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2005年9月18日 (日)

本山彦一と「編集権と経営権」

正直にいうと朝日新聞は嫌いだ。読売も嫌いだ。社会人のスタートが毎日新聞記者だったという事実が我ながらバカだと思うが重い。この2紙はライバルだったので、とっくの昔に離れた今でさえ敵対心があるのだ。毎日記者には嘲笑されるだろうね。「脱走元二等兵が妙なプライドを持つな」って。
朝日の「サヨ」は芸風であると以前に書いた。ゆえに「サヨ」だから好きとか嫌いとかではない。だいたい各紙とも記者クラブで同一のソースを中心に記事を仕立てコメントをすり合わせているのだから朝毎読に根本的な違いはないのである。
ただなくなってほしくはない。「馬に乗れなければ牛に乗れ」である。牛でもないよりましだ。だからまったく期待はしていないが滅亡は阻止したい。

朝日新聞が本当におかしいと感じたのは武富士事件であった。これは2000年から翌年にかけて『週刊朝日』が消費者金融の武富士から5000万円の「編集協力費」を受け取って「世界の家族」と題するルポを53回にわたって連載しながら「編集協力」「PRのページ」などの形で武富士のクレジットを入れていなかった問題である。
この問題を『週刊文春』は「人はそれをブラックジャーナリズムと言う」と刺激的な文言で告発したがブラックジャーナリズムとは少々お気の毒だ。小誌も企業の告発記事などを書く際に企業側からブラックではないかと詮索されて「違います。ご安心下さい。お宅の問題は1円も受け取ることなく正直に書きますから」と妙な返事をしたものである。

主にブラックジャーナリズムと呼ばれる者のやり口は「トリヤ」である。ゴシップ記事を掲載しない代わりに広告費などの名目でカネを受け取る総会屋のジャーナリズム版みたいなものだ。「世界の家族」の場合は仮に武富士のゴシップを書かないことを条件に連載させたとしたら文字通りのブラックだが恐らくそうではあるまい。
「恐らく」と留保したのはそう疑われても仕方のない脇の甘さが『週刊朝日』にはあったということだ。具体的には編集権と経営権が一体化して編集権がねじ曲げられている可能性があるとみられることだ。

さまざまな識者が解説していることで気が引けるが一応その意味を復習しておこう。
一般に編集権は記者が書いた内容が広告主や読者など経営を支える側の存在と利害相反状態になっても守り抜くべきとされる。だから武富士がもたらした「編集協力費」という利益(経営)で武富士の利害と相反する記事を書く(編集)ことをためらったとしたら編集権が犯されたということになる。
トリヤを代表とするブラックジャーナリズムはこの論理を逆手にとってカネをむさぼる。この世界では最悪と深く深く軽蔑される類である。
では編集権と経営権は分離が可能なのか。この素朴な疑問に格好の素材がある。他ならぬ小誌である。

私は今、零細版元の編集権と経営権を一手に握っている。文章の扱いも経営判断も私がずば抜けているから当然の人事だ。威張っていると取らないでほしい。数人で支えている版元のトップだと威張っても仕方がないといえばわかってもらえよう(我ながら情けない説得工作)。

いわばミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニミニ渡邊恒雄である。

こんな立場にいると「編集権と経営権」問題がまるで『世界がもし100人の村だったら』風に分かってきてしまう。わが一身が経営者兼労働者兼資本家兼記者兼編集者兼営業なのだ。

小誌の広告はすべて交換広告なのでおもねる理由がない。読者はそもそも少ないので好き放題書いていい。したがって編集権は独立しているが経営は破たんしている(買ってくれ!)。小誌連載をまとめた単行本の売り上げやら広告・編プロ仕事(マグロ船と小社では呼ぶ)などで糊口をしのぐ。普通あってはならない形態だ。本来ならば読者を増やして有料広告をかき集めるべきである・・・となるが本当か。

もともとジャーナリズムの経営の原型は19世紀末から20世紀初頭に活躍した毎日新聞社長の本山彦一が「新聞の独立を保つため」=編集権の独立には「経営の独立」が必須と考えて「新聞商品主義」の立場から広告収入を増やし、記事広告の場合は署名とするスタイルを確立したことにみることができる。つまり編集権を独立させるために本紙に広告を入れたのであって逆ではない。ジャーナリズムの価値観は別なのだ。

となると私のマグロ船作戦は「『記録』商品主義」からは外れるが編集権の独立のための「経営の独立」という論理立ては本山論に沿っていることになる。すごいな。本当か?

『週刊朝日』が武富士のクレジットを入れないまま事実上の記事広告を記事のように見せかけて出した理由はさまざまに分析されている。朝日の主張を信じるならば単なる不幸の連続による錯誤で誤解を与えたということになるらしい。でも仮に「世界の家族」のスポンサー名を最初から付けることを武富士側が遠慮したとしても断じてクレジットすべきだった。しなかったにはしなかった相当の理由があるに違いない。だって「記事広告の場合は署名とする」は本山時代からの常識中の常識だったから。

誌勢が落ちているとはいえ『週刊朝日』は約30万部の部数がある。小誌の比じゃないんだから卑屈になるなよ。なってないか。むしろ尊大だから問題を起こしたのかね。社員記者を使って高コストだとしても箱島信一体制(当時)では過去最高の決算を出したじゃないか。カネがあるならば編集の「独立を保つため」にジャブジャブ使えばいい。普通の会社と違うって?だって普通の会社じゃないだから仕方ないでしょう

もし『週刊朝日』が独立採算的にやっていきたいと考えての結果ならば武富士だろうが何だろうがバシバシ堂々と「記事広告の場合は署名」で行けばよろしい。包茎手術の記事広告だっていいじゃないか朝日人。
それが嫌ならば広告をあきらめてマグロ船に乗りなさい。ただ新聞記者のキャリアは記者クラブと社名に依存している限り社を飛び出したら恐ろしいほど使えない。似たようなものと思われがちな出版とも作法がまったく違うからなあ。マグロ船に耐えられるかな朝日人。

考えてみれば記事広告を記事と偽ると第三種郵便認可の条件の一つである広告量と記事との割合に抵触する恐れもある。ちゃんとしましょう。

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