2008年7月25日 (金)

『吉原 泡の園』第71回/廉恥心が消えたI君

 焼肉屋で行われた盛大なI君歓迎会が終わると、下っ端ボーイは寮に向かう。幸いにも新S店の寮は吉原の中にあった。こうした酒を飲んだ後は近いほうがいい。
 店の幹部連中はというと、高級車で目黒のマンションにお帰りの人、三ノ輪周辺のマンションに帰る人など住まいのレベルは段違い。僕はミニバイクで店から10分程の場所にオンボロアパートを借りたが、その日は酒を飲んでいたので、タクシーを利用して帰宅した。やっと買ったミニバイクは店の駐車場に止めておいた。
 今までさんざん二人部屋で生活してきたので、どんなにボロい部屋でも、自分ひとりの部屋は嬉しい。プライベートがあるというのがたまらなかった。家賃2万8000円で共同風呂、トイレ、キッチンである。部屋は4畳くらいで窓はピタリと閉まらない。隙間風どころか数センチは完全に開いている。もともと何かの工場だったらしく、そこを中国人の家主が手作りでリフォームして、一軒家をいくつもの部屋にしきったのだ。1階は完全に物置だけの場所で、2階に上る階段は一段一段の幅がかなり違った。トイレスペースも手作りで、木で作られたスペースを白いペンキで塗った簡素なものだった。床からは怪しいキノコが生えていた。
 部屋と部屋の壁もいい加減で、かなり薄いベニヤ板のため、声や音が筒抜け。1階入り口部分も、大家が独自に編み出したひとりで勝手に閉まるドアが付いていたが、閉まったドアの隙間が10センチはあり、ネズミ、猫など入り放題。実際、2階に上がる階段でネズミを目撃したこともある。1階入り口には猫の糞がドカンと置いてあったりしたし。まあ、かなりひどいものだった。
 もしかしたら“ドヤ”と呼ばれる簡易旅館の方が快適かもしれない。それでも日払いではなく月々の家賃で済むし、なにより自分の部屋の鍵を持てたことが嬉しかったのだ。吉原の寮にいると、それほどの感覚に陥る。
 そんな場所に慶応ボーイのI君が住むのは、到底無理のように思えたが、その予感はすぐに現実のものとなった。

 寮生活といえば「高校野球の選手などが、寮生活をしながら・・・」などと格好の良い想像をしがちだが、吉原ボーイの寮生活はそんな甘いもんじゃない。看守のいない刑務所暮らし。そんな感じだ。
 I君歓迎会の翌日。ミニバイクを店の駐車場に置いてきてしまった僕は、タクシーで店に向かった。11時30分、I君がまだ店に来ない。昨夜の飲み過ぎて起きられないのか? と心配になった。
 鬼主任が怒鳴った。
 「おいマル、Iのこと起こしてきてくれ」
 I君の部屋に着くと、鍵がかかっていた。ドンドンとドアを叩くが反応がない。熟睡中なのかな、あきらめて店に戻ると、もう1人の新主任Sさんが携帯電話に電話をし始めた。
 プルルルル~。
 結局留守電にメッセージを残し、仕事開始の時間になった。
 開始してから数時間たったころ、新主任Sさんが電話すると繋がったらしく、何か話していた。話が終わり、電話を切った。
「今日I君休みたいんだってさ」
 嫌な予感に僕も番号を教わり電話してみた。
「ああ、マルさんですか」
 電話をするとすぐに繋がった。
「休みって、具合悪いのですか?」
「いいえ、今横浜にいます。実は借金取りが実家に来たと連絡がありまして、それで横浜に居ます」
「いつから仕事に戻るの?」
「・・・」
「ねえ、いつからなの」
「実は警察に逆探を依頼しまして、やってもらうことになりました。ですのでいつ復帰できるかわかりません」
 何だかもう終わりだと思った。しばらく様子を見てからの復帰だと言っていたが、横浜に帰る際、寮の部屋の鍵を閉め、その鍵を持ったまま横浜に帰っていった。誰も合鍵をもっておらず、その間に面接に来て働くことになった人も、寮に入りたくても鍵を壊すしかなかった。
 I君の適当な態度に切れた新主任Sさんは。
「もうあいつは首だ!」
 そう怒鳴った。
 I君はもう二度と吉原に姿を現さなかった。こうして元慶応ボーイの吉原ボーイ生活はあっけなく幕を閉じたのだった。(イッセイ遊児)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月24日 (木)

