を信じるならば今後も何かがあって何とかなるはずである。その時に考えればいいではないか。大伴金村が継体天皇を連れてきたように、後の宇多天皇を臣籍から戻したように、明正天皇即位の4年後に男系男子の後の後光明天皇が生まれたように「125代」とやらは結構綱渡りをしてきた。
その時が来て「国民の総意」が男性皇太子を望むならばそのように典範を改正すればいい。そうでなければとりあえず女性皇太子でしのぐだけの改正をする。男系か女系かはさらに後の話だ。そこに至って結論が出なければ「国民の総意」で天皇制は終わるのかもしれない。「国民の総意」の「国民」とは現在の皇室典範では天皇ないしは皇太子の該当者がいなくなった世代の「国民」である。今はその時ではない。

それをまるで「今まさに直面する危機」のように演出するのが小泉マジックである。彼は郵政民営化解散の総選挙での大勝で、いわばゴルディオスの結び目を断ち切ったような快感を得たであろう。せっかく断ったのだからその果実がほしい。
あの大勝は果実ではなく断ち切ったという行為を指す。そこを間違って安易な乗りで皇室典範改正に反対すると現代のアレクサンドロスに滅ぼされるぞ。アケメネス朝みたいに。

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2006年2月 4日 (土)

松下電器好決算への困惑

「参ったな」。朝から数人の広告代理店勤めからメールやら電話やら。松下電器産業の第3四半期の連結が売上で前年同期比4%増で営業利益が同じく約5割増と四半期の売上としては過去最高だったことだ。

何で広告マンが松下の好決算で参るのかというと第3四半期は例の石油温風器事故対策で年末商戦に販促のCMも新雑広告も打てず、逆に「ご迷惑をおかけして・・・・」CMなどの温風器回収のための広報活動に100億円以上の巨額な出費を強いられた点による。
「代理店としては行って来いだからいいんじゃないの」と私が意地悪をいうと相手はみな色をなす。とんでもないとね。
会社の不幸で儲けるのも代理店の大切なお仕事である。ウソか本当か知らないが(マスコミ人の話はネタが多いので)例えば「火事だ」とわかったら、つまりサイレンが鳴って災害先が企業らしいとの情報が入ったら真っ先に車で飛び出してお詫び広告取りに走ったそうな。
火事の際にはたいていの人は火元から逃げるが突っ込んでいく者もいる。消防士と新聞記者と火事場泥棒だ。実は広告マンも混じっていたのか。
119ないしは110の速報を記者クラブで受けて火事場に着いた時に炎がメラメラと上がっていたら本物の大火災。たいていは消火が進んでいて煙ばかりである。しかたがないから煙を写す。つまらない写真になる。

閑話休題。「行って来い」と私がいったのは販促の広告自粛の代わりにお詫び広告が入ったからいいじゃないかとの揶揄である。だが予想通りそうではないらしい。多少大げさにいえば広告の存在意義を問われる出来事であるようなのだ。
かき入れ時の年末商戦で販促広告が打てなかったにも関わらず過去最高の売上が記録できたということは「そもそもばく大な広告費に費用対効果があるのか」との疑いを今後スポンサーに入れられる恐れがあるんだって。
そこで言い訳をさっそく考えていた。以下のような内容である

1)広告を打っていたらもっと売れていた
好決算の理由はプラズマテレビやデジカメの売上が堅調だったからとされる。だがそれは石油温風器云々に関わらずブームとして売れただけであり広告をジャンジャン打っていたらもっと売れたはずだ。

2)お詫び広告が好感された
石油温風器とプラズマテレビおよびデジカメは商品としての関連がない。後者は命に関わる危険が最初からないからだ。昔のブラウン管テレビは古くなると煙を噴いたりしてたけどね。あそこまで低姿勢で詫びる姿に顧客は松下の誠実さを感じた。だから企業価値の決定的な毀損にはつながらずに済んだ

3)SP広告が補った
マスコミ4媒体や大がかりなチラシでも販促はできなくとも販売店がPOPなどさまざまな工夫をして店内での広告活動は普段よりもしっかりとやった。代理店も十分にその点をサポートした

何だか本当っぽいような嘘くさいような。ふだんから入れ稿出し稿あとは白浪。さあ終わった六本木だ!の人達が真面目に分析している内容はどうも信が置けない。といって間違っていると明白に指摘できる根拠もない。

