2009年7月10日 (金)

告知――鎌田慧×竹信三恵子 トークセッション――

 一貫して労働現場を歩きつづけてきたルポライター、鎌田慧さん。現代日本の悲惨な状況を、歴史的な考察をふくめて描き出した新著『いま、逆攻のとき』(大月書店)の刊行を記念して、トークセッションを開催いたします。
 ゲストにお招きするのは、今年「貧困ジャーナリズム大賞」を受賞し、近著『ルポ 雇用劣化不況』も話題の竹信三恵子さん(朝日新聞編集委員)です。長きにわたって労働現場から日本社会を見つめてきた2人のジャーナリストが、いま何が問題なのか、これからの働き方はどうあるべきなのか、豊富な取材経験をもとに語り合います。
 小泉改革が吹き荒れ、国民の熱狂の中で労働者の首を絞める法案が成立いるなかでも、その危険性を指摘し続けた2人のトークセッションは必見です。

◆トークセッション名◆
『いま、逆攻のとき-使い捨て社会を越える』刊行記念
鎌田 慧×竹信三恵子
  現代の日本で働くということ
 
   

◆日時◆
2009年7月23日(木)18:30~

◆会場◆
ジュンク堂書店新宿店、8階喫茶。

◆入場料◆
1,000円(1ドリンクつき)

◆受付◆
7Fカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店新宿店 TEL.03-5363-1300

◆講師紹介◆
鎌田 慧(かまた・さとし)
ルポライター。主な著書に、『自動車絶望工場』(講談社文庫、1983年)、『反骨のジャーナリスト』(岩波新書、2002年)、『痛憤の現場を歩く』(金曜日、2005年)、『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)、『橋の上の「殺意」』(平凡社、2009年)など。

竹信三恵子(たけのぶ・みえこ)
朝日新聞編集委員。主な著書に、『日本株式会社の女たち』(朝日新聞社、1994年)、『女の人生選び』(はまの出版、1999年)、『ワークシェアリングの実像』(岩波書店、2002年)、『ルポ 雇用劣化不況』(岩波新書、2009年)など。

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2009年7月 9日 (木)

靖国神社/第19回 激突★奉納プロレス(上)

 寒さをこらえながら見てきた夜桜能から2日後の4月7日。日本の伝統文化から一転して、血と汗がほとぼしる野郎たち(女子もあるので厳密ではないが)の祭典『大和神州ちから祭り』へ行ってきた。この日の観客は約4300人だったそうだが、私には2000人くらいに感じられた。奉納相撲と違ってチケット制だからずいぶんな収益になったのだろうといやしくも考えてしまった。
 さて、格闘技の中ではプロレスが一番好きな私だが、生で見たことはないし、どちらかというと女子プロのほうが好きなので、奉納プロレスが復活をしたことは知ってはいたものの後回しにしていた。
 格闘技というと、総合格闘技(PRIDEなど)、ボクシング、柔道、空手……と挙げていけばきりがないが、なぜプロレスが好きかというと、ヒールがいかにも悪役だというアピールをするところと、なんともいえない茶番ぽさが好きなのだ。茶番というとレスラーには申し訳ないが、弱点を痛めつけたあと大げさに痛がってみたり、カウントをとられ9……と言ったところで起きあがったり。なんというか一つひとつが大げさなところがおかしいから好きなのだ。
 私の個人的な理由はここまでにしておくとして、当日は、夜桜能での寒い体験を思い出し厚着をして出かけた。暖冬のはずが3月から寒くなり、4月はまだ寒い。ピザまんをほお張りながら九段坂をあがり、一目散に相撲場へ向かった。17時開始だったので間に合うように行ったのだが、なんか騒がしい。
 どういうことだろう……と思いながら会場へ入っていくと、緑のコスチュームに緑のかぶり物(どうみてもガチャピン)をした人と、寅さんのような格好をした人の闘いが行われていた。
「人」としたのは、パンフレットを見るまで彼らの名前がわからなかったからだ。とりあえずゴングが鳴るまで観戦。その後、急いでパンフレット(1000円)を購入。さっそく誰なのかを調べると、緑の人はGha-Cha-Pingというらしく、アイルランドの児童養護施設で育った19歳。プロレスラーとしてファイトマネーを稼いで自分の育った施設に寄付をすることが夢だそうだ。いい奴だ。
 対する寅さんは、車冬次郎。プロレス界にフラリと現れたフーテンレスラーだそうだ。得意技は帝釈天落とし、葛飾柴又固め。どんな技なのか全く想像がつかない。一体どんな技なんだと悶々としていると、火入れ式が始まる。オープニング前に太鼓演奏があり、現在放映中のNHK大河ドラマ『風林火山』でも演奏している葛飾諏訪太鼓が叩いていた。