北京オリンピックの前に読む本

 北京オリンピックまで3週間余りとなった。中国に関連する報道を目にする機会も多くなったように感じる。大気や食べ物の汚染、テロ、経済発展、強権国家、ビジネスパートナー、反日運動、富裕層の生活。今の中国がさまざまな角度から切り取られ、日々、大量の映像や記事となって吐き出されている。
 ただ本当の中国がどんな国なのか、なかなかイメージが結ばない。中国自体が混沌としているうえに、報道も主張をともなっているものが少なくないからだ。

 で、今の本当の中国はどうなんだ、という疑問に『写真録 さらば中国』(八木澤高明 著 ミリオン出版)は答えてくれる。大量の写真に短めのルポが付いた本なのだが、これが異様なほどの迫力をもっている。
Photo  地方での不当な裁判や共産党幹部の横暴に怒った人たちが、北京の上級機関に訴えるために集まる「直訴村」。売血によってエイズが集団発生したエイズ村。キャラクターのぬいぐるみを生産するコピー工場。犬をさばく現場。纏足(てんそく)の女性。汚染された川とその水で病気に苦しむ人々。地方の農村から出てきた娼婦。都市で成功した富裕層たち。
 現在の中国の混沌が裸のまま投げ出され、こちらに迫ってくる。もちろん取材もラクではない。エイズ村では公安に軟禁されたうえに金を奪われ、あげくの果てに殴りつけられる。「直訴村」では公安におびえて帰りたがる通訳を怒鳴りつけて取材を続行する。コピー工場の取材ではコーディネーターから、「あなたは日本からのビジネスマンとして工場に行きます。もしカメラマンだとばれたら、どうなるか分かりません。非常に危険です」と言われている。それでも本には、きちんと写真が掲載されているのだ。

 しかも著者は余計なバイアスを事実にかぶせない。

 例えば生きた犬をさばく様子を取材した著者は、次のように書く。
「可愛い子犬を食べる人々を野蛮だという気持ちは毛頭ない。中国の犬食文化を素晴らしいと讃える気持ちもない。犬はペットだという認識の中で育った私は、心の中に何とも言えぬ違和感を感じながら、ただ懸命にシャッターを切ることしかできなかった。その違和感は何なのか。簡単に言ってしまえば、犬食文化を知る者と、知らぬ者程度の差異なのだろう」
 そして、この文章はこう続く。
「後日、犬を食べてみることにした」
 ヒステリックなあざけりも、現実感のない正論も現実に体ごとぶつかっていく取材者の前では、何の意味も持たないだろう。

 著者はあとがきで「今中国で起きていることは、かつて日本で起きていたこと、そして今起きていることと同じではないか」と書きつづっている。
 そうなのかもしれない。
 かつての日本の高度成長期の汚染と混乱、その一方にある活気。そして年々強くなる国家の横暴。カオス状態の現在の中国を写した写真に、いろんな年代の日本が映っていた。

 あーいい本だなー。
 出版不況だからこそ、こんな本を応援したくなる。(大畑)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年7月23日 (水)