1)に関しては飽くまでも仮説である。それを証明したらしき分析もできようが私はそもそもマーケティングや波及効果なるものをあまり信じていない。
文字通り入れ稿出し稿でやっていた時代にある代理店が「うちは科学的にマーケティングできる」と言い出したので他社も追随した。多分そんな経緯であったように記憶する。しかし今もって広告の効果測定はできない。広告を打って商品が当たったとする。しかしそれは広告がよくて商品もよくて売れたのか、広告のよさが商品の悪さを覆ったか、広告は悪くとも商品がよかったからか、広告の悪さがかえってインパクトを生んで商品の良し悪しに関わらず売れたのか。わからんといえばわからない。
えっ、そんな姿勢だからお前の会社の本は売れないんだって? 南無。

2)にしても石油温風器の不具合は昨年中から指摘されていたのに経済産業省からリコールの緊急命令を受けた年末にあわてて始めたドタバタであった。本来ならば企業理念を厳しく問われてしかるべきであろう。
しかしテレビはやらないんだね。大スポンサーだから。ライブドアはCM出稿が少ないから散々に叩ける。こういうのもやっぱり不公平の一端である。

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2006年2月 3日 (金)

小泉外交と聖徳太子

中国脅威論が与野党から出ている。だが中国が脅威かという問題提起はバカげている。なぜならば歴史上中国はずっと脅威だったからだ。
隣にどでかい領土とどえらい人民を持っている国があれば仮におとなしいとわかっていても脅威である。しかも中華人民共和国は国共内戦と朝鮮戦争でその力量を発揮した。その中国共産党に敗れた蒋介石の国民政府との「15年戦争」に我が日本は結局は敗北した。脅威に決まっている。
怖いとわかっているものに向かって怖いというはバカである。「お前なんか怖くない」というのが政治であろう。

その上わが小泉政権は靖国問題で中国と韓国を仲間にしてしまった。最近では当たり前のように「中韓」と呼びならわすが両国は朝鮮戦争で事実上血で血を洗う戦いをした仲である。
中国が脅威ならば韓国を味方に引き入れるのが上策であるに決まっている。要するに仲を裂いておいた方がいいのだ。こともあろうに手を結ぶよう手配するとは何事か。

小泉劇場を見ていると頭が悪くなると何度も書いた。「中韓」を敵に回すような妄動をして拍手喝采している国民をみると、いよいよその感を深くする。

「媚中」を批判する者が時折口にする存在に聖徳太子がいる。恐いものなしの独裁者だった隋の皇帝煬帝に有名な「日出ずる処の天子・・・・」で始まる「国書」を渡して対等外交を要求した。少しは見習えとの声だ。だが太子と小泉外交は全然違う。
その前に。『隋書』『日本書紀』からこの時の「使」すなわち遣隋使が大礼小野妹子であることはわかっているが使わした主体が聖徳太子とは確認できない。したがって主流である太子説を採った上での以下の記載という点を留保しておきたい。
大礼は冠位十二階の上位であり後に妹子は最高位の大徳になっている。小野氏は天皇を祖に頂く名族でもあるから外相クラスといってもよかろう。それが「倭王」の国書を持ってきた。煬帝は『隋書』の記述によると激怒したとされる。ここまでは確かに「媚中」批判派を大喜びさせる展開である。

だがその後はどうか。妹子は約半年間止め置かれた(死刑囚のような心境だったに違いない)末に隋からの国書を奪われたと帰国して報告している。おそらくは「倭王この野郎・・・・」みたいな内容だったので自主的に奪われたことにしたのであろう。しかも同伴した隋の答礼使の裴世清の官位は30階中29位の文林郎。要するに駆け出しの官僚である。どう考えても煬帝の嫌がらせだ。
「媚中」批判派ならば外相クラスを送ったのに駆け出し官僚を返してくるとは失礼だと追い返した・・・・とのストーリーを描くであろうが太子ら推古朝は何とこの小役人を驚くほどの大歓待で迎えるのである。歓迎されたら隋も怒るわけにはいかないから何となく成功したような感じとなった。
要するに太子らが欲しかったのは対等外交そのものではなく対等外交のように見せかける形であった。だからつつがなく答礼使を迎えたかったし国書紛失もどうでもよかった。むしろなくなった方が都合がよかったわけだ。