 17時18分、奉納第一試合は、プロレスリングSUN(ファーストオンステージの女子部興行名)。高橋奈苗(得意技:ナナラッカ、シャイニングヒザアッパー)、Hikaru(ラナキラーH、タワーハッカーボム)対前村早紀(花マル・どっかん、さきトンネル)、夏樹☆たいよう(たいようちゃん☆ボム)の試合。この4人は、SUNのメンバーで仲間内で戦うという形式。私の好きな女子プロの試合が見れるなんてうれしさひとしおだったが、結果はHikaruのLanakila-H→エビ固めで勝利。12分でケリが付いてしまった。
 17時33分第二試合。浪口修、高西翔太対菊池毅、谷口周平(プロレスリング・ノア所属)。前者は、今回の奉納プロレスを主催しているZERO1-MAX(ファーストオンステージの興行名)所属。両者血まみれになりながらも、浪口にジャーマンスープレックスをかました菊池の勝利。これも13分でかたがついた。
 17時49分第三試合佐々木義人(ZERO1)、関本大介(大日本プロレス)対澤宗紀(バトラーツ)、門馬秀貴(和術慧舟会)。佐々木、関本両選手がリング角に立ち上がり、両手持ったベルトを持ち上げるパフォーマンスをするのだが、何か原始的で捕った獲物を持ち上げ喜んでいるようにも見え笑ってしまった。がしかし、遠目で見た佐々木選手の顔はかなり私の好みではあった。
 この試合も佐々木がラリアット→エビ固めを澤にくらわせ勝利。これも18分程度で終わってしまった。
 基本的に30分1本勝負なのだが、かなり早く終わる。疲れるからなのか、やはりダメージがあるからなのか。どちらもなんだろうが、手に汗握る五分五分の試合だと、特に早く決着がついてしまうように感じる。ヤジは飛ばさないが、血湧き肉躍る状態になったところで終わってしまう。「ようやくのってきたのに!」と思ったところで次の試合になるので、気を取り直すことはできるのだが、精神的によくない。(奥津裕美)

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2009年7月 7日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/当ってしまった人身事故