本が売れない

何だか最近経営が厳しい。創業以来厳しかったので「痛みに耐える」どころか「痛みに慣れる」状況でピンとこなかっただけで明らかに厳しくなっている。理由は簡単で本が売れないからだ。
出版市場は今や2兆円とみなしてよさそうだ。数年前までは3兆円市場だった気がする。ジリジリジリジリジリジリジリジリ下がり続けて3分の2ぐらいに縮小したらしい。
現在、書籍の返品率は平均4割である。上限が4割ではなく平均だ。市場は上位15~20社が売り上げの8割以上を占める。そうした大版元には小社より優秀な編集者や営業マンがいるに違いない。彼ら彼女が力を振り絞っても平均4割なのだ。
これを具体的に計算してみよう。256ページ上製四六判という平均的な書籍をイメージする。定価は1500円(税抜き)と強気にしてみよう。この値段は内容以前に買ってもらえるかどうかの瀬戸際である。もしかしたら、否きっとそれよりも高いかもしれない。
初刷りは3000部とする。これも案外と強気である。今では初刷り三桁も珍しくないのだから。
すると返品4割として全部を新刊委託すると

1500円×3000部×0.6=270000円

となる。
ところで書籍の多くは委託販売だから全額が出版社に入ってくるわけではない。最近の出版社の場合は3分の2が取り分の平均だ。また多くは新刊委託時に部戻しというのがかかる。これが平均5%。したがって3分の2=67%-5%=62%が出版社の取り分とみなしてよかろう

270000円×0.62=1674000円

ここから諸経費を引いていく。印刷、製本、搬入はどんなに頑張っても100万円ぐらいはかかる。本文レイアウトは社内のDTPでまかなうとしてカバーデザインと装丁ぐらいはプロのデザイナーに頼みたい。プロ校正もないと不安で仕方ないから頼む。デザインと校正を合わせてまあ30万円ぐらいはかかるだろう。この辺を低めに見積もって115万円としたら

1674000円-1150000円=524000円

だ。
忘れてはいけないのが著作権使用料(印税)である。本来は忘れちゃいけないどころの騒ぎではない。義務である。最近では実売部数(かつては刷り部数が主流だった)でお願いする会社が多い。また以前は10%が当たり前だったのを今や5%も珍しくない。さすがに実売の5%は気が引けるけど無理にお願いしちゃったとしよう。

270000円×0.05=135000円

ひどい。ひどすぎる低額だ。でもそれが出ていくとなると

524000円-135000円=389000円

さて。新刊委託をするに際して取次様の窓口へ持っていって言った数だけ卸してくれるかといえば大間違いだ。実際には委託注文分の2倍から3倍ぐらいでお願いする。3倍となるともう拝み倒す世界である。ということは1000部は注文を取ってこないといけない。そのために書店へのファクス送信や個店回りなどをしないと前提の「委託3000部」が達成できない。そうしたファクスサービスに10万円はかかる。それとは別に書店回りをしたとしよう。合わせて20万円ぐらいはかかる。通信費や交通費はどうしようもないので。

389000円-200000円=189000円

さてお立ち会い。ここまでの計算に社内編集者の報酬はいっさい含まれていない。営業の人件費もだ。またコピー出力代や筆者との電話打合せ代などもない。編集者は少なくとも企画を立て、数度の話し合いを重ね、プロ校以外の校正をし、さまざまな依頼を掛け、もちろん何度も読み直して構成をし直し、DTPを操り(つまりかつてのデザイナーと写植屋さんの仕事を代行し)外注さんや取次様へ出向くなどする。要するに働いている。これが1冊189000円で収まるかというと絶対に無理である。ゆえに赤字となる。
前述のようにこの数字は強気の部数と値段を前提に、出費を考え得る最低限で想定している。つまり楽観的な想定なのだ。実態はおおむねそれより悪くなる。
どうしたらいいのだろうか。廃業すべき? その通り。それが一番楽になる方法だけれども他に能があるわけでもなし。

そこで皆様。もはや本を買ってくれとは頼まない。小社の本だけを買って下さい。オチなし。ウツあり。カネもなければ死にたくもなし。林子平。(編集長)

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2008年7月22日 (火)

