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2005年8月27日 (土)

アフガニスタン戦国史

04年11月の大統領選挙が終わったら急に昔のように忘れられた土地になりつつあるアフガニスタン。でもイラクほどではないけれども相変わらず戦国時代の様相から抜けてはいない。現段階をまとめてみた。

●略史

◎1992年 ソ連の操り人形だったナジブラ政権がムジャヒディン(イスラム聖戦士)によって打倒される

◎92~96年 ムジャヒディン政権(ラバニ政権)の対立が激化

◎1996年 オマール師率いるタリバーン(神学生)がアフガニスタンの大半を制圧

◎2001年9月 米国同時多発テロ発生
◎同年 10月 同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラーディンをかくまっているとみなされたタリバーン政権がアメリカ・イギリス軍および北部同盟(後述)によって攻撃され始める
◎同年  12月 タリバーンをほぼ駆逐した北部同盟中心の暫定政権発足。議長はカルザイ

◎2002年6月 緊急ロヤ・ジルガが開かれてカルザイ議長を大統領とする移行政権発足

◎2003年12月 憲法制定(制憲)ロヤ・ジルガが開かれる

◎2004年11月 大統領選挙が行われてカルザイ移行政権大統領が当選。カルザイ本格政権始まる

●ローマ・グループ
かつて王政だった時代の最後の国王で、ローマに亡命していたザヒルー・シャーを中心としたグループ。緊急ロヤ・ジルガでは元国王を元首とする「王政復古」を企てて失脚したようだ。

1)ザヒル・シャー
最後の国王。03年末の憲法制定ロヤ・ジルガ(国民大会議)では開始を宣言する役割を演じた。最大民族パシュトゥン人出身でいまだに国民の声望も厚く一部には「王政復古」を望む声もあったが、何しろ90歳を目前とする高齢で、かつ国王時代の政権運営が優柔不断だったとの評もあり、元首に選ばれることはなかった。04年2月初めからはインドの首都ニューデリーに胃腸病の治療を兼ねて滞在中と伝わる。

2)カルザイ
暫定政権時にすい星のように登場。緊急ロヤ・ジルガで移行政権の大統領に選ばれた。その際にローマ・グループと暗闘があったようで以後同グループと一線を引いた。もともとは元国王政権下で国会議長を務め、タリバーンに暗殺されたとみられる反タリバーンの父親の後を継いだ人物。現地では当初父親の声望が高く、その七光り的な部分があった。パシュトゥン人であり、旧北部同盟とも友好的で、父親の声望と米国の支持もあるということで、非常にバランスのいい位置にいたのも大きい。その後04年10月の大統領選挙も勝ち抜き実力者の階段を駆け上がっている。

●旧北部同盟
主体は旧ラバニ政権を支えた二番目に多いタジク人勢力。旧ソ連軍を敗北に追いやった名将マスードの流れをくむ。タリバーンを駆逐した代表勢力で、駆逐後からしばらくは政権の中枢を握っていたが04年の大統領選挙で敗れて事実上下野。今後の波乱要因になる可能性もある

1)ラバニ
カブール国立大学神学部教授でイスラム協会の代表としてソ連の勢力に対抗し、ソ連撤退後の大統領となるも、前述のように四分五裂になってタリバーンに追い出される。もともとが学者なので清廉だとの評もあるが、何しろ「失敗した指導者」というレッテルは覆い難く、移行政権では役職についていない。ただし前大統領という肩書きはそれなりに重く、本人も現在の処遇に不満とも伝えられる。03年の制憲ロヤ・ジルガには座長会議の一員として参加し修正法案が会議の内容とはまったく違うと告発した。

2)故マスード派
マスードとはタリバーン時代に唯一国内に留まり、抵抗を続けた軍人である。ムジャヒディンとしてもソ連軍に対して機略縦横の戦いで勝利を収め、「パンジシールの獅子」の異名を取った。本来ならば反タリバーンの一番手だったが、同時多発テロの直前に暗殺された。今でも大変な人気を誇るアフガン随一の人気者。
移行政権ではマスードの愛弟子ともいえるファヒーム副大統領兼国防相、アブドラ外相、カヌーニ教育相の3人が政権の中枢を担った。

カヌーニは暫定政権時代の内務大臣でそれなりの実績を残しており教育相という「軽量閣僚」には不満があったとされる。04年の大統領選挙ではカルザイの対抗馬として次点に迫る。その直後に記者会見してカルザイ大統領から国防大臣の打診があったが「議員として政府を監視する立場に立ちたい」として断ったと暴露した。05年の総選挙では政党を結成し反カルザイ色を強める。

ファヒームはマスードから後継を指名された軍人でタリバーン掃討の中心人物だった。ゆえに移行政権では副大統領兼国防相に就任したのだが同時に最大の軍事グループでもあり続けるという矛盾を抱えていた。本格政権移行後は無役となって完全に下野。今後の動きが注目される。

アブドラ外相は一貫してその職にあり続けて現在に至る。旧北部同盟とカルザイ本格政権の橋渡し役が期待されている。

●各地の軍事グループ
前述のようにマスード派も軍事グループの一つであり、逆に以下に紹介する勢力には北部同盟に参加したものもあるが、勢力が大きいために別に示した。

1)ドスタム
アフガン北部の都市マザリシャリフを中心とした勢力をもっている。少数民族ウズベク人で、ウズベキスタンやトルコの支援を受けているとされる。軍人としての評価は高いが、アフガン歴代政権の一種のトラブルメーカー的存在であり近隣のアタ・モハマド(タジク人)バルク州知事と内戦まがいを続けている。となるとかえって手なづけた方がいいと判断したのか移行政権ではカルザイ大統領の北部治安担当顧問(笑)だった。04年の大統領選挙に出馬するも惨敗。ところが05年3月には参謀総長に返り咲く。世渡り上手なのもこの人の特長