○月×日
 人身事故に当ってしまった。
 中央線はいつものことだから、私達乗務員にとっていつかは誰かに必ず当る。よって、私に当ったからといって何の不思議もないのだ。といってもね……。
 発生は6月28日の13時55分。天候は小雨。東京から中央特快高尾行きに乗務していた。通過駅である武蔵小金井に差し掛かると、突然オットットットと身体が前につんのめるような体勢になりながら、急停車した。
 「急停車して申し訳ございません。原因を調べます。少々お待ち下さい」と早速アナウンス。
 「まさかアレじゃないだろうな」と咄嗟に思った。と、やっぱりその通り、「まさかのアレ」であった。
 「さぁ困った。こりゃ大変だ。あぁ、嫌だヤダよ~」と少し焦ったが、こんな時こそ職責をこえて一致協力してやれば大丈夫なのだと、半ば開き直りなのである。といってもね……。
 運転士によると、40~50代の女性がホームから飛び込んだのだという。電車は先頭車両1両がホームからはみ出し、残りの9両がホームにかかっている状態で停止していた。乗車率は約40%、乗車人数は約700人であった。
 「お知らせいたします。只今、この電車で人身事故が発生いたしました。負傷者の救出のためにしばらく運転を見合わせます。詳しい状況は分かり次第お知らせいたします。お客様におかれましては、電車から外に出ないようにお願いいたします。どうぞこのままでお待ち下さい。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」と、今書けばこうなるが、私の場合は実際のところ「人身事故です。負傷者を救出します。止まります。すみません、すみません」ぐらいにしか放送はしていない。しかも、落ち着きを失っているからか、いつもより早口になり、お客さまには何をいっているのかさっぱり分からないというか、ただまくし立てているだけのような放送であったのだろう。
 東京方の後方を見ると東小金井を発車した後続の電車がすぐそこの駅間に止まっていた。運転士が発報した防護無線(併発事故防止のため、他列車を緊急停止させる無線)により、後続や隣接線等の列車は全て抑止されているのだ。
 そんなこんなで、知らせを受けた駅員3人が駆け付けてくれ、線路に降り、中腰になりながら車体下の負傷者を探すと、「いたぞ」と叫んだのは私の乗務員室からすぐ先の2両目の所だった。
 私はこの時、駅構内の事故でよかったと思った。駅間であれば、いずれ誰かが応援に来るにしても最初は運転士と2人きりなのだから。
 いずれにせよ、私も救助に行かなければならない。私は車両に搭載してある事故対応用のバッグをおもむろに取り出すと、防護服上下とマスク、ゴム手袋(いずれも細菌感染予防のため)を着用し、準備完了。
 すると、14時04分、指令から、同ホームの向かい側2番線の使用が可能のため、後続の列車から2番対応で運転を再開する旨の無線が入いる。従って、本電車のお客さま救済のため(長時間の缶詰状態を避けること)、ホームから外れている先頭車両のみを締切り扱い(ドアの開かない状態)にして、お客さまには後の車両へ移動してもらい、2番線に後続の電車が来る旨を案内して、残り9両のホーム側全ドアを開扉した。
 早くも、警察数人と消防隊員10人近くが到着。そして、私も現場へ直行。
 負傷者は、「大丈夫ですか~」と声を掛けるまでもない状態だった。更にいえば、男女の識別すら困難で、これが人間か、である。かわいそうに……。
 負傷者を安全な場所へ移動させるために車体下に潜るのはせいぜい3人位で十分。それはプロである救急隊にお任せすればいい。こんな所に10何人も必要なしと判断して、私は乗務員室に戻る。結局、私は殆ど何もしていない。見ているだけであった。
 14時25分、指令から再び無線連絡が入いる。本電車を回送にする通告だった。2番線には既に何本かの下り電車が来ているのに乗り換えないお客さま、また、車内は蒸し風呂状態で非常に暑いにもかかわらず(これは、車体下には1500ボルトもある機器類があり、救助の際に触れてしまうと死亡事故に至る危険性があるため、電車はパンタグラフを降ろし、停電状態にするので、空調もストップする)全く降りようとしないお客さま全員を降車させ、全ドアの閉扉。
 同33分、救助作業終了。
 同43分、最終的な安全確認がとれ、本電車の抑止解除。
 同49分、運転士と打ち合わせ、運転再開。現場54分延。
 あとは、警察による現場検証と駅員らによる遺留品の捜索、といっても、ズバリ、肉片などの後始末と消毒だが、発車した私が関知することではない。
 乗務を終え、事故報告書などを作成し終え、一息つくと、「それにしても」という感情が噴き出してくる。
 自殺した人への同情や憐れみなど微塵も湧いてこないのだった。それは何も知らない他人だからであろうか。ただただ気持ちが悪いだけである。人身事故は国鉄時代を含めるとこれで5度目だが、もう二度とごめんだ、見たくはない。と同時に、小さな怒りすら覚える。人に迷惑をかけて死ぬんじゃないよ、といいたい。世の中には生きたくても生きられない人も大勢いる。すぐに挫けないで頑張って生きてもらいたい。もっともっと年をとるまで生きろよ。誰だっていつかは死ぬんだから……。
 しかしながら、死体処理までする仕事というのは、私達の他にあるのだろうか。合掌。(斎藤典雄)

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2009年7月 6日 (月)

書店の風格/第36回 八文字屋本店

 びっくりした。
 八文字屋本店のある山形県は、記者の故郷である。幼少の頃から、父の車で街まで(市街地に行くことを「街に出る」という)遊びに行くと、必ず寄っていた八文字屋。なぜか大きなゴリラのフーセン人形がにこやかに出迎えてくれる八文字屋。専用駐車場に車が殺到するので、いつも「大沼デパート」に車をとめて徒歩で向かっていた八文字屋…。こんなに近くにあったから、気づかなかった。あなたがこんなに老舗だったなんて。

 八文字屋の創業は元禄時代。なんと300年もの歴史を持つ。紅花商人が東京で「八文字屋本」と呼ばれる類の浮世草子を仕入れてきて貸本を行った、というのが発祥らしい。山形、という名がつかぬ頃から、地域の文化の発信地として頑張ってきた本屋さんだ。

 店内は一階と二階にわかれていて、入ると棚は入り口に対して縦置きのものが多く、吹き抜けになっている部分があるため実際よりもかなり広く感じる。まず雑誌と新刊文芸が並ぶ王道の配置だ。他店に比べてシンプルでアットホームなところがないのは、POPを全く置かないから。そっけないと見るか、目線がごちゃごちゃしないで正解と見るか。本読みなら断然後者だろう。奥へと進むと左側は新書から文庫へのグラデーション、右側は一般書から専門書へのグラデーションが美しい。無駄のない構成が店内をいっそう広く見せることに成功している。本当は東京の中規模チェーン店ほどの面積もない本屋さんなのだが、洗練された品揃えが、それを感じさせない。