元乙女のゲーム日記~スクエニ祭

 ペルソナ4はまだクリアしてませんが、3よりもおもしろいので好きです。
 現在は、和菓子攻略をあきらめドラクエ5を攻略中。スーファミは途中までやっていたらデータが消え投げた。あの「デンデンデンデン……」の呪いのテーマを聞くたびガクブルしていたが、プレステ2に移植されてデータが消えることがなくなりストレスフリーで攻略したのはつい3年ほど前のことだったか。
 日本、ンガポール、香港と海を渡りちょこちょこ遊んでクリアしたときは泣いたね。あまりの主人公の可哀想さに。
 これまでのドラクエシリーズは、主人公が勇者というのがデフォルト。16才になったら勇者とか、どっかの国の王子だけど勇者とかね。でも、5の主人公は勇者じゃないんだよ。父も勇者じゃなければ息子も勇者じゃない。さらに子供が勇者なんだよ。そりゃあ一生懸命探したって勇者なんて出てきやしないよ。天空人の血を継ぐ子と結婚しなきゃできないって、それなんて種馬?
 父ちゃん殺されるわ、10年奴隷人生だわ、故郷の村が滅ぼされるわ、あげくの果てに自分が勇者ではないなんて鬼畜すぎる。どっかの国の王になった途端に石像にされるしね。踏んだり蹴ったりだよ。
 たぶんこの主人公の幸せの絶頂って、結婚とその後の1年間の新婚生活だけじゃね? 子供が産まれた後すぐに石像だし。なんて悲惨。
 だからこそなのか、嫁との結婚が妙に華々しく思える。主人公がゲーム中に結婚するのって珍しい。サブタイトル「天空の花嫁」だし、子供が勇者だから当然ちゃあ当然だが、暗ーいストーリーの唯一の華。
 DS版では、新しい嫁候補にデボラが登場。ツンデレの嫁らしい。幼なじみ属性ではないが、ビアンカを嫁に選ぶのが私のジャスティス……なんだけども今回はデボラを選ぶ。呪文ショボいけど、妹のフローラのが使い勝手いいけど、装備にお金かかりそうだけどデボラを選んでみる。子作り描写が気になるもんでね。ウヒヒ。
 それにしても、天空シリーズ3部作リメイクの第2弾として5が出たわけだが、いい加減止めてほしい。すでにリメイクしているじゃないですか。私の大好きな6なんてリリースしてもう10年以上たっているのに一度もなし。早く出してください。
 ところで、スクエニに関連して、最新作「ナナシノゲエム」をやってみた。あまりの操作性の悪さにビックリした。基本的に縦持ちで操作するのだが、ゲエムやメールは横持ちになる。それはそれで構わない。さすがに萎えたのが、走る時にカーソルキーを押しながらタッチペンで画面をタッチしたままにしなければ走れない。走って逃げなければならないときに走りにくい。
 さらに方向転換も画面タッチ。ちょっと手元が狂うとカメラが変な方向を向いてしまい、ワケがわからなくなる。3Dなものだから軽く酔える。あまり親切な設計ではない。その操作性の悪さが恐怖を煽るのかもしれないが、3Dで酔ってしまっては意味がない。スクエニだからこそできるゲエム画面(どう見てもドラクエですあr(ry)と、珍しいホラータイトルに期待していただけにガッカリ度が高い。3日目くらいでやめてしまった。怖くてやめた……となれば、制作者側も「怖がらせられてやった」となるだろうし、こちらも「くそっ、やられた。マジコエー!」となって嬉しいものだが、操作性の悪さでやめるのは不本意だ。やればいいんだけど、どうしても萎えてしまって先に進めない。他のホラーゲームでもやろうかな。(奥津)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月21日 (月)

ロボトミー殺人事件の現場を歩く(2)

