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2005年8月 2日 (火)

「電車で携帯」がなくならない訳

午後11時頃に都営新宿線に乗って新宿方面に向かった。そこで改めてビックリしたが皆が皆といっていいほどパカパカの携帯電話(携帯)を広げて画面を見入ったりいじったりしている。私の隣人もつり革につかまって立っている前方の人も乗降客もほとんどがそうだ。
もしタイムスリップができて10年前の日本人にこの光景を見せたら驚くだろうな。普及してしまったので何とも感じないが現代が作り上げた一大奇観であろう。
携帯を持っていなかった時代、彼らは何を持っていたのだろうか。マンガか本か新聞か。だとしたら携帯は車中で何かを読むという習慣を抹殺した我々出版界の恐るべき敵ということになる。

私が高校生の頃に授業で寝ていてふと目覚め、周りを見回したら全員寝ていて驚いたことがあった。起きているのは私だけだが私とて最前まで寝ていたから教室で生徒が全員寝ていた瞬間があったということだ。先生は何をしていたのか分かる術もない。寝ていたりして・・・・携帯の奇観から過去のそんな図を思い出した。

さてかねてから携帯がつながりにくいとされていた東京都内の地下鉄全駅が通話可能となったのは03年末頃から。東京メトロ、都営ともにである。
このニュースを聞いた時にもかねがね不思議としていた事実がさらにわからなくなった。地下鉄に限らず、鉄道という鉄道は最近構内や車内放送で「携帯をお切り下さい」とか「マナーモードにして下さい」と叫ぶように繰り返しているのに一方で携帯が使えるサービスを推し進めているのはなぜ?

不思議なことは他にもある。構内や車内広告に携帯電話会社の広告がこれでもかとばかりに大きく出ていることだ。
例えば学校で考えてみる。もちろん高校生も校内も喫煙は厳禁だが、ダメだダメだと放送では叫びながら、廊下に灰皿が置いてあったり、たばこ会社のポスターが貼ってあったら説得力がゼロなはずである。

携帯のくわしいメカニズムは私も知らないが少なくとも鉄道会社の協力がなければ、これまで通じなかったところで通話可能になることはないはず。むしろやめさせたいならば携帯電話サービスを行っている各社に交渉して沿線を「電波の届かない地域」にする技術を開発してもらうというのが正しいあり方というものだ。どうしてこうした議論が出てこないのか、なぜ矛盾を感じる人が少ないのかが不思議でならない。

携帯を切らせる理由もわからない。うるさいという声があるが車内の会話がよくて電話はダメというのは不可解。私の知る限り、携帯で話している人の音量が会話よりも大きいという事実はほとんどない。私も時にはうるさいとも思うが、会話よりもうるさいわけではなく、会話が認められる以上は携帯だけをのけ者にするのは差別だと我慢する。
「耳に入らない騒音」というのはあるらしい。日本人は虫の音を楽しむが西洋の多くの民族は「耳に入らない騒音」だと聞いた。その日本でも都心のマクドナルドなどくっつくように2人席が詰め込まれ、同時に客も詰め込まれている。客は互いに大笑いしたり泣き崩れたり深刻に顔を付け合わせたりとさまざまだ。音量としては間違いなく隣席にも届いている。
エンタツ・アチャコやユーミンならば聞き耳も立てよう。だが大半の隣人はまったく気にすることなく自らの会話を楽しんでいる。明らかに「耳に入らない騒音」なのだ。すると携帯の会話は「耳に入る騒音」なのか。ただ冒頭に記したような普及率を考えると携帯だけ気に障る理由がわからない。

確かな理由があるとすれば心臓のペースメーカーに影響がある、つまり命に関わるという問題だ。でも命を守るためだとしたら「マナーモードにして下さい」はおかしい。

と、ここまで考えて思い至った。先に「なぜ矛盾を感じる人が少ないのか」と書いたのは間違い。みな矛盾に気づいている。だからいくら放送されても平気でかけているのさ。

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