では何のために見せかけたか。それは当時の日本が領土的野心を持っていた朝鮮半島南部とりわけ新羅への牽制であろう。
新羅と同じく朝鮮南部の百済は北部から中国東北部に領土を広げていた高句麗を恐れていた。隋は建国した文帝と煬帝それぞれが高句麗を手中に収めんと戦闘状態にあった.。したがって新羅と百済は高句麗問題で隋と利害が一致している。その新羅と日本は対立している。したがって「我々日本はアンタがアテにしている隋が対等と認めている国だぞ」と新羅を牽制する目的であったと推察されよう。今でいうならば中韓分断をはかったのだ。

その後の東アジア情勢は推古朝の思惑通りには展開しなかったが7世紀初頭の日本人でさえこうした巧みな外交ができた。ところが小泉外交は正反対。敵は相変わらず敵のままで敵でもない相手を怒らせて手を結ばせている。
首相の靖国参拝を案外「熱烈歓迎」しているのは中国かも。だって続く限り韓国を味方にできるのだから。太子にできたことが小泉首相にできない。できないどころか逆をやっている。それに感動する国民さえいる。繰り返しになるが、本当、バッカじゃなかろか。

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2006年2月 2日 (木)

市場のルールと戦争犯罪

以下に述べる論理に錯誤や無知が入り交じっていたら是非ご指摘下さい。

ライブドア事件は市場のルールに反したという。法律論としては理解している。問題はそれ以前として「市場のルール」などという概念は正当か。単に笑っちゃう話なのではないか。

A級戦犯問題を調べる際に「戦争犯罪」という概念の把握は不可欠であるのはいうまでもない。私が初めてそれを知った時に軽いめまいに似た感覚を生じた。「戦争に犯罪はあるのか」と。
戦争とは殺し合いである。近代では主に国家同士、ないしは国家連合同士の、または国家連合と国家の殺し合いであった。殺し合いの総和は殺した方が勝ちで殺されたが負けである。

19世紀末から20世紀の初頭にかけて結ばれたハーグ条約やジュネーブ条約などで戦時国際法は整備された。捕虜虐待や非戦闘員への敵対行為、利敵行為、スパイ活動などだ。加えて第二次世界大戦後のニュルンベルグや東京での裁判で「平和に対する罪」「人道に対する罪」が考案された。
ここでは東京裁判やA級戦犯の正当性(または不当性)を争う気はない。それらも含めた戦時国際法の定めた戦争犯罪というのは概念として成立しうるのかという根本的な問いかけをしたいのだ。

殺し合いは人殺しである。平時において殺意を抱いた人殺しすなわち殺人は最も重い罰を科される。ならば戦争そのものが犯罪であり国連憲章もそれに近い認識を示している。
したがって戦争犯罪とは「犯罪である戦争での犯罪者」というわけだ。そんなものがあるのかね。
「よい戦争」「聖戦」の存在をAという国に認めれば、Aが勝っても負けても正義はAにあって戦ったBは犯罪国家だ。したがって戦時国際法の存在を認めるとしたら「よい戦争」「聖戦」はないとの前提が必要である。するといかなる戦争でも「正しい側」はあらかじめ存在しない。話が面倒になるので国連安保理が武力行使を容認した場合は不本意ながら例外としておこう。「正しい側」がないから戦時国際法は等しく適用される。だが戦争の実態は人殺しであるから戦争犯罪人とは悪質な人殺しとか、ルール違反の人殺しとなろう。だが殺したが結局は勝ちという戦争でルール違反の人殺しなどという概念は結局は虚仮ではないか。

「市場のルール」も同様である。市場とは要するにマネーゲームだ。弾丸をカネに代えれば戦争と同じだ。「儲けるが勝ち」の世界である。そこに透明性や公平性を持ちこむのは戦争犯罪と同じ滑稽さを感じてならない。
市場をばくち場、または鉄火場と例えて何かおかしいだろうか。鉄火場だってルールはある。いかさま賭博は仲間内から吊される。だがそもそもばくち自体が犯罪だから「犯罪行為の真っ最中の犯罪」にいくらの問題があるのか。
「市場は成熟した資本主義社会には不可欠だ。なぜなら云々」とのウンチクは聞き飽きるほど聞いた。その上でなお「市場は鉄火場とは違う」とハッキリ峻別する根拠が得られない。市場と競馬とパチンコが合法でバカラやルーレットや丁半ばくちが違法との線引きにストンと腑に落ちる説明を聞いたことがない。
風説の流布という。証券取引法のいうところの「風説」とは何かを知った上でなお一般名詞としての「風説」を問いたい。連日連夜テレビで流れているCMは風説の流布ではないか。偽計も同じような疑問を抱く。上場企業はすべて自分を実態以上に美しく強くたくましくみせようとしているのではないか。