 桜庭のロボトミー手術が行われたのは1964年11月2日、逮捕されてから8ヵ月が過ぎていた。仮退院できたのは、それからさらに4ヵ月後の65年3月3日だった。この仮退院に際して藤井医師は手術の承諾書へのサインを要求したという。肝臓検査と偽って強行した手術の体裁を整えるためだ。医師の判断ひとつで監禁が続く環境で患者が逆らえるはずもなかった。

 ロボトミー手術が考案されたのは1935年である。それから約30年後に桜庭は手術を受けたわけだが、すでにロボトミー手術の限界は医師の書いた論文からも伺い知れる状況にはあった。まず「矯正」後の人格が人間味を欠き、さらに後遺症として失語症や尿失禁、てんかんなどに見舞われるケースがほとんどだったからだ。
 例えば広瀬貞雄医師が51年書いた『ロボトミー―主としてその適応に就て』(綜合医学新書)には、次のような記述がある。
「ロボトミーは、かかる症状を起し易い人の最も特徴的な性格――見方によっては相当価値のある性格傾向――を減殺することになるから、慎重にその発病の動機や環境を検討し、出来る限り精神療法的指導を怠ってはならない」
 あるいはこうも書いている。
「要するに、病苦が長年に亘り、素質的の要素が相当大きいと思われる場合に限り、最後の手段として行うべきものであると思う」
 つまり滅多やたらに手術するなということだ。ライターとして高い評価を受けている桜庭に手術をするなどは、とても「最後の手段」とは考えられない。
 特に広瀬氏が問題にしていたのは、手術によって出現する別人格だった。
「将来に対する顧慮が少なく、その日その日に興せられた仕事を忠実にするが、自ら進んで先々の計画を綿密に立てたりすることも少なく、行き当たりばったりである。自己を反省することが少なく、困った事態に直面しても、心底から深刻に考えたり、悩んだりしない」
「患者はしばしば雄念が湧いて来ない。よく眠り、夢を見ない、取越苦労もしなくなったと云い、他愛なくよく笑うが、当人は以前のような喜怒哀楽の情が湧いて来ないとしばしば訴える。一般に外からの刺戟を素直に許容し、周囲の環境から孤立するようなことはない、平日すぎる日常生活。他人と受動的に円滑に接触する。しかし何となく深みがなく、情熱に欠けている」
 一言で言えば、周りにだけ都合のよい人間になったということだ。しかも彼の統計によれば、精神障害の患者137人に手術して64人が「作業不能」だったという。「作業可能」も日常生活が送れるように人はまれという結果だったから、かなり悲惨な治療だったといえる。
 桜庭に施された手術は、この本に書かれた方法より進化したものともいわれていたが、ロボトミー手術としての問題はそのまま残していた。実際、桜庭もてんかん発作に悩まされ続け、美しい風景を見ても感動できなくなり、執筆も進まなくなった。結局、術後しばらくたってライターを廃業した。感動できる心も、向上心も、計画性も奪われたら作品を生み出せなくなって当然だろう。クリエイターの彼から手術が職を奪うことなど、素人でさえ想像がついたはずだ。
 実際、手術による連載休止が解けた『月刊プロレス&ボクシング』65年2月号に掲載した作品「世界タイトル取れぬ黒人レスラーのなげき」は、以前のようなキレがない。膨大な資料をうまくまとめているが、盛り上げどころに欠けている。文章力と構成力で一流への階段を登り始めていた桜庭は、自身の原稿の変化を痛感したに違いない。あるいは痛感することすらできなくなっていたのかもしれないが……。
 