 二階はコミックと参考書のコーナーだ。そう、ワカモノ向けなのである。中央の吹き抜けをぐるっと囲んで展開される棚の向こうには併設されたカフェスペースがあり、購入した本をゆっくり読めるようになっている。高校生の頃、なぜか赤本を買い込んでいたことが昨日のように思い出される。受験期に赤本がこれでもかと平積みされる壮観さは、関東圏の書店ではあまり見かけられないけれど、ワカモノが日本全国どこにでも飛ぶ地方書店にとってはごくありふれた光景なのかもしれない。しかし、八文字屋に並んでいると、「参考書」もきちんとディスプレイすべき「商品」なのでは、と思えてきてしまう。
 あのころは、赤本も飽きずに眺めたものだった。本屋さんで売っているものは、全部が読み物であった。受験生なのをいいことに、受けもしない大学の赤本を何冊も買ったものだ。そんな衝動買い、きっと八文字屋でしかできないと思う。(奥山)

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2009年7月 5日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第33回 最近の香典返しは、どうなっておるのか?

 香典返しの種類といえば、

●茶
●海苔
●乾物
●タオル

が主流だ。

上の4品の共通点を挙げると、
1、軽い(弔問客が持って帰るのによい)
2、賞味期間が長い、または食物ではない(返品がきく)
3、単価のバリエーションがある(値段に差をつけやすい)

 どれもお返しものに不可欠な適性だ。
 とくにタオルやシーツは近親者に贈られ、「かたみわけ」の意味合いが強い。遺品として代表的な反物になぞらえているからだ。しかしこのラインナップ、評判が悪いことも確かだ。「葬式のお茶はどれもまずい」とよく言われる。そんな先入観を覆すほどの美味いお茶が出れば別だろうが、きっとそんなものは出ない。

 なお、田舎になると香典返しの種類は一変する。

●酒
●砂糖

と、利便性よりも重いもの、かさばるものをお返しものとして重宝する傾向が現れてくる。

 ちなみに都市部では逆に、軽いもの、かさばらないものが重宝され、その究極例がカタログギフトだ。

 先だって行ったフューネラルビジネスフェアでは、カタログギフトの紹介も多かった。印象に残ったのが「沙羅」。2500円から50000円までバリエーションがあり、カタログのデザインも落ち着いている。仏事を醸す繊細な色合いだ。中身も比較的落ち着いたものが取り揃えられてあり、実用的なものももちろんあるがスタイリッシュなデザインだ。もちろんファミリー向けの品物もある。25000円のカタログには自転車まである(!)。反返しだとしても40000、いや50000円を香典として持っていかなければならないが。ごく近い親戚の葬儀に夫婦で参列したときくらいしかお目にかかれない額だ。でも香典持って行って自転車もらえるなんて、なんだかお得な気がしてしまう。もらうのが楽しみな香典返しなんて、滅多にない。

 他にも挨拶状サービスあり、喪中葉書サービスあり、送品サービスあり…カタログギフト業界は激戦区のもよう。そんななかでもデザインの面で一歩出ているように感じる「沙羅」。当日返しは地元のしきたりに倣っても、あと返しはこだわって、じっくり選んでみては。(小松)

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2009年7月 4日 (土)

Brendaが行く!/日本の暮らしはどんな感じか?と言えば

日本にいます。

私としてはすごくバランスのいい感覚ですごしています(今のところ3日目)

その理由は、やっぱり少し休んでから来ているので精神的に余裕があるところかしら。

あとは、この間の長い滞在で結構免疫ができたかな。

普通の日本人らしく過ごしているし。

おのぼりさん的な感動はあるものの、どぎまぎはあまりせずに落ち着いて行動できるし。
一番幸せな感覚である。

現在のところ顕著に感じるのは下記の点
・ ショッピングが危険と思えるほど楽しいのがこの国の難点。笑
・ どうしてここまでメシがうまそうなのか?実際にうまい
・ 天気が最悪
・ あたしの知る限りの世界的(せま~)な範囲ではバカンス前のうきうき感で一杯なこの時期なのにこの国にはそれはない様子

日本人に対する感動
・ 雨の日にスーパーに行った。ヨーロッパ的感覚でやむとおもったので傘持たずに行ってしまった。ここは日本の梅雨だった。こういう面は自分でも歯がゆい。スーパーの前で傘も持たずに長靴も履かずに来たことを後悔していると、同じ場所でスーパーの開店を待つおばさんと天気の会話になった。素朴なおばさんが「お宅はこの近くなの?あたしの傘を貸してあげるから家まで行ってとって来なさいよ」って。あ~優しい人だなって思って日本人のおばさんもすごくいい味出している人もいるなと。

