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2005年12月16日 (金)

大連立は憲政党か大政翼賛会か(上)

小泉純一郎首相が民主党との「大連立」を盛んに唱えている。新手のほめ殺しであろうか。何しろ旧経世会を毛虫のように嫌ってきた首相だから同会のボスだった竹下登元首相を窮地に追い込んだ手法をマネしてもおかしくない。
それに対して前原誠司民主党代表は相変わらず不可解な言動に終始。「99.9%ない」って、じゃあ0.1%はあるわけ?何で100%とか、いっそのこと「1000%ない」といわないのかな。最近では優柔不断のイメージが強かった鳩山由紀夫幹事長の方が断固とした物言いをしている。
じゃあ前原代表が優柔不断かというとそうでもない。ただ「そうでもない」部分が見当外れである。中国の軍事力を現実的脅威とし、透明性を確保せよと暗に不透明な形で軍拡を進めていると指摘する。彼の持論であろうが代表になって真っ先にそれを言っちゃあオシマイであろう。

先の大戦で中国は日本に対して戦勝国であると同時に被害者でもある。小泉首相は加害者なのに笑って応じる。それが靖国参拝である。だから中国は怒るのだが首相は中国との関係は「友好」一辺倒で手は出さない。
前原代表は靖国参拝はしないと言いながら中国の最もナイーブな部分(人民解放軍のプレゼンス)に手を突っ込んだ。
つまり首相が「ヘラヘラしているが手は出さない加害者」であるに対して前原代表は「神妙だが殴りかかってくる加害者」なのだ。首相の手口を少しは見習って「靖国に行くか行かないか」だけで取りあえず中国との初顔合わせを済ませればよかったのに。
それで胡錦濤国家主席との対談が実現すればテレビニュースのトップと新聞の1面がゲットできるのに勘が悪いなあ。

こんな民主党に先はないと考えるならばいっそ大連立も手である。先の総選挙で民主党は「政権交代」にNOを突きつけられた。ならば2大政党対立を維持する理由もなくなった。
今の民主党のように未だ政権を握ったことのない野党が責任の一端を担える貴重な体験ができるとも言いうる。民主党で小沢一郎氏や菅直人氏が一定の存在感を保っているのも閣僚や与党幹事長といった地位を経験しているのが大きい。

1898年に登場した大隈重信憲政党内閣(隈板内閣)は初の政党内閣だったが、これはいわば「大連立」であった。そもそも維新後から隈板内閣成立までは薩摩・長州の藩閥が権力者であり政党などクズ扱いであった。
大隈は元は西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が1870年代の最後に相次いで死去した後に政府の実権を握った長州の伊藤博文と井上馨とともに政府の要職(参議)にあったが国会開設の時期で対立し、さらに同時期に起きた北海道官有物払下事件の涜職を責めたために当事者の薩摩の黒田清隆および盟友の西郷従道とも悪くなり、結果的に薩長連合によって政府から追放された。
同時に叩き出された大隈シンパの官僚らと1882年に立憲改進党を結成、薩長閥からギンギラギンに睨まれることになる。同年創立の東京専門学校(後の早稲田大学)は「謀叛人の養成所」つまり改進党の予備軍育成と見なされて進学希望の若者を無理やり説得して諦めさせるといった弾圧を受けた。

国会開設後も薩長の政権たらい回しは続き大隈の目指す政党政治は困難と思われた。それを一挙に打開したのが立憲改進党が衣替えした進歩党と板垣退助率いる自由党の「大連立」である。最終的には新政党「憲政党」結成となり数の力で藩閥を追い落として日本初の政党内閣を1989年に現出させた。
内閣自体は旧自由党系と旧進歩党系とが仲違いして数ヶ月で瓦解するが、ここでいったん藩閥を押しのけたという実績は大きい。しかも後の政党政治のリーダー(首相経験者など)の顔ぶれをみると憲政党内閣こそが揺りかごだったといい得る。以下にみてみよう。

大隈桂冠後に首相となった山県有朋は長州・陸軍・官僚の非政党グループのボスで強引な政党排除を推し進めて独走を始めた。これに焦った同じ長州閥の伊藤博文は何と仇敵の憲政党と手を握り立憲政友会を結成して4次伊藤内閣を成立させて山県を蹴落とす。
政党内閣は反動の山県内閣を生み、その存在が伊藤と憲政党を結びつけたといえよう。
その4次伊藤内閣の逓信相が原敬で外相が加藤高明。いずれも後に政党内閣の首相となる。

その後政友会をバックにした西園寺公望内閣と山県系の桂太郎が交互に政権を握り大隈系は一時混乱するが2次西園寺内閣が山県の「毒殺」によって葬り去られて3次桂内閣ができた際に世論は沸騰、大隈系は国民党として政友会とともに「閥族打破」の旗印で桂を引きずり降ろす。
次にできた山本権兵衛内閣は政友会がバックだったが蔵相は後の首相の高橋是清だ。面白くない国民党は桂の勢力をも引き込んだ同志会を結成して加藤高明や若槻礼次郎(3次桂内閣の蔵相)が参加、2次大隈内閣を作り上げる。
加藤高明が首相になって以後、若槻、田中義一、浜口雄幸、2次若槻、犬養毅と政党内閣が続く。うち田中義一は陸軍出身だが原敬内閣の陸相として政界デビュー。浜口は加藤内閣の蔵相、犬養は大隈直系で憲政党内閣で文相を務めた。
このように戦前の2大政党は憲政党という「大連立」がビッグバンとなり、責任ある指導者を連鎖的に生み出す源になったといえるのだ。

欧州でも「大連立」の例は多い。現にドイツではメルケル大連立内閣ができたし、イスラエルのシャロン首相が強硬策を続けられたのはリクードと労働党の大連立が支えていたからとの説もある。
フランスも社会党と保守の共和国連合が大統領と内閣を分け合う「コアビタシオン」がミッテラン大統領時代や2002年5月までのシラク大統領政権でみられた。
二大政党の母国とされるイギリスは労働党政権のマクドナルド首相が母体の労働党の一部を切り取って保守・自由の2党と1931年に連立した「挙国一致内閣」が該当しよう。
「大連立」は重大な社会危機に直面した際に期限を切って問題を一挙に処理する時に有効とされる。マクドナルド挙国一致内閣も世界恐慌や金本位制の離脱に伴うポンド危機などが背景にあった。
今の日本が「重大な社会危機に直面」していないとはいわせない。次の総選挙までと期限を定めて大連立してみるのも面白い。

ただし大連立というと必ず思い出すのが大政翼賛会の暗い影だ。ちょっと長くなりすぎたので続きは明日。

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