 家族を殺された藤井医師は、どうして彼の意向を無視してまで強引に手術したのだろうか?
 可能性の1つとしてはあるのは、精神病質者に対するチングレクトミーの研究が彼の博士号のテーマだったことだ。つまり桜庭と同じ症例である。「精神病質者」とレッテルを貼られた者が入院しており、生かすも殺すも自分次第となれば、とにかく手術して研究を進めたいと考えても不思議はない。精神障害者への外科手術を進めようとしていた彼の母校である慶應大学医学部の医局の圧力もあったかもしれない。チングレクトミーが厚生省に正式に認められたからわずか7年。関係者にとっては、さらに発展が期待できる手術でもあったろう。
 あるいは本人の意思を無視することが、本人の幸福につながると考えたのかもしれない。そもそも「精神病質者」とは、生まれつきの性格異常で、当人や社会がその異常性に悩む人物を指すという曖昧なものである。桜庭で考えるなら、重なった前科が社会を悩ませたということになるだろうか。このような「異常」を取り去るのが自分の仕事だと考えたのなら、藤井氏は桜庭のライターとしての評価など考えもしなかっただろう。
 ただ、それはすでに治療行為ではない。善悪の審判と人格の改造を同時に司る「神の所業」だった。

 藤井医師と近所付き合いをしていたという82歳の男性は、自分の持つ駐車場のアスファルトを補修しながら語った。
「藤井さんは穏やかな方だったよ。挨拶はよくしていたし。でも、なかなか本性は表さなかったな。威張った感じはないけど距離があるっていうのかね」
 エリート医師のそつのないつきあいと考えればいいのかもしれない。しかし、その行動は、広瀬氏が本で指摘した「他人と受動的に円滑に接触する。しかし何となく深みがなく、情熱に欠けている」というロボトミー後の人格と被る。
 藤井医師は桜庭の異常人格を手術で取り除いたはすだった。たしかに、その一部は「成功」した。感情が平坦になり桜庭が嘆いていたことは事実なのだから。しかしタイの夕焼けに感動できない自分に傷ついた桜庭が選択したのは、結局、殺人だった。皮肉なことに、彼の犯罪は藤井医師にロボトミー手術の効果のなさを見せつけたことになる。
 藤井氏は事件後の新聞取材に「脳の切開手術をした記憶はあるが、当時のカルテが残っておらず、どのような内容の手術だったか記憶してないが、いわゆるロボトミー手術とは違う」(『毎日新聞』79年8月29日)と語っている。そんな劣悪ではなない、もっと進化した手術だったと伝えたかったのかもしれないが、その言葉は殺人事件という重大犯罪の前に虚しく響く。

 事件後、藤井氏は血の海となった自宅に2~3年住み続けたという。先述の近隣住民は言う。
「やっぱり精神科医だと思ったよ。ほら、体をノコギリで切ったりして慣れているから住めるんだよね。普通できないでしょ」
 その行為が近所から気味悪がられていたことを、藤井氏は知っていただろうか? 大きなショックを受けて動けなかっただけかもしれないが、そんな「不気味さ」を異常とするなら「矯正」の必要性だって説くことはできそうだ。
 すでに事件のあった自宅は取り壊され、藤井氏の親戚が経営している病院の駐車場となっている。近隣のほとんどが畑だったという事件当時を知る者はほとんどいない。(大畑)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年7月20日 (日)

日曜ミニコミ誌! 超左翼マガジン「ロスジェネ」イベントに行ってみた

 去る(かなり去る)7月5日、ジュンク堂書店池袋本店にて行われた「われわれサヨクの存在証明-国家権力に抗うプレカリ×アート-」というイベントに行ってきた。現代の若者の労働問題を扱う雑誌「ロスジェネ」編集委員のトークセッションで、パネラーは編集長の浅尾大輔氏、編集委員の大澤信亮氏、増山麗奈氏、津田塾大学准教授の萱野稔人氏。事の発端は筆者の軽はずみ。書店の風格第8回「模索舎で「ロスジェネ」を買う」という記事で「該当世代には高いんじゃないのか?」と発言したところ、増山氏から丁寧なコメントが返ってきた。しかも「反省してます」とまで書かれており、大変恐縮した。増山氏をおいてどの雑誌の編集委員が、たかが小出版社のしかも営業担当者が書いた不用意な呟きに、このように真摯な形で誠実に接してくれるであろうか。あわせてこちらはもっともっとあり得ない形の雑誌(16ページ480円)を出しているというのに・・・。
 こちらも真摯な態度を示すためには本誌を持って謝りに行くしかない!! そして正直、いつも増山氏が身にまとっている桃色の衣装も見たいぞ! といういささか不純な動機で、ジュンク堂へと向かった。