・ 寿司屋において。正直初めての寿司屋ではどういう風に食べるのが一番いいのか悩んだ。どういうものがこの店の売りかということと、歯に衣着せぬ勢いで書くが、アタクシにとっては迷惑なことに、外見からは安い服を着ている上に化粧もしていないのに金持ちと思われる。そのことからアタクシのような外見の者がおまかせでと初めての店で言ってその上日本に住んでいないことは会話からバレるので、会計の時に値段が・・・。アタクシの近しい友人は料亭関係のことに詳しいので、あの世界がどのように料金を決めるかアタクシはよく知っている。ただし、すべての店がそのようなわけではないもちろん。最初は、知らない人は誰かわからないので警戒するのと同じこと。

ま、アタクシは会計の値段を知らないことが多いが自身の品格の問題から、そういうことを大変気にしている。弟に忠告される「衣食足りて礼節を知る」だっけか。男目線での注意にはよく耳を傾けている。アタクシのポリシーから言えば、どうせごちそうしていただくことがわかっているのであれば、相手に迷惑のかからないよう、その食事がお互いにとって心地よい会食の場となるようエレガンスとGraceを駆使するのが女の役目。(日本人の女の感覚のそれとは随分ズレてるとは思うが)

そこで、隣に座っていたおばさんにマスターに聞こえないように聞いてみた「あの、あの、すみません。このお店初めてきたんですけど、どういうふうに頼むのが一番おすすめですか、おまかせがいいですかこの店は?」と聞いたところ。あっけらか~んとどのようにするか教えてくださって。好きな物を頼むのが一番いいと。そして「こんなふうに若い人に聞かれたら教えてあげたくなっちゃうわよね~」と。優しい人だ。しかも何を食べると健康にいいとか、マスターの仕込んだ物の中でも特においしいものとかも教えてくださった。いい人だ。

なんとなく、わかってきたことがある。
日本人の多くの人たちとも豊かなコミュニケーションをとる方法。

次回はその詳細を書く。
はっきり言って参考にならないので、読みたい人だけに読んでいただきたい。

Brendaさんのブログはこちらhttp://ameblo.jp/brenda0/

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2009年7月 3日 (金)

アフガン終わりなき戦場/第19回 先進国の匂いがする街で(下)

 バグラム空軍基地は、ソ連侵攻時代に建設されたアフガニスタン最大の基地で、RCイースト(東部戦線)の拠点だ。また、アフガニスタンに駐留する兵士たちの生活の場でもある。
 駐留米軍を統括する司令官もこの基地にいる。私が訪れる数日前の5月、デビッド・マキャナン司令官が更迭され、首が挿げ替えられた。新任は統合参謀方部筆頭部長のスタンリー・マクリスタル中将になった。前任のマキャナンはオバマ大統領の2万1000人の増派に加え、もう1万人増兵を主張していた。オバマ大統領との戦略の違いがトップ交代の理由だと言われているが、真相は知る由も無い。何より、ここで働く兵士たちには何の影響も及ぼさないように見えた。

 喫煙所で煙草を吸っていると、3人連れの兵士が話しかけてきた。
「あんたどこからだい?」
「日本だ」
「じゃあ、アニメの『鋼の錬金術師』は知っているか?」
 白人の兵士がニヤニヤしながら聞いてくる。日本人だと言えばこの手の話題が来るのは承知の上だが、アフガニスタンとはミスマッチだ。
「アニメは少しだけ見た。マンガは読んでるよ」
「あれは面白いんだよな。母親を無くした少年二人のアドベンチャー。大好きだよ」
『鋼の錬金術師』では、軍事大国のアメストリスが宗教を篤く信じるイシュバール人の国を滅ぼすというエピソードが入っている。アメストリスの兵士の中には虐殺の罪悪感に苛まれ、自殺しようとしたり脱走する者もいた。イシュバール人の男「スカー」は戦後、復讐のために軍の中核をなした国家錬金術師を次々と暗殺していく。
 私にはアフガン侵攻やイラク戦争のオマージュに思えたのだが、アメリカ軍兵士が同作を好きだとは意外だった。
「ほら、こいつ。こいつはマンガ・アーティストなんだぜ。日本人にちょっと見てもらえよ」
 そう言って、白人兵士は横のノッポの黒人を私の前に押し出した。私の顔よりも高い肩の上に照れたような顔がのっている。私よりも少し若いだろうか。
ノッポは恥ずかしいよ、なんて言いながらポケットからipod touchを取り出した。
 画面の上をごぼうのような2本の指がスライドすると、アメリカ風ではない、日本風の絵がでてきた。さっ、さっと指を繰り、私に絵を見せる。随分と眼の大きな女の子のマンガだ。

