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2005年10月24日 (月)

誰もがホームレスになる可能性

旧聞となるが02年1月に東京都東村山市で中学2年生の少年4人が、ホームレス(路上生活者)の男性に1時間半にわたって集団で暴行を加えて死なせるという事件が起きた。彼らが公立の図書館で騒いでいたところを男性に注意されたことへの「仕返し」だった可能性が高いと報道された。

事件直後の記者会見で、中学生が通っていた学校の校長は「路上生活者への接し方はどのように伝えていたのか」という問いに対して、「命の大切さを最重要視してきた。心の教育、人を思いやる心はことあるごとに話してきて自分なりに浸透していたつもりでした」と答えている。また影山任佐東京工業大教授(犯罪精神医学)は朝日新聞のインタビューに対し、「自分より低く見ているか、普段はほとんど無視している境遇の人から思わぬ注意を受け、屈辱感を抑えきれなかったのではないか」と語った。

2人のいうことがその通りだとしたら、要するにホームレスとは「思いやる」べきである一方で、「低く見ている」存在でもある。この心情は正反対のようで、実は案外と矛盾しない。むしろ問題の本質はそこにあるのではないか。

批判を承知で大胆にいってしまえば、本当はホームレスは「思いやる」必要もない一方で「低く見て」もいけないのである。

小誌は長らく多数のホームレスへの聞き取りを続け、出版してきた。そこで集まってくる声からホームレスになった理由をピックアップすると、転職の不具合、借金、カルト宗教、結婚の失敗、家族との不和、性格の弱さ、ギャンブル、犯罪、人間関係を築けないといったもの。いずれも人生の落とし穴になりそうな要素ではあるが、同時に誰でも長い人生のうちに一つくらいは程度の差はあれ、落っこちそうな要素でもある。
つまりホームレスは、障害などでやむなくそうなってしまった人以外は、おおむね自己責任の部分が大きいというのが知り得た範囲の情報から受ける印象である。誰もが陥る可能性があるのに、そうでない人生を歩めなかったとすれば、とくに「思いやる」必要はない。

そして、ここからがより重要なのだが、それを言い換えればホームレスになる可能性は誰にでもあるということだ。実際に取材を続ければ続けるほど、自分自身がホームレスになる可能性は無限大だと思い知らされる。「低く見て」はいけないというのはそういうこと。だって同じなんだから。

ホームレスを「低く見ているか、普段はほとんど無視している」のは少年ではなく大人社会である。小誌のの取材は出版という営利目的であり、決して福祉や教育目的ではないが、それでも「話を聞いてくれてありがとう」と涙を流して喜んでくれるホームレスはたくさんいる。
ホームレスのことはホームレスに聞くという基本を忘れて、勝手にレッテルを貼れば、勘違いの善意と、勘違いゆえにそれを偽善と察した結果としての悪意が芽生えるのは避けられない。

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