 トークセッションでは画家でもある増山氏が、ピンクのノースリーブシャツにチュチュ(?)、赤の編み上げブーツという超刺激的な格好でいらっしゃった。トークセッションは一人ずつ、どのような経緯で活動をするようになったのか、幼少期の傾向から順を追ってお話しして下さるという濃い内容となった。のち、環境、そして「左翼」とは何かという話になり、それぞれの意見を聞くことができた。

 大変印象的だったのは、会場に男性が多かったこと。7割がたが男性で、女性がいても男性と連れ立って、というパターンが目立ち、ひとり者の奥山は仕事の関係で来たとはいえちょっとすさんだ気持ちになった。しかし自分のことなどはどうでもいい。自らの意志で来た女性はかなり少ない、ということにならないか。数えてみたところそれらしき人は3人。40分の3とは少ない。世代で区切った問題なのだから、感覚は男女共有であろうに。せっぱ詰まっているのは男だけなのだろうか? 女性は結婚や実家に行ってしまうのか、はたまた不遇を自己責任と感じてキャリアアップに切磋琢磨しているのか、他に興味の向くことが多いのか・・・うーん、謎は深まる。

 そのあと増山さんにお詫び申し上げて、件の不穏な雑誌を渡したら「男の人だと思ってました」と言われてしまった。確かに(文章が)男らしいとよく言われる。

 トークセッション後は、図々しくも座談会にまで参加させていただいた。残った20人の聴衆は、下は17歳から上は40代まで。参加動機はけっこう熱い思いがあってのことかと思いきや、「ジュンク堂に寄ったらたまたま(広告を)見かけて、面白そうと思って」という男性もいて、思想系のイベントにしては風通しの良さを感じた。自らも身を置いている若い世代に寄り添おうという編集委員らの努力のたまものだろう。

 最後に私的妄想だが、「ロスジェネ」という雑誌名の付け方はうまいと思う。まず、見た目が可愛い。そしてかの大手新聞社が命名したネガティブな渾名を遭えて使うというのが、勇ましいではないか。違法コピーに挑戦するipod的な姿勢に似たものがある。
 と、神保町の「Neolive」で散髪して貰いながらウロウロ考えてみた。(奥山)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月19日 (土)

書店の風格/第14回 リブロ東池袋店

 池袋でリブロといえば、西武百貨店内、駅から長く長く続く通路を潜り抜けてやっと辿り着く児童書豊富な書籍館を思い浮かべる人が大半だろう。若いオサレ人なら、パルコ内7階にあるコミックや特撮モノが豊富な本屋をあげるかもしれない。そして東池袋駅に近い立地、「本 コーヒー」と看板に掲げているカフェ付きのパルコを思い浮かべる人は・・・かなりの通か、もしくは腐女子の聖地「乙女ロード」ユーザーだろう。

 池袋駅からサンシャイン通りを歩き、高架の下を潜り抜けると青い看板と広い間口が目立つ本屋さんがある。ガラス張りのカフェテラスが優雅な雰囲気だ。サンシャインに行く前に、乙女ロードを歩いた後に、ひとまず立ち寄ってほっと一息つきたくなる憩いの場。しかし中をじっくり見ると、うーんと思わず唸ってしまう見事な棚構成がなされている。客層をバッチリつかんだ、何度でも来たくなる店の一つだ。

