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2005年11月27日 (日)

総合学習こそ学力低下を救う

2002年度から実施された小学校の学習指導要領、通称「ゆとりの教育」が否定された。学力低下などの問題を起こすからだそうな。でもそれでよかったのか。

この改定の象徴的な問題として「円周率が3.14ではなく約3として教えられる」が挙げられた。しかし私はそんなに重大な問題とは思えない。
そもそも円周率は現在では500億ケタ以上があることがわかっていて、3.14自体が省略されたものにすぎないし小数点以下を「約」とするのは常識的でもある。
だいたい円周率は一般にπという記号で計算されるので小数点以下があるという以上に細かい数値をやみくもに覚えても仕方がないのだ。
実際に役立つか否かという観点に立っても、設計など精密な作業では3.14で計算はしないわけで、3.14もまた役立たない。日常生活というところまで下ろして考えても、そもそも円周の長さを計算する場面などほとんどない。それは台形の面積などを教えないという批判にもいえる。

真に問題なのは、学校の授業時間数の大幅削減の代わりに導入される「総合的な学習の時間」(総合学習)が意義なしとされた点だ。実は似たような試みは戦前や終戦直後にもあったが、やはり「学力を低下させる」という理由などで次第にみられなくなった歴史がある。
だから02年以降の試みに対して「学力を低下させる」という批判が出たのはむしろ必然なのである。

総合学習とは何か。理念は明確で、「子どもが自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力の育成を重視」する「新学力観」に基づく。それは「個性」「多様性」を重視し、児童・生徒の主体的な取り組みを求める。そのためには討論などの要素も取り入れよと指示した。
実は私は総合学習の味方である。理念自体には全面的に賛成なのだが問題は具体的な方法だ。「個性」を伸ばすために「主体的な取り組み」をさせる具体的なシステムである。これは難しい。なぜならば究極的に「主体的な取り組み」をめざすならば、教育者は不要だという矛盾があるからだ。
また「個性」とは個々に違うから個性であり、個別の指導が不可欠であり、個性とは誰にも似ていないから個性なのだから、誰かが「こうしなさい」と教え、それを踏襲した時点で個性ではなくなるという矛盾もある。
加えて公教育は文部科学省の学習指導要領というガイドラインに原則として縛られるので真の総合教育を行うだけの能力と発想があっても実施できないという可能性が否定できなかったし実際にそうした声もある。

こうした難問を乗り越えて総合学習が成功すれば「学力を低下させる」元凶どころか、既存の教科にも一層主体的に取り組む子ども達が増えていく希望の星となったはずだ。それを簡単に葬り去った。懸命に取り組んで一定の成果を出したり真剣に模索した教師の努力は何だったのかといいたい。

だいたい学力低下とは何だ。「ゆとり」の反対は「詰め込み」である。私の世代はいわゆる現代化カリキュラム全盛で去年まで中学1年生で教えていた科目を小学校6年で教えるといった難化一辺倒であった。現在では高校数学ⅢCの領域になっている指数・対数関数を数1(現在の数ⅠA)で教えていた。
その結果何が起こったか。猛烈な数の落ちこぼれである。学校にいる時間の大半は授業である。その多くがサッパリわからない児童・生徒が続出したのである。
私とて例外ではなかった。私はいわゆる「10で神童」の類で小学生ぐらいまではまったく勉強しなくても成績優秀であったが余勢を駆って秀才が集う国立大学附属中学に進んだらもういけない。成績は急降下である。高校に進んでからはつまらないのでサボりまくっていた。青山学院大学に合格したのは奇跡だ。いまだに深く感謝している。おそらく10代前半までの勢いが何とかかんとか残っていたお陰であろう。
それでも私はまだ「10で神童」だったからよかった。小学校のクラスの半分近くはすでに落ちこぼれ気味になっていたのだ。あれを再現すればいいとは決してならない。

学力低下を嘆くのは教師や大学の教授に多い。おいおい人のせいにするなよ。児童・生徒に教育を授けている当事者は誰だ。「分数のわからない大学生」を批判する大学教授よ。その学生に入学の許可を与えているのはどこか。あなた方は誰の出資で生活できているのだ。
この際極論を正論のごとくいおう。分数がわからなくたっていいじゃないか。私はさすがに分数はわかるが上記のように成績不振のまま大学生になったという点では同じだ。そこで面白いことが1つでも2つでも見つかれば十分なのである。
そしてそのきっかけになり得たのが総合学習だった。

大学生に問うといい。彼らが悩んでいることの1つに自分探しがある。就職時のエントリーシートに何を書けばいいかわからないというのだ。まさに総合学習が目指した「自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力」の欠如である。
今は高度成長期のように「ふつう」であれば中流の生活が保証されるわけではない。「ふつう」は勝利ではなく敗北を意味する概念になった。そこから脱するには自分一人で局面を打開する姿勢が必要である。
ところが学力低下を悩む向きは現代化カリキュラム思想という高度成長期の概念を持ち出してきた。時代錯誤も甚だしい。
ノスタルジアを自分で楽しむ分には構わないが若者に押し付けるなど以ての外である。

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