 まるでアメリカに旅行にきたみたいだな・・・
 そう思っていると、スピーカーから大音量で何やら命令が出された。音が割れているのと、早口なので何を言っているか分からない。
 3人組が何も言わず喫煙所を離れて、基地のメインロードの端に並んだ。
 5分も立たないうちに、メインロードは兵士たちでいっぱいになった。2キロ以上はあるかという道が、先が見えないくらいまでに人の道になった。
「何が始まるんだい?」
「葬列だよ。今日殺されたんだ」
 どこからかラッパを持った楽団が現れ、ラッパを鳴らした。
「敬礼」の号令がかけられると、一列に並んだ兵士たちはドラマのように「ザッ」と音を鳴らして敬礼をした。
 兵士たちの隙間から盗み見ると、オープンカーにされた軍用車の荷台に星条旗をかけられた棺が見えた。
 1台、2台、3台。
 車が兵士たちを隔てて、私の前を通過していく。
 再度号令がかけられると、こんどは音もなく兵士たちが額から右手を下ろした。
 すると、終わるいなや、さっきの白人兵士が話しかけてきた。
「おい、アニメのDVDとか持ってないか? もう基地で売ってるのは全部見ちゃったんだよ」
 持っていないと答えると、邪魔しなた、と言って笑いながら歩いていった。
 ノッポの兵士をつかまえて、葬列について聞いてみた。
「まあ、週に2回か3回はあるね。東部戦線で死んだやつはみんなこの基地に運ばれて、それから本国に送られるんだよ」
 ノッポはニヤニヤしながら喋っている。ニヤニヤするのが照れ隠しなのかもしれない。
「こういうのって悲しくない?」
「そうでもないよ。慣れっこさ。それより、俺のマンガどうだった?」
 あいまいに答えて、私はホテル・カリフォルニアに引き上げた。途中、スーパー・マーケットでノン・アルコール・ビールを買った。アルコールは置いてなかった。

 基地での日常とはどういうものだろうか。外で殺し合いをしたと思ったら、基地に戻るとマンガの話が始まる。ノン・アルコール・ビールで乾杯して、アニメのDVDを見る。朝起きると、また殺し合いだ。
 悲しくなったり、切なくなったりしないのだろうか。
 数字は無常に結果を表している。陸軍だけで昨年は133人が自殺をした。
 外に出ると、日は完全に落ちていた。街灯が静かに基地に点々と光を落としている。光源加減か、彼らの内にあるものか、歩くもの皆皆真っ黒い影絵のように見えた。(白川徹)

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2009年7月 2日 (木)

ホームレス自らを語る 第31回 この生活も愉しい/山口さん(73歳)

