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2005年9月 8日 (木)

ゴーンとニーチェの「予言」

昨日の今日であるが箱島信一氏が日本新聞協会会長を辞めた。取締役も退くというが「相談役」はどうするのか。

閑話休題。2人の外国人の言葉が気になってしかたがない。
1人は2002年2月にアメリカの「世界経済フォーラム」に出席した際に共同通信などとのインタビューに応じたカルロス・ゴーン日産自動車社長(当時)の言葉である。

正しいプランと指導者を持てば日本人は不可能にみえることを可能にする力がある。日産はその好例

もう1つはニーチェの『善悪の彼岸』(信太庄三訳)である。

悲劇へと突進する今日の日本人(中略)これらすべての者たちが享楽し、ひそかな欲情を燃やして飲みこもうとねがっているものは、「残忍」という大魔女キルケの美酒である。
この場合もちろんわれわれは、残忍とは他人の苦悩を眺めるところに生ずるものだとしか教えることのできなかった従来の愚劣な心理学を、追いはらわなければならない。自分自身の苦悩、自己自身を苦しめるということにも、豊かな、あふれるばかり豊かな快楽があるのだ

『善悪の彼岸』の原著は1886年年刊。まだ日清戦争(1894年)で世界をアッといわせる前の日本史でいえば明治維新後の新政府の模索がようやく終わって内閣制度(1885年)が始まったあたりだ。極東の小国のどこにニーチェは「悲劇へと突進」を感じたのだろうか。

いずれにせよニーチェによれば「悲劇へと突進」する力の源に「自分自身の苦悩、自己自身を苦しめるということにも、豊かな、あふれるばかり豊かな快楽がある」「残忍」性があると推察している。
ゴーンの言葉は日産自動車の立て直しという肯定的な部分を除いて一般化して考えると示唆的である。すなわち「正しいプランと指導者」で「日本人は不可能にみえることを可能にする」という。

「正しい」とは何だろう。それは民主政治においては多数が正しいと感じることとなろう。それを掲げると日本人は不可能を可能にする。「プロジェクトX」のような陳腐な例が思い浮かぶ。あの番組は「最後で成功した」という事実があって遡っていく。だが本当は「正しいプランと指導者」と信じて不可能を可能にしようとして失敗した「プロジェクトY」の方が圧倒的に多いはずだ。ゴーンの言葉にしたがえばそうした失敗は「プランと指導者」が正しくなかったとなろう。だが正しいかどうかは正しい結果が出るまでわからない。

では多数が正しいと感じる正しさとは何なのか。ニーチェの言葉にしたがえば「自己自身を苦しめる」「豊かな快楽」を味合わせてくれる残忍性の持ち主をそれと選ぶ可能性も大いにあるということだ。
斎藤孝明治大学教授がしばしば指摘するようにわが国の民草には上機嫌の文化があるのは間違いない。だがニーチェ説を採るといったん日産自動車が味わったような蹉跌に遭うや「正しい指導者」に残忍な者を選んで「悲劇へと突進する」性質があるという。故なきとはいえない。

太平洋戦争敗戦までの「悲劇へと突進」する過程を政治の立場から読む第一歩が『西園寺公と政局』および以後を補完する『木戸孝一日記』であるのは定説である。私は史学科の学生だったので大学時代に義務として一読した。今読み返してみて改めて感じるのは先の大戦、とくに対米戦争に勝機をみていた政治家は誰もいなかったという事実である。まともな感覚とまともな判断が最後まであったにはあった。でも「突進」してしまった。ここは昭和史の大いなる謎というしかないが「自己自身を苦しめる」「豊かな快楽」を追ったとすれば合点がいく。

先の大戦は中国戦線というどうにもならない泥沼の桎梏があった。何度でも書くが先の大戦で日本が真に敗北したのは中国にである。この桎梏を打ち破るために意識したかどうかはともかく好んで「悲劇へと突進」したのではなかろうか。
近衛文麿は「誰の意見でも聞いて決断しない」で東条英機は「誰の意見も聞かずに決断する」と評された。東条が対米戦争に踏み切る過程はある意味でフニャフニャして言葉を左右させる近衛らより論理的であった。だが彼の、というより彼が属する陸軍に中国戦線の桎梏を吹き飛ばしたい何かがあったのは間違いない。東条の大命降下の背景に主戦派の東条陸相(近衛内閣当時)をトップに持っていけば却って戦端を開くことに慎重になるのではないかとの宮中の意思があったことは広く知られている。

自民党は大きく分けると「腐ったハト」と「清潔なタカ」の両派があってどちらかが首班の座を射止めると主義主張はおとなしくするという暗黙の了解があった。権力と主張の交換である。タカ派が首相になれば軍縮に、ハト派が首相になれば防衛力増強に力を注ぎがちであった過去が証明している。この当たりが国民にわかりにくく「美酒」に酔えない不満を抱えつつも何だかんだと持ってきた。きっと小泉純一郎にも「腐ったハト」側は期待した論理であろう。
だが彼は権力と主張の交換に応じずに権力こそ主張の源泉と打って出た。爽快な「美酒」である。太平洋戦争開戦の報を聞いた多くの文学者から民草に至るまで書き残している言葉が爽快感に裏付けられているように。

だがその「正しいプランと指導者」をはやす心理が「自己自身を苦しめる」「快楽」にあったとしたら。我々はきっと「悲劇へと突進」することになる。

今の日本には国と地方を合わせて1000兆円ともいわれる信じがたい「借金」がある。先の中国戦線に匹敵する桎梏で最大のテーマでありながら「どうしようもない」ために誰も争点としない。というかできないのだ。民主党がいうような歳出削減をやっても政府税調が出した増税を実行してもダメなのである。そうなってみると人は「悲劇へと突進」する「快楽」に身をやつすのか。
大新聞の9月11日総選挙の予測はいずれも「自民大勝」である。こうした予測はしばしば外れるが内情をいろいろ聞くと記事にした「大勝」の度合いは取材した結果よりも控え目だそうだ。つまり「世論調査」と「全国の取材網」から上がった数字はもっと自民優位であるらしい。120年前にニーチェがみた光景が広がりつつある。1世紀以上前のこのドイツ人の予言に耳を傾けるべきだ

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