私の始末書3
今回が100本目。その記念には42歳独身子なしの私が「ニート」が気になって仕方がない・・・・という自我自虐の脱力日記「私の始末書」がふさわしかろう。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「NEET(ニート)とは「Not in Employment, Education or Training」の略で「職に就いておらず、学校等の教育機関に所属せず、就労に向けた活動をしていない15~34歳の未婚の者」であり今やそうした若者が増えているそうで国家は懸念しているようだが・・・・
よくよく考えてみると悪くないじゃん!ニートって
さっそく私はニートになりたいかと考えた。すると年齢制限の上限を超えている以外になってみたい条件も動機もあると知って我ながら驚いた。
まず職は辞めればいいだけだ。その上で「就労に向けた活動」をしなければいい。「教育機関に」は現に「所属」していない。「未婚の者」もその通り。
そして動機である。私は好きなことを取材して執筆して発表できればいいと以前に書いた。それ以外に望みはない。発表の場は会社が取引コードを持っているので出版はできる。会社の経営者は私だから私が私の書いたものを「出版してよろしい」と判断すれば出せる。
取材・執筆は交通費と電話代以外にビックリするほどカネはかからない。しかも私の主たる取材対象は無名の民であるから取材謝礼などは必要としないのが大半だ。執筆は鉛筆と紙、ないしはパソコンにワープロソフトを入れておけばOK。すでに所有している。取材の身軽さはいつも同行するカメラマンなどにうらやましがられるほどだから老いても動ける。カメラの技術も幸いにして身についているし白黒ならば現像・焼き付けまで会社で教えてもらった。
印刷・製本代が用意できなくても今やネットがある。
取材・執筆・編集は仕事であると同時に趣味でもあるから「趣味だ」と決めれば「職に就いておらず」といいうる。
次にニートになる拠点だ。年齢制限があるのはニートしていても暮らせる背景が主に実家とみなしているからであろう。私の両親は東京圏に住んでいて健在である。私の取材フィールドは主に首都圏だから交通費はグッと抑えられる。父親の年金だけで暮らしており現実に今生きているということは何とかなっているという証左だ。そこに私だけ混ざり込んでも大した出費にはなるまい。何しろ独身だから1人が出戻るだけのことだ。
両親の家は持ち家であるから家賃の心配もない。私には妹弟がいるが2人とも親元から離れて立派にやっている。しかも私は長男だから家に戻る大義名分もなくはない。
さてニートを続けるのは両親の年金支給がいつまで続くかが当面の課題となる。公的な資料から命数を数えてみたら10年以上は大丈夫みたい。つまり私が55歳ぐらいまでは徒食できそうである。
最大の問題はそこから私自身の年金支給が始まる65歳までの10年間だ。そうそう私は厚生年金に入っている。正確にいうと会社を経営する以上は強制的に払わされるので支払っているのだ。実家に張り付けば家賃ゼロだから月に10万円もあれば十分に暮らせる。これは一人暮らし25年の実績を誇る私には自信ある数字だ。すると1200万円都合を付ければいい。それをどう確保するか。もしかしたら両親に預貯金があるやも知れぬ。今まで全然気にしたことがなかったが。
あるいはニートの条件を厳密に満たすべく「会社を畳む」と小社関係者一同を脅すという方法もある。従業員は呆然としライターさんやら何さんやらは騒然とする。私がちゃぶ台をひっくり返すと「ちょっと待ってくれ」と引き留めてくれそうなクライアント様もありがたいことにいくらかはいらっしゃる。そこで切り出す。畳まない代わりに10年後から10年間月に10万円の給料をオレに払え、と。
そして65歳からは年金生活だ。無茶苦茶な生活をしてきたからそう長くは生きない予定である。考えてみれば55歳から65歳までの心配も不要かも。その間にあっけなく死ぬ可能性が高いからなあ。
バ・・・バラ色ではないか。今抱えている諸問題をすべて放り出して好き勝手やって死ねる道があったなんて。
でも、結論からいうと私はその道を取らないであろう。逆に死ぬまであくせくする危険性が高い。それは多分、そうでなくては男じゃないという観念が染みついているからだ。
1872年に近代的な初の戸籍である壬申戸籍が作られた際に日本の人口は約3000万人だった。それから1970年代頃まで合計特殊出生率は2を超えていた。つまり人口増が基調であった。私もそのトレンドの最後の方に生まれている。
かつて夫婦で10人ぐらい子をなしても当たり前という時代があった。多死多産だったからともいわれるが壬申戸籍時の約4倍の人口にまで増えたということはやはり生き残った方が死んだ者より遙かに多かったことになる。「子どもは労働力だった」とは俗説に過ぎない。戦前に最大47%まで増えた小作地を耕す小作に何人もの労働力など不要であった。寄生地主は子を労働力とする必要はなかった。畑は一般に田より貧しいとされた。
そこで生まれた子どもは山へ山へと入り込んで段々畑を作ったり荒蕪地の開発にあたったり、南米・中米・満蒙へと移民したりしていった。私の父も何の因縁か聞いたこともないが中国・青島生まれである。「家を出て勝手に生き残れ」というのが人口増時代の不文律で私はその最後にある。だから家には帰れない。ニートにはなれそうにもない。
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