 ボクの人生には語りたくないことが多いんですが、そんな中途半端な話し方でもいいんなら、話してみましょうか。
 ボクが生まれたのは東京の渋谷です。7人兄弟の下から2番目でした。
 父は外交官をしていました。この父は苦学の人で、あの松方正義(元首相で公爵)の書生をしながら大学に通い、苦労して外交官になった人です。
 その後、父は中国の領事館勤務になり、母と小学生だったボクと弟が、いっしょに行きました。ほかの兄弟は母の実家に預けられました。たぶん、学校の関係だったんでしょう。
 はじめて中国に渡ったときの印象は、怖かったですね。言葉や風俗の違う人々のなかに、いきなり放り込まれて怖かったです。慣れるのにだいぶ時間がかかりました。父親の転勤で中国国内や満州(いまの中国東北地方)の領事館を3回ほど変わりました。
 昭和20年8月の終戦は、中国国内某都市の領事館で迎えました。その終戦の日の数日前から、父はどこかの機関に出頭したまま帰ってきませんでした。いつまで待っても帰ってこないし、それで母の機転で日本に引き揚げました。小倉(いまの北九州市)にあった母の実家に弟と3人で身を寄せました。
 そのうちに父も帰ってきて、一家で東京に戻りました。その間、父が何をしていたかは、よくわかりません。
 終戦のとき、ボクは旧制中学の生徒でした。日本に引き揚げて転入し、その間に学制改革があって新制高校に変わりました。大学は学習院の政経学部に行きましたが、なぜ学習院だったのか、そのへんの事情は語りたくありませんね。
 そのころから、ボクはジャズ歌手の真似ごとをして、金を稼ぐようになっていました。都内のクラブで歌うのが主でしたが、日劇のミュージックホールで歌ったり、進駐軍のキャンプを回ることもありました。平尾昌晃はそのころいっしょにまわった仲間です。
 そんな歌手の真似ごとをしているうちに、学業との両立が難しくなって、大学はやめました。中退です。だからといって、本気で歌手になる気もありませんでした。そこまでの実力がないことは、自分でもよくわかっていましたからね。
 そのうちに世の中が落ち着いてきて、案の定、歌手の仕事は減ってきました。それでも何とかして食わなければならないから、いろいろ働きました。日雇いの肉体労働以外の仕事は、たいがいの仕事をやった気がします。
 結婚はしましたよ。相手は九州・熊本出身の女性です。子どもは女の子が2人。結婚して、子どもができたのに、職業を転々とする根無し草の生活をしているわけにもいきませんからね。それで商売を始めました。
 木材の輸入業を始めたんです。東南アジアやアメリカの木材を輸入して販売する会社です。といっても、そんなに大きな会社ではありませんよ。従業員が一番多かったときで5人の会社ですからね。商店のようなものです。
 そんな小さな会社でしたが、女房と娘たちには、不自由な思いはさせずに、世間並みのことはしてやれたと思っています。商売は地道にやりましたから、大きく儲けることもなかった代わりに、大きく損をすることもなくてね。まあ、堅実な会社でした。
 娘はふたりとも結婚して、2人とも孫がいます。女房は先年に亡くなりました。病気でしたが、これについては語ることもないでしょう。というより、この話も語りたくないな。  ボクは歴史に興味があって、それを調べるのが好きでしてね。娘2人が嫁いで、女房も亡くなって暇ができるようになり、仕事の休みを利用して神社、仏閣めぐりをするようになりました。私の場合は建物や庭園の結構を愛でるよりも、そこに所蔵されている古文書を見せてもらうのが目的でした。
 ボクの愉しみは古文書を解読すること。歴史上の特定の事件などを調べているわけではないから、古文書なら何でもいいんです。室町時代のあたりから江戸時代のものまで、脈絡なく片っ端から解読しています。
 古文書には楷書で書かれたものはむしろ少なくて、行書体や草書体のものが多い。なかには漢文のものもあります。解読には手間取りますが、それだけに読めたときの喜びも大きいわけです。
 それでボクはしだいに古文書にのめり込むようになって、仕事も従業員まかせになっていました。もう会社には出ないで、毎日竹橋(千代田区)にある国立公文書館のほうに通って、古文書三昧の生活になっていました。
 それがいけなかったんですね。ボクが最も信頼して仕事をまかせていたベテランの従業員が、店の金のありったけを持って逃げてしまったのです。それで店は倒産。ボクは住むところも失って、路上で生活する身となりまた。2年前のことです。
 こうなったのもボクの責任です。商売をそっちのけにして、古文書にうつつを抜かしていたわけですからね。悪いのはみんなボクです。誰も恨めません。
 じつは、ボクは楽天論者でしてね。こんな路上生活の身に落ちぶれながら、自分ではこの生活を愉しんでいるんです。だいいち、もう誰に気兼ねすることもなく、公文書館に入り浸って、心いくまで古文書の解読に没頭できますからね。ボクにとってはこれ以上の幸せはありません。
 身体はいたって健康、足も健脚、動けるうちは古文書を求めて東奔西走を続けるつもりです。それから先のことは、そのときに考えればいいでしょう。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月30日 (火)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第32回 フューネラルビジネスフェア2009に行ってきた

 今年もフューネラルビジネスフェアの季節になった。といっても、一般の方々には何が何だかわからないに違いない。まず「フューネラル」という言葉がわからないに違いない。「ブライダル」は婚礼、「フューネラル」は典礼。そう、「フューネラルビジネスフェア」は、葬儀ビジネスの情報発信をする場だ。葬儀社との取引をこいねがって、祭壇屋・演出屋・衛生管理商品屋・遺影屋・骨壺屋などなどがPRする。今年は100を超える企業が一挙にパシフィコ横浜に集まった。

 6月25日の9:30、入り口に続々と向かっていくのは地味なスーツに身を包んだ男性たち。こんな時間に堂々と抜けてこれるのだから、きっと偉くて暇な人なんだろう。実務をやってるぺーぺーは26日、友引の日を選ぶだろうから。

 展示場に入って右側、一番最初に目に付く場所を陣取っていたのは意外にもアットアロマ。アロマ空間デザインに力を入れている会社だ。葬儀式場のデザインまでするということか。たしかに、安らいだ香りに包まれた式場はいいだろう。しかし線香の香りとの相性はどうなんだ? その辺を詳しくお聞きしたかったが、常にブースは満員でプレスの札を下げている私を相手にしている暇などなさげだった。きっとみんな同じギモンをぶつけているのであろう。

 その他、伝統的な祭壇や仏具、柩などの展示が続いたが、特に珍しかったのは棺に敷く畳。「故人を棺に納める際、薄い布団を敷くとはいえ板の上にお休みになっていただくのは少々気が引けますよね。これは本物のい草でできていますから、実際の畳の触感です」と、社員の方。
 たしかに気になってはいたのだ。故人を棺におろす際の、ゴツッとした感触。あれはなんとかならないだろうかと。なるほど畳を敷けば、少しは暖かみが出そうだ。でも、重くないんだろうか?

