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2005年8月21日 (日)

左か右か

私と私の雑誌は「左」とみなされている。かつて右翼的といわれ今でも旧帝国海軍の戦艦と戦闘機の名前が全部いえる私がねえ。
確かに小誌の広告には左系のものが多い。だが大半は交換広告といってお互いの紹介をし合っているものである。どこが交換して下さって大歓迎で右も左も頼んだが右らしき出版物からは反応がなかった。要は左とみなされたのであろう。結果として左な出で立ちとなった。

本当に「左」ならば隠すことは何もない。堂々と名乗ってやる!でも左からも嫌われている。むろん右などでもない。じゃあ何かって!と問われれば反問する。「右か左じゃないといけないのか」と。

1)「エセ左翼」「背後に何かがある」
旧社会党系の人からはいきなり「エセ左翼」と呼ばわれた。エセも何も最初から左翼の予定はないから「エセ宇宙人」といわれたも同様。でも先方は言い放ってしたりとしている。「機会主義者」と批判した方もいたなあ。オポチュニストというわけだ。左とは右の反対といい右とは左の逆と解説するトートロジストならばともかく元から左や右といった観念を信じていないので日和ると言われても困る。

多分本物の左翼に違いない革マル派に至っては厳しい抗議を突きつけてきた。小誌の連載中に作者の思い込みから間違えた記載があり謝罪せよと迫られたのだ。間違っていた上は謝ったのだが革マル派は作者の「思い込んでいた」「まことに迂闊」「軽率のそしりを免れない」という言葉で納得してくれない。「背後にあるものは何か」と何やら我が社の背後に怖い組織があるがごとくに想像力を巡らす。ないない!そんなのないって革マルさん。
それにしても驚いたのは革マル派が小誌を読んでいた(でないと謝罪要求も来ない)という事実である。自慢じゃないが小誌は1979年に創刊以来30年近くにわたって「幻の雑誌」であり続けている。どこでどうやって手に入れたやら。

2)零細企業経営者は左になれない
そもそも私は零細出版社の経営者である。この時点で左翼にはなり得ないのだ。だって普段から銀行(資本主義の権化)に土下座し取次様(出版界の最高権力)に平伏しているのだよ。社員から外注さんに至るまでの支払額も決して高くはない。もっと払ってあげたいけれどもカネがないのだから仕方がない・・・・という考えこそ資本主義であるそうで仕事に比して小額の報酬しか与えられなかった外注さんは私に搾取されているということになるらしい。だとしたら私は「搾取」し続けなければならない。だってないものはないんだもん。
この構図にはまらない零細経営者がいたら拝みたいほどだ。零細企業経営者は自動的に資本主義の権化というか鬼と化すしかないのである。

3)何をもって左とするか
小誌は創刊以来「弱者・少数者の立場」からの編集を方針として掲げてきた。1994年7月から以前の発行元から発行権を譲渡されて今に至っているが編集方針の維持が雑誌の生命なのはオピニオン誌だろうがエロ本だろうが同じはずだ。「弱者・少数者の立場」とは対象によって違ってくる。ホームレスは社会的弱者であるが彼らのなかでも強弱関係がある。だからどこをとらえて弱者と見なすかといわれれば時々の判断と答えるしかない。ここにオポチュニスト批判の源がある。真の左(何度もいうが私は左でさえないが)たるものは何だか知らんがブレてはいかんそうである。
どうも最近の風潮では「右」でなければ左という力学が働いている気がしてならない。その上でサヨとして叩く。本田靖春さんが『我、拗ね者として生涯を閉ず』に書いているように以前には「ニューライト」とさえされた本田さんが「左と見做されているらしい」という。
小誌の巻頭はたいてい鎌田慧さんだが鎌田さんも「最近は左になっちゃったよ」とおっしゃる。本田さんや鎌田さんが「左」だったら本物の左翼は顔を真っ赤にするはずだ。

「左」の根拠はどうやら憲法9条への立場が大きく作用するとの説がある。鎌田さんのような「護憲」は「左」なそうだ。でも本田さんは「自衛隊を合憲とする」こと自体は「護憲のための改憲論」で述べている。私もほぼ同意見だが本田さんでさえ「賛否いずれの反応も皆無であった」というのだから声望も筆力も取材力も精神力も雲泥の差の低レベルにある私などが訴えても「皆無」なのは仕方がないのかもしれない。

4)執筆した雑誌によって決まる
本田さんが前掲書で推察していた。だがそうなると一応右のカテゴリーに入る新潮社の『フォーサイト』に署名記事を書いたことがある私の位置はどうなる。『記録』でも『週刊新潮』の名物コラム「ヤン・デンマン」がなくなった時に追慕の記事を載せたし『文藝春秋』が言論弾圧を受けた時には応援した。「右」とされる方々にも多く執筆を願った。私自身もう右だ左だという不毛な議論に終止符を打ちたくて仕方がないのだ。
私が信じているのはただ一つ。表現の自由を絶対的に守ることである。右も左も大いに結構。誰もが好き放題論じ合える環境こそ真の民主主義だと信じて疑わない。私は「表現の自由原理主義者」である。

最近気になるのは「右」のなかに表現の自由を抑圧する動きに賛同する論調がある点である。かつてはむしろ「左」の側に感じた「嫌なにおい」を発散している。お互いにそれをやったらお仕舞いでしょう。
冒頭の話題に戻る。私は右か左かと問われれば「下」と答える。薄田泣菫は『茶話』で「貧乏人は何でも知っている」と喝破した。常に無名の立場にありたいと願う。

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