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2005年12月 7日 (水)

九段の母を探せ

ココログが相変わらず重い。
さて「九段の母」を小誌では探している。靖国神社で鋭意取材中だが今のところ見つかっていない。

「九段の母」とは石松秋二作詞、佐藤富房作曲による歌である。もう著作権が切れているようなので掲載しよう。ただ一部ひらがな・カタタナを漢字にしたり、その逆があることをお許し願いたい。

【1番】
上野駅から 九段まで
勝手知らない じれったさ
杖を頼りに 一日がかり
せがれ来たぞや 会いにきた

【2番】
空をつくよな 大鳥居
こんな立派な おやしろに
神とまつられ もったいなさよ
母は泣けます うれしさに

【3番】
両手あはせて ひざまずき
拝むはずみの お念仏
はっと気づいて うろたえました
せがれ許せよ 田舎もの

【4番】
トビがタカの子 生んだよで
今じゃ果報が 身にあまる
金鵄勲章が 見せたいばかり
逢いに来たぞや 九段坂

探そうとの思いに駆られた動機は今年の全国戦没者追悼式で英霊の親の参列が式典開始以来初のゼロになったとの報を聞いたからである。
考えれば当然だ。1945年に20歳で死んだ英霊の親が20歳で生んだとしても敗戦時点で40歳。戦後60年経っているから若くても「九段の母」は100歳以上となる。

冒頭の「上野駅から 九段まで」「杖を頼りに 一日がかり」には驚かされる。当時は地下鉄が発達していなかったから途方から出てきた母は上野から歩いてきたわけだ。
確かに昔の人はよく歩いたらしい。私は以前に平凡社の依頼で江戸時代の同心(警察官)が1日どれくらい歩いたかを調べて原稿にしたことがあるが30キロなどザラである。
にしても歌に出てくる「母」は相当な高齢のようだから大変なことであったろう。

だいたい今の最寄り駅である地下鉄九段下駅から歩いていっても九段坂は緩やかだが長い上り坂で結構きつい。靖国神社監修の『ようこそ靖國神社へ』によると1923年の関東大震災までは「大変な急勾配で、むしろ絶壁に近かった」立地だったという。
大震災時の山本権兵衛内閣で内相兼帝都復興院総裁を務めた後藤新平の都市計画は昭和天皇もびっくり仰天させた「大風呂敷」で実現したのはごく一部だったが、その一部に靖国通りの整備があった。その後でも「一日がかり」だったのだ。
何で「絶壁」に英霊を迎えたかと小誌は調べたことがある。当地のそばには陸軍省や参謀本部、憲兵本部などの軍中枢が置かれていたからだとの説が有力らしい。坪内祐三著『靖国』(新潮社)によると大村益次郎が有力候補の上野を嫌ったとも。まあ大村と上野といったら彰義隊を屠った地だから嫌であったろう。

今でも日常の靖国神社は高齢者が多いが、さすがに100歳以上は会ったことがない。九段の母ではなく「九段の兄弟姉妹または友人」が目立つのだ。
ただ平然と九段坂は上ってくるようで「苦しい」「きつい」など聞いたことがない。それは靖国に来る以上吐いてはいけない言葉なのか。それともあの世代は本当に強いのか。

我々が探しているのは無論4番までのシチュエーション通りの「九段の母」ではない。今時上野から歩いてきて念仏唱えて金鵄勲章を持ってくる100歳以上の女性などいるはずがないから(というか戦前戦中はいたのか)。単に英霊となった子に会いに来る母親であればいい。
現地で見つからなければ日本遺族会などに協力をお願いすることになろうが読者諸賢でもしご存じの方であれば教えて下さい。

以前にこんな話を聞いた。靖国神社周辺で老婆を夜間にタクシーが拾った。後部座席の老婆が何やらつぶやく。気になってドライバーが耳を傾けると「うーえーのえきから・・・・」と「九段の母」を歌っていた。「もしや幽霊」と急ブレーキをかけて停車して振り返ると案の定誰も乗っていない。
凍り付いた運転手が次の瞬間に見たものは・・・・急ブレーキの衝撃で座席から転げ落ちてうめいていた老婆だったとさ。

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