「細長い畳を二枚使っていただきますが、両方合わせて3キロほどです。炉に入れても残留物を出すことはなく、新潟の火葬場で実際に焼き、使用可の証明を頂きました」

 3キロというと重いと感じるかもしれないが、それに平均して60キロの人間が乗っかるのだ。持ち上げるときに極端に重さが変わるわけではない。

「棺の中に敷くだけではなく、和室式場の演出などでも使っていただいてます。畳の部屋でちょっとした段差を出したいときなどに便利です」

 畳の部屋での難点というと、私の方でも思い出したことがある。自宅葬の際だ。香炉の下の畳は、訪問客がうっかり線香を落としてしまうことがあるのでどうしても焦げ付く。初七日が終わると、座布団で始終隠していなければ格好が付かないほどになることもある。一段高い演出も出来て、本物の畳のカバーにもなるなら一石二鳥だ。これから重宝がられる商品になるだろうと思えた。

 他にも「おくりびと」から生まれた遺体専用化粧道具や(これが本当にオシャレで欲しくなってしまった)、静岡県警からも支持を受けたという遺体保全剤、トヨタ「レクサス」改造型の霊柩車など、葬儀業界は活発だ。出版はどうだ、と思うと暗い気持ちになってしまった。7月に行われる「東京国際ブックフェア」に期待したい。といっても、どうせ元気なのは携帯コミックとかデジタルパブリッシングなんだよな……(小松)

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2009年6月29日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 前編

(前編)
 生まれは東京ですが、ぜんそく持ちだったので環境を整えるために4歳で岡山に移りました。閉鎖的な田舎町で、いったん栄えてまた廃れてしまったという雰囲気が色濃くある場所でした。そんなもんなんで、人も少ない。小・中・高校と、全て同じ町で通いました。

 中学校の頃は、情報飢餓状態に悩まされていましたね。実家が東京なので年に二回は上京するんですよ。そうすると、田舎町がすごく窮屈に感じてしまいます。狭い町なので、人間関係もある程度固まってしまっているんです。小学校とかで人間関係のカーストが出来るじゃないですか。その中で下の方に行っちゃうと、抜け出せなくなる。それもあって「早く出て行きたい」という気持ちをずっと持ったまま、高校に進学しました。

 地元の高校は治安が悪かったですね。すぐに暴力を振るったりするような環境があって、偏差値に幅があったというかーー全てが偏差値で決まるわけではないんですけどーー早い話が、民度っていうんですか、民度がたいへん低かった。学ランの裏に刺繍入れてたりとか、典型的な田舎ヤンキーの集まりでした。その頃がピークで、「もう無理、もう無理」と思いながらストレスで自分の髪の毛を夜中に切り出してしまったり。両親も嫌気がさして、絶対にいつか東京に帰ると言っていましたね。
 例えばその頃、音楽に興味を持ちだしたんですが、より詳しくなりたいと思っても、本屋さんが三軒くらいしかないし、一般的な本しか置いてない。ミュージックショップに行ってレコードを探そうとしても、レーザーディスクしか置いてない。もうやだこの町、と思って。

 田舎嫌いって僕はいっちゃうんですけど、田舎っぽい人達っていうのは都会の中にも住んでますよね。自分の狭い物差しで語って、価値観を押しつけようとする人です。こうじゃなきゃいけないと。そしてそれからはずれる人に対して、妙に陰湿な攻撃をしてくる。そういう閉鎖的な人を見ると、田舎っぽいなあと思ってしまいますよ。

 高校を卒業して、東京に出てきました。現役で国立大に受かったんですが、東京じゃなかったので不満に思って一浪しました。葛西の寮からお茶の水の予備校に通う生活が始まりました、やっと出てこれた東京を思いっきり満喫してしまって、机の上で勉強した記憶がないですね。とにかく音楽をたくさん聴いて、はじめて手にした自分専用のパソコンでネット三昧。その頃、ちょうど個人サイトブームが来てて、普通の人が書く日記や創作が面白いという感覚が始まったので、自分もちょっとずつ文章を書くようになってきて。そうやって音楽と文章漬けになって、結局一浪して合格したところに入学したんですが、両親はもうちょっといい学校に入ってくれるもんだと思っていたみたいです。子どもの正体は、実はキリギリスだったと。…いまは冬で死にかけてる状態なんですが……
(前編終わり)

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