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2005年10月 2日 (日)

本田靖春集を読んで

旬報社刊の『本田靖春集』(全5冊)を読み終えた。正確にいえば既に皆読んだことがあったので読み返したというべきか。
私は編集や取材・執筆の上で資料になる本を除いて本を読み返すという習慣がない。それよりは新しい本が読みたいからだ。でも本田さんは読み返した。
ノンフィクションの分野では大好きな書き手だった。崇拝していたといっても過言ではない。

彼が『小説新潮』に『警察回り』(本田靖春集では5巻に収録)を連載していた頃、私は就職活動を考え出していた大学卒業の年次だった。そしてこの作品を読んで「新聞記者になりたい」と強く願った。だって格好いいんだもん!本田さんみたいに「警察回り」をやって弱者のためのキャンペーンを張って、深代惇郎みたいな親友を得て(あわよくば深代になって)、格好良く社を去りたい・・・・なんてところまで夢想した。
確かに『警察回り』は過ぎ去った黄金時代を書いているから今から新聞記者になってもかなわない環境であるとは思った。だが同時に「決して、戦後の良き時代に捧げる″挽歌″ではない」ともあったから本田さんが「養分」としたような環境はまだあるに違いないと信じた。

それまでの私は出版社志望だったが『警察回り』で志望順位が変わってしまった。内定を下さった出版社を袖にしてまで毎日新聞社に入ってみたものの本田さんのようにはとても行かない。
入社してしばらく記者クラブで同期の何人かと話したら皆『警察回り』を読んでいた。「本田さんには騙されたなあ」なんていう者もいた。でも誰も恨んでなんかいない。むしろ騙されて心地よかった。
当の私はというと本田さんになるどころではなくダメ記者のまま逃げるように社を去った。巡り巡って出版の世界に身を置くことになったが『警察回り』にはいまだに感懐がある。

第5巻は『警察回り』と『不当逮捕』が収まっている。どちらも新聞記者が主人公だ。多分新聞記者を1週間でも経験したら涙が止まらない作品である。私は良くも悪くも泣かない性質だが第5巻を読んでいる間は泣けて泣けて仕方がなかった。『警察回り』の解説を書いている大谷昭宏さんも泣いていた。

「ペンは剣よりも強し」は嘘だと思う。武力を意味する「剣」はもとより権力の「権」にもかなわない。それでも「強し」と呼ばわって戦った人達がいた。彼らを温かく見守っていた先輩がいた。その意気やよしとの気風も社会にあった。弱者や少数者をペンの力で紹介し場合によっては救うという営みが尊かった時代があった。

本田さんの作品を本質からしばしばずれると評する人がいる。だが筋だけを追っていてはわからないストーリーは貴重である。そこに一貫して流れるのは単純な二元論では決して語れない人の深い心のひだである。強くて弱い。悪くて悲しい。正しいけれども疑問を感じる。そんな多層を事実の積み重ねで細かく証明していく。その背景には切ないほどやさしい一方で因循とも非難できそうな人と人との濃密な関係である。

本田さんが『月刊現代』で連載していた「我、拗ね者として生涯を閉ず」が未完のまま昨年末に亡くなられた時に調べて驚いたことがあった。単行本はおろか文庫までほとんど絶版になっていて『疵-花形敬とその時代』だけが新潮文庫でかろうじて出されていたくらいであった。『誘拐』さえもないのである。
ノンフィクションを主に出版している私にとってこの事実は重く悲しいと同時に何をどうしていいのかわからなくなった。絶版になっているということは売れないのであろう。『誘拐』や『不当逮捕』は時代が違うからといって色あせる内容ではない。ということは今の時代に本田靖春を得て彼の代表作に比肩するような作品を世に送り出したとしても売れないということか。「本田靖春を得る」こと自体がほとんど不可能なのに、それでもダメだとなるとノンフィクションはどこに活路を見出したらいいのだろうか。
旬報社のそれも『本田靖春集』であって『本田靖春全集』ではない。彼の作品の多くはもはや図書館か古本屋に求めるしかなくなった。しかも旬報社が『本田靖春集』を出すのも赤字覚悟の心意気だったと聞くと暗然とせざるを得ない。

だがそれでも私はノンフィクションの可能性を追求しておこう。おそらく一生貧乏版元のままであろう。でも弱者や少数者の立場で事実を記録していくという「弱きを助け、強きを挫く」心意気がなくて何のノンフィクションであろうか。昨日も書いた通り今やノンフィクションの書き手そのものが食うや食わずやの状態にある。多くの才能がすでに現実の艱難に屈して去っていったりゴーストなどで糊口をしのいでいる。本田さんの言葉を借りれば「決して、ノンフィクション受難の時代における″挽歌″ではない」と突っ張っていたい。いいものは必ず売れる。売れないのは編集者(つまり私)の責任だと自分を鼓舞しているところである。

ある日会社に行ったら(自分の会社をこう表現するのも変だが)鎌田慧さんが立ち寄って下さっていた。ちょうど『本田靖春集』1巻を読んで鎌田さんが『誘拐』の解説を書かれていたのでその話をした。同じ巻には『村が消えた』が収まっていて「鎌田さんの経歴ですと『村が消えた』の解説の方がピッタリ来ますよねえ」などとつい思いつきを言ってしまって「しまった。失礼だ」ととっさに気づくも遅かった。でも鎌田さんは「そうだねー。『誘拐』の方が来ちゃったんだよねー」と悠然と流して下さった。すいません生意気を言いまして・・・・。鎌田さんや本田さん、さらに立花隆、澤地久枝、柳田邦男、沢木耕太郎といった各氏、いわゆる「ノンフィクション第一世代」(鎌田さんは「ルポライター」だが)には頭が上がらない。それは尊敬の念ばかりでなく自らの非力を痛感している裏返しでもある。

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