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2005年8月18日 (木)

『ちびくろ・さんぼ』と『ブラック・ジャック』

1988年に絶版となった岩波書店版の『ちびくろ・さんぼ』が瑞雲社から復刊された。『文藝春秋』05年6月号に「『ちびくろ・さんぼ』が帰ってきた」と題して井上富雄瑞雲社社長が経緯を説明している。その説明によると岩波の絶版理由は「登場人物の名称が差別的」であり井上氏らの調べによると作中の「さんぼ」「まんぼ」「じゃんぼ」などの人物名は舞台である北インドやチベットではよくあるもので肯定的な意味を持っているという。またイラストの「インド人にしては顔が黒すぎる」という指摘も「大胆な色使いでデザイン化されている・・・・ともいえる」との解釈を示す。
井上氏は「イギリス人がインド人をモデルにして書いた絵本が、世紀を超えて読まれたことで、現代アメリカにおけるアフリカ系黒人の解放運動に関連づけられてしまったきらいはあるだろう」と類推し「一日も早く人種差別はなくなってほしい」と吐露する。絶版から17年で「社会状況も成熟したのではないか」と観測もする。

確かに当を得た主張である。出版界の人間にとって絶版は仮に売れ行き不振が理由であっても断腸の思いだから支持されている作品の絶版はあってはならないし復刊しようとする出版人には拍手を送るべきだろう。

だが岩波版『ちびくろ・さんぼ』の絶版にはそれこそ未「成熟」な「社会状況」があったのも事実だ。井上氏は「ある団体」による抗議が絶版につながったと書いているが「ある団体」とは「黒人差別をなくす会」である。同会結成の中心人物の有田利二副会長には小誌1996年5月号に「気づいていない差別」と題する文章を寄せてもらった。

それによると有田氏は88年7月22付『ワシントン・ポスト』の“Old Black Stereotypes Find New Lives in Japan”の見出し記事で日本で多くの人種差別的な商品が売買されていることを知って家族で該当するような商品を探してみたところ「わずか2・3日で百数十点も集まった」という。主に4つのグループに類型化でき、いずれも「黒人をステレオタイプ化して商品製造している」と分析する。そしてそうしたステレオタイプの共通の名称として「土人」「黒んぼ」「サンボ」があったという。

ここは言語学者でない私にはわからないところだ。しかし井上氏の分析も有田氏の調査もどちらも正しい可能性がある。つまり「サンボ」「さんぼ」は井上氏のいう通りだったとしても当時は同時に黒人をさげすむ言葉としても使われていたということだ。

有田氏の小誌での文章によると日本人は「欧米の白人中心文化を学んできた」際に「黒人差別の中身と態度をも吸収し」てしまった。「黒人差別をなくす会」結成は「偏見と差別の問題に気づいたときに」「気づいていない人達に伝え、共に現実を改善していく姿勢」を重視したからだという。『ちびくろ・さんぼ』への抗議もこの一環だった。
すると問題なのは井上氏が「抗議に、当時、編集に携わった人々に相談することなくわずか四日間で絶版を決めた」と指摘する岩波経営陣の姿勢だ。先述のように「どちらも正しい可能性がある」かどうかは『広辞苑』が作れる岩波ならば審査できたはずだ。井上氏の指摘通りだとしたら岩波は編集権の侵害という出版社がやってはならぬことをしたことになる。
ただ有田氏も指摘しているように『ちびくろ・さんぼ』はともかく当時まぎれもなく差別的としかいいようのない商品や商標が他に露出していたのは事実だから冷静な審査をしているつもりでも時を費やすうちに「差別だ」との声が爆発するおそれはあったであろう。

となると果たして井上氏のいうように17年で「社会状況も成熟した」かが問題となる。有田氏は「いまなお問題」として「マンガによる黒人差別」を挙げた。例えば手塚治虫作品には「驚くほど多くの黒人差別表現が含まれている」と指摘した。
最近になって手塚の代表作『ブラック・ジャック』がアニメ化されたり最近の作家によってリメイクされたりしている。私も実はこの「黒人差別表現」も含む差別表現一般が気になって秋田書店版の『ブラック・ジャック』単行本の初版(最初は「恐怖コミックス」と銘打たれていた)と講談社版の全集を読み比べてみた。すると秋田版初版にあって全集にないものや表記が書き換えられているものが多数みつかった。

さてこの行為はどう判断すべきか。文芸で名作とされている作品には今日では不快・差別用語とされている言葉も多数使われているが書き換えはしないのが原則だ。手塚が確信的な、ないしは無意識でも差別主義者であったならば書き換えや不掲載はやむを得ないという判断もあろう。だが手塚をそう評する者はごくわずかである。否、仮に差別主義者であったとしても作品は作品だという判断もできよう。正反対に真から差別を手塚が憎んでいた人だと証明されたとしても不快・差別用語は許すべきではないとの反論もできる。
私見では手塚の醸し出すヒューマニズムは安易で好きではない。そこが安易だから用語に意を払いきれなかったのではないか。また当時の彼の殺人的なスケジュールが検討を甘くさせたのかもしれない。今では美談にさえなっている編集者とのやりとりも「取って出し」では校閲の間もなかったに違いない。

井上氏の文章の最後に「よく議論もなされないままに『言葉狩り』が行われ」ることこそやはり最大の問題だ。むろんそれ以前に差別肯定論の撲滅があるのはいうまでもない。議論を尽くすしかない。

この問題は小誌に連載中で既に2冊を単行本化している『ホームレス自らを語る』でも散々悩んだ。中心はホームレスへの聞き書きなのだが彼らの口から出る不快・差別用語をどう扱うかだ。あえて書くと「以前は土方をしていて・・・・」を「以前は建設作業員をしていて・・・・」と書き換えると言葉の力を失うのだ。このことについては機会をみてまた論じてみたい

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