教育基本法見直しの賛否両派とも不純
現在は連立与党の公明党(というより池田大作先生)が消極的なので表だっては論じられていないが教育基本法の見直しは01年11月に当時の遠山敦子文部科学大臣が「新しい時代にふさわしい在り方」を中央教育審議会に諮問した時点から自民党内で脈々と進められていていつ顕在化するかわからない。
いうまでもなく教育基本法は「教育憲法」などと呼ばれる日本の教育制度の根幹で全部で11条からなる短い法律だ。読んだことのある人には釈迦に説法なのだがこの法律のどこに問題があるのかわからないほど立派な内容である。強いていえば立派すぎるのが問題かもしれない。
改正論議は「伝統・文化の尊重」「国際化や生涯学習社会への対応」「家庭教育の役割と学校の関係」などの視点を視野に入れているようだが、条文を読む限りでは、それらが排除された法律だとはいえないし、「基本法」にあえてそうした概念を明示する必要性があるのかという疑問もある。そもそも基本法とは立派すぎるぐらいでちょうどいいともいえる。また書いたから実践されるというものでもなかろう。という見方もできよう。
先述のように「立派すぎる」に関してはむしろ同法擁護派が唱える「基本法の精神が骨抜きにされてきたから現在の教育の荒廃がある」という意見から改正派に力を与える擁護派にとっては皮肉な結果になりかねない。すなわち「骨抜き」ではなくて内容が立派すぎて具体性が乏しいために具体的な方針を定めることもできないのだと改正派に反論の余地を与えるのだ。
どのような方向で改正するかという議論も盛んである。擁護派は戦前の国家主義的な方向への改正を懸念し、改正側は現実に教育に大きな問題がある以上、その根幹である基本法を見つめ直すには当然だと主張している。どちらも一理あるが擁護派にも反対派にも私が肩入れできない理由は「教育を受ける側」つまり子どもの実態をどちらの陣営も最優先して考えていないという点にある。
擁護・改正派が本当に気にしているのは「日本国憲法改正」への懸念や興味ではないかという疑いを入れざるを得ない。先に「教育憲法」という言葉を紹介したように、1947年の教育基本法の制定は、前年に制定された憲法の主旨を踏まえた内容である。憲法が最高法規である以上、その主旨を踏まえた立法を施すこと自体は実に当然だが、「教育憲法」にまで祭り上げられたがゆえに、擁護派はその改正が憲法改正への一里塚に感じられて反対し、改正派の一部には基本法改正を憲法改正につなげようと意図が見え隠れする。
いずれにせよ「教育を受ける側」をないがしろにしているという理由はここにあるといっていい。憲法改正に賛成か反対かを問わず憲法論議が主目的で、それを達成するための一里塚として基本法改正に賛成または反対するという姿勢である。双方とも結局は教育基本法をダシにしているといわざるを得ない。
教育基本法に関わる議論は、まず憲法改正論議との関連を遮断して、教育問題を主として行われるべきである。そうでないと、いつまでたっても「本当の目的」のための不純で不毛な議論になってしまう。
まず現状分析を綿密にして「教育を受ける側」が切実に求めている問題点を挙げ、その解決のために基本法の改正が必要であれば行う。他の目的はないとはっきりさせれば、真に意味のある議論が可能なはずである。
私は「伝統・文化の尊重」などよりもずっと改正論議に挙げるにふさわしい問題があると常々感じている。たとえば教育基本法6条には「学校」は「国又は地方公共団体の他、法律に定める法人(学校法人のこと)のみが「設置」できるとしているが。ここを変えて、一定の条件下で民間にも学校設置を開放したらどうであろうか。「特区」ではなく普遍的に認めるのだ。活気づくと思いませんか。
擁護派は擁護派ゆえに、6条改正も言い出さず、改正派も憲法改正を視野に入れている勢力は6条などあまり問題にしていない。しかし、「立派すぎる」基本法にあって、この条文は最も具体的な規定の一つであり、ここを変えると劇的に学校制度を変えることが可能である。民間が学校を設立できるようになっても、教育を受ける権利を保証した憲法26条に直ちに触れることもあるまい。
今の教育基本法改正論議は抽象的で不純で不毛であって「教育を受ける側」にはさっぱりわけがわからない。擁護派が本当に擁護したいならば自ら「教育憲法」の呪縛を解いて基本法の精神をより鮮明に具体化できる改正案を携えて打って出るぐらいの気概がないと「守旧派」「サヨ」のレッテルを貼られて葬り去られよう。
一方で改正を支持する人はそれを唱える面々の経歴を調べてみるといい。文教族とか何とかいわれている人達だ。彼らに「新しい時代」「国際化」「家庭教育の役割」などと主張する権利があるのかという歴々ががん首を並べている。改正の議論はいい。でもアンタにだけは言われたくない人々と言い換えてもいい。彼らが主導権を握った改正など不愉快である。
本当は実名を挙げたいところだが名誉棄損がこわいので止めておく。最近の名誉棄損(民事の方)は簡単に認定される上に損害賠償額が異様に高騰しているのだ。この件に関しては表現の自由を脅かす事態なのでいずれ徹底的に批判する予定である。
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