8月15日までの中国戦線
一般に「先の大戦」の主舞台だった中国での出来事は伝えられていない。
「先の大戦」は
・1931年9月の柳条湖事件に発して33年5月のタンクー停戦協定に至るまでの「満州事変」
・1937年7月の盧溝橋事件に始まる「日中戦争」
・1941年12月の真珠湾攻撃からスタートの米英相手の「太平洋戦争」
に一応分類できる。ただしタンクー停戦協定から盧溝橋事件の間も単なる「停戦」の域を越えず「満州国」建国やら華北工作やら日中間の険悪なムードは持続していた。日中戦争と太平洋戦争は敗戦の1945年8月で終了とみなしていいので中国とは文字通り「十五年戦争」をやっていたと解釈していい。
この間に起きた出来事は何故か南京事件だけが突出して扱われる。後は45年8月9日のソ連軍の侵攻だ。前者は以前は日本の残虐行為の象徴であったが現在では「大虐殺」がどの程度だったかという論争に変わってきた。後者はソ連の不法(日ソ中立条約の破棄)を唱える者の根拠だった。
どちらも大切だ。だが「十五年戦争」を見渡した時にそれと同等以上の衝突や謀略、攻撃は多々ある。以下のような項目である。
1)田中メモランダム
2)西安事件の疑問
3)第二次上海事変と南京事件の経緯
4)盧溝橋での一発目は誰が放ったか
5)関東軍特種演習の本当の目的
6)重慶爆撃の全容
7)汪兆銘の真意
これらの項目は少しは知っていないと「先の大戦」の中国戦線はほとんど理解できないはずだが大半はまったく知られてないことが小誌の調べでわかっている。これは「先の大戦」の解釈の方向性がどちらであっても必要なはずだ。
一方で「識者」は十分に知っていて論じるが数は稀だ。両者のギャップは途方もなく大きい。「太平洋戦争」に比べると数段大きな差である。
小社から『8月15日からの戦争』を出版した今冨昭氏は終戦の5日後に中国で自爆した元陸軍少尉の兄の形跡を40年訪ね続けた。編集していて「なるほど」と思った部分がいくつかある。
1)中国戦線での戦死者の遺族は死に場所などにおそろしく無頓着
実は私の祖父も中国戦線で戦死したのだが母(つまり祖父の子)も「中国で死んだ」しか知らない。今冨氏も兄や姉に自爆した少尉の兄の自爆した場所を聞いたがわからず「どうして知らないままですごしてこられたのか不思議であった」の記す。
ここは靖国神社の意味と密接に関連してくる。どこでどのように死ぬのか形跡さえわからない可能性がある戦地に赴いたからこそ「靖国で会う」という虚構が現実味を帯びているとは考えられないか
2)「勝利か死か」しかない罪作りな選択肢
今冨氏の分析によると当時の出征は
・勝って死ぬ
・勝って生き残る
しかなくて
・負けて死ぬ
・負けて生きる
という選択は最初から排除されていた。敗色が濃厚になった頃には「勝って生き残る」可能性は限りなく低く「勝って死ぬ」しか残らなかった。厳密には死ねば勝ったかどうかはわからなくなる。
したがって敗色が深めれば死ぬしか選択肢がなく出征した本人も家族も死ぬことが当然となる。となれば死に場所などの細かいことは文字通り些事になる。おそろしいことだ。
8月15日の昭和天皇による敗北認定は「勝って死ぬ」しかなかった価値観にいきなり「負けて生きる」という正反対の選択肢を与えた。今冨氏の兄はそれに逆らって自爆するが多くの戦友は「負けて生きる」を選ぶ。人間として当然だが戦友は今でも今冨氏の兄にいくばくかの呵責の念を持つという。
戦時指導者の最も罪作りな点は負けるという選択を最初から除外して勝負を挑んだ点であろう。それは要所要所に錯誤を生み出し生命を究極まで軽んじる退廃を作り出した。
3)特攻は「自爆テロ」とは違う
今冨氏の兄は特別攻撃(特攻)を行う予定だった。自らの命を引き替えに敵に一撃を与える戦法である。ポイントはそれはあくまでも戦術だという点だ。だから特攻をやり遂げるために訓練も入念に行った。軍事作戦である以上は狙いは敵軍だった。
命を捨てて攻撃するという戦法を強いたのもまた戦時指導者のとんでもない誤りではある。ただあえてそこを外して考えれば戦闘行為の一環としての戦術であって民間人を巻き込んでの昨今の自爆テロとは思想が根本的に異なるとわかる。
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