戦争もマネーゲームもつまるところ本能である。しかも本質的に卑しい本能の発露である。卑しいが強烈な欲求でもあるから止めるに止められない。だから欲求を抑えられない一群は実は卑しい者は他にあると戦争犯罪人やら市場のルール違反という概念をでっち上げた。
したがって堀江貴文はいわば賭場荒らしであるとみなされた。東証という賭場でイカサマなサイコロを振ったとね。それまでは彼が丁といえば丁、半といえば半が出ていて参加者は「兄さん凄いね」と尊敬していたがサイコロに仕掛けをしていたとして「裏切られた気持ち」とやらを抱いているらしい。
でもね。そんなあなたもばくちには参加していたのだ。得々と「市場のルール」とやらを解説するチーフストラテジストやら経済学者やらの顔を見よ。何と賭博師のそれと似たことか。

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2006年2月 1日 (水)

ダメなブログ

このブログを始めるに当たって私は「ひねくれる」のを編集方針とした。なぜならば自身がひねくれ者であるからだ。文章内容も素材も一ひねりも二ひねりもしてみようと志した。
といってブログとは何かをまったく知らないので「アクセス激増の秘訣」みたいな内容の本を読んで「秘訣」と逆のことをやってやろうと思った。

【秘訣】
身近な話題で親しみやすく
【私の方針】
硬派な話題をひねくって。文章はわかりやすく書くがウィットをふんだんに使おう

【秘訣】
なるべく文章は短く
【私の方針】
なるべく長く書いてやれ

【秘訣】
ビジュアルが大切
【私の方針】
ビジュアル無視

【秘訣】
独りよがりは嫌われる
【私の方針】
独りよがりに徹しよう

【秘訣】
匿名性の高い方が相手も安心してトラバしたりコメントが書ける
【私の方針】
ズバリ実名でトラバもコメントもしづらくしよう

【秘訣】
テーマは一定の方が仲間が増えやすい
【私の方針】
森羅万象あらゆるテーマをメリハリなく書き殴ろう

【秘訣】
商売目的では読者は引く
【私の方針】
実は商売目的である

何しろ文章を書いたり編集したりを20年来やっているが、その大半は仕事としてであった。すなわち対価を得るためである。だから読者はもとよりデスクや著者やスポンサーや取次様や書店様などなどの顔色をうかがって生きてきた。
しかしブログの文章は対価を得ない。ただで書く。商売目的とはいえ商品を毎度毎度紹介するわけではない。ならば思い切り好き勝手を書かせてもらおう。
それならば紙の日記でもいいわけだがブログは読んでもらえる可能性がある。一緒にひねくれてくれる気高き読者が日本中に10人くらいはいるかもしれない。それで十分じゃあないか・・・・と始めたところ多い日は1000人以上もアクセスが来るから驚いた。子どもの頃から「私の存在自体が間違いである」との信念?で生きてきただけにビックリだ。もっとも大半の方はあきれて途中で逃げ出したであろうが。

実名で書いているから文責は生じる。いくら自由とはいえ書いた文章に責任を負う点だけは譲れないのでそうした。であるにしても本当に自由である。こんなに伸びやかに文章を書き続けたのは学生時代以来であろう。デスクも校正さんも通さないしワーッと書き殴って読み返しもせずアップする毎日なので後でとんでもない誤字が見つかったりもする。でもいいのだ。ここでの私は無償の代わりに大自在の境地にある。

文章を書くのは読むのと同じくらい楽しい。世界一安くて簡単で楽しくて利口にもなる娯楽だ。だからそれを専らとする職業を選んだ。だが仕事となると前述のように制約が大きくて楽しめない。それを続けるうちに次第に原点だった書く楽しささえ忘れていた。地蔵菩薩のようになっていたわけだ。ところがブログで楽しさを思い出せた。気高き読者も得た。もう思い残すことはない。本当に今まで有り難うございました。

・・・・なんて最終回みたいな表記をしたが無論明日からも時間が許す限り書き続けるぞ。いったん知った楽しみをそう簡単には手放さない。

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