2)イスマイル・カーン
強いか弱いかわからん人物。元々アフガン西部のヘラートを中心とした勢力をもっている。謎の多い人物だがタジク人とみられ、ソ連との戦いでは一時マスードと並び称される存在だった。イスラム教少数派のシーア派に属するとみられ、同派が主流の隣国イランの支援を受けているとみられていた。何しろかつては人気ナンバーワンのマスードに匹敵するカリスマだったし、ドスタムのような悪評も聞かれない。
移行政権に息子を航空観光相として送り込む。カルザイ側の取り込み政策であろうが04年3月に暗殺されてからヘラートは不安定化する。本格政権ではカーン本人がエネルギー相で入閣したが利権などとの絡みが注目される。

3)ハリリ
アフガン中部の都市バーミヤンを中心とした勢力をもつ。少数民族ハザラ人の代表で、タリバーンに殺害されたとみられるマザリーの後継者。イスラム教少数派のシーア派に属し、同派が主流の隣国イランの支援を受けてきた。移行政権からは副大統領として現在に至っており一応は波乱要因から除外されている。

4)東部パシュトゥン勢力
アフガン東部の都市ジャララバード一帯に勢力をもっている。タジク人主体の北部同盟がタリバーンから首都カブールを陥落させ、さらに東部に進軍しようとした際に、一歩先にジャララバードを落とし、北部同盟と友好的関係を保ちながらも、一定の支配権を確保した勢力。反タリバーンのパシュトゥン指導者で、カブール陥落後に「東部シューラ」を結成したハジ・ザマンや、タリバーンに暗殺されたパシュトゥン指導者アブドゥル・ハクの兄であるハジ・カディールが挙げられる。

当初はカルザイ政権に融和的とみられていたが、カルザイ父、ハク、ザマンはもともと反タリバーンのパシュトゥンとしては同格だったので、「何でカルザイの子だけが・・・・」と不満に思っていてもおかしくない。ハジ・カディールもまた暗殺されたが背後関係がいろいろ取りざたされている。一方で03年にUNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の車両が襲撃されたのはハジ・ザマンの根拠地であった。ザマンは最近になって反カルザイ色を強めているともされる。

5)グル・アガ
アフガン南部でタリバーンの本拠地だったカンダハールを攻略した有力パシュトゥン人勢力。カルザイが名を上げたのはもとはこのカンダハール攻略戦だったが、同等以上の活躍をしたとみられる元カンダハル州知事。移行政権では公共事業相、本格政権では念願のカンダハル州知事に返り咲く。カンダハルはもともとタリバーンの本拠地だけにカルザイ政権も強力な軍事グループを手元に引き寄せたいと考えているのだろうが逆の目が出ないとも限らない。

●反体制
1)アル・カイーダとタリバーン残存勢力
タリバーンはムジャヒディン政権(ラバニ政権)の対立激化に乗じて台頭した。そして今もまた同じような顔ぶれが軍事グループを作ってかなり好き勝手をしている。カルザイ政権はグループ解体と国軍強化にやっきだが、その過程では軍事グループの協力を得ざるを得ないという矛盾が生じている。
アメリカがにらみを効かせている以上オマール師自身が勢力を回復することはありえないが、タリバーン台頭と同じような下地がある以上は、別の人が別の方法で同じことを成功させる恐れもある。

アル・カイーダの場合は、もはやウサマ・ビンラーディンが大手を振って復活するなどあり得ない。だいたいアル・カイーダ自体が機能しているのかさえ不明だ。だがそもそもビンラーディンはアル・カイーダの独裁者というよりは、持株会社の社長みたいな存在で、実際の活動は傘下の実働部隊がやっていたから、彼の生死に関わらず、またアルカイーダであるかないかに関わらず同様のテロ活動を続ける危険性大。
カルザイ政権は軍事グループの取り込みと同時に残存タリバーン勢力も「穏健派」から吸い込む構えをみせている。庇を貸して・・・・にならなければいいのだが。

2)ヘクマチアル
おっと忘れるところだった。ラバニ政権をダメにしたA級戦犯ともいえる同政権の首相。ラバニとマスードと対立して、マザリーやドスタムとも反目。政権崩壊の引き金を引いたといっていい。パシュトゥン人である彼に一番援助したのはパキスタンで、それがタジク人のラバニとの反目を生んだともいわれる。その後はタリバーンに追われて一時は北部同盟に与するなど無節操な展開を続けたが、現在はどうやらパキスタンにも見放されたようだ。

ただし、一時はパシュトゥン最大勢力のトップにあり、過激なイスラム原理主義を唱えてタリバーンとの共闘を訴えるなど、危ない人物には変わりはない。「逃亡先のイランから追放された」「パキスタンにいる」「いや、アフガンにとどまっている」など、諸説が入り乱れている状態。
05年5月9日、アフガニスタン政府和解委員会はオマール師やヘクマチアルを恩赦の対象とすると発表した。ということはやっぱりそれなりにおっかないわけだ。ヘクマチアルでさえ。

●政権を支える外国勢力
国連が派遣した国際治安支援部隊(ISAF)と米軍ということになる。しかし、米軍の目標はあくまでもウサマ・ビンラーディンを捕らえることであって、アフガニスタンの安定のために大軍を駐屯する気はない。ISAFは全国各地の軍事グループを抑える兵力はなく、せいぜい首都カブールの治安維持どまり。

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