 まずは構成ジャンル。60坪程度のお店の中はほぼ真ん中で二つに分かれる。入り口から見て左側手前が雑誌、奥が文庫・新書。壁際に実用書や専門書が並んでいる。右側はレジ前に話題書が積まれている以外、全てがコミックだ。しかも品揃えの豊富さは、ただただ凄いとしか言いようがない。大手出版社のコミックが揃っているのはもちろんのことだが、入口にほど近いところに組まれた面陳台はまさに「ショーケース」。現在、徐々に注目されつつある新進気鋭の作家の作品と、雰囲気や作品のテーマがそれに似ているレトロな作品とが混在し、一定のイメージを持った空間が出来上がっている。編集という言葉がこういう場にも使われるのだとしたら、棚の作り手は天才的な「空間編集者」といえよう。そこには明らかに、コミックへの愛が感じられる。

 さらに面陳台の裏に回ると、そこにはフェアが展開されていた。夏の「恐怖コミックフェア」。そして面陳・平台ともに、膨大な数の手書きPOP、見本、コピー見本がコミックの上に載っている。ヴィレッジヴァンガードかタワーレコードに来たときのような感覚が脳を満たし、好奇心をかき立てる。POPに書いてある内容の濃いこと、読まないと絶対にこんなふうには書けないはずだ。ということは書き手は無数のコミックを読んでいるはずで・・・一体、どんな人なんだ?!

 そう思って営業というよりはミーハー心で伺ってみたが、担当の方はお休みとのこと。残念。ここの方の気に入られるような本を出したいと、切に願いながら乙女ロードに抜けてみた。(奥山)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月18日 (金)

『吉原 泡の園』第70回/慶応ボーイが吉原ボーイになったワケ

 焼肉屋Tで行われた歓迎食事会の席で酒の勢いを借り、どうして一流大学を卒業したI君が吉原ソープに来たのかたずねた。たずねたはいいが、どんな答えが飛び出すか不安で身構えた。
 酒を飲んでも暗いオーラを身にまとう彼が、ぼそりと話し始める。
「大学を出て、大手アミューズメントパークを運営している会社に就職したんです。もちろん、その会社に骨を埋めるつもりでいましたよ」
 さすがは一流大学卒だと思った。その会社は日本人なら老若男女知らない人は少ない超有名企業だ。僕など足元にも及ばない。

「僕には親友と呼べる奴がただ1人いました。もちろん親友というからには信頼もしていたんです」
 いいな~、友達か。僕には友達などもういない。すべて無くしたのだ。自分の傲慢さ、好き勝手な生き方で。
「ある日、親友だったそいつが、僕に相談を持ちかけてきたんです。『借金の保証人』になってくれって」

 借金!
 つい最近、僕も自己破産という人生における「裏技」を使って負債をリセットした。借金をした理由は違うにせよ、借金の苦しみは一緒だ。ようは金の問題だ。ダメダメ人間の僕であろうが、元慶応ボーイであろうが、どうやら借金苦に陥った人間の思考回路はどこかで繋がるらしい。それは「楽に稼げて、金を返せる仕事を」という1点に尽きる。
「で、返しているの?」
 人の問題に首を突っ込むのもどうかと思ったが、ここで話を打ち切ることもできなかった。
「いえ、闇金から借りていまして、利息も返せない状態です。とても無理でして今は滞っているんです。ですから吉原に来ました」
「大変ですね」
 残っていたビールを一気に口に流した。アルコールはあまり飲めないのだが、酒を煽るしかやり過ごす方法がなかった。
「実家が横浜なんですよ、でも実家にまで嫌がらせがきて、ついには職場にまで……。骨を埋めるつもりだった会社からは、『辞めてもらえないか?』と言われまして。まあ体のいいクビですね」
 I君は話し終わるとグラスに口をつけた。
 きまじめそうな眼差しが、分厚い眼鏡レンズの下から伺える。きっと、まじめに生きてきたのだろう。それでも人生が狂ってしまい、吉原に逃げてきたのだ。

 実は、僕の親も保証人問題で苦しんでいた。身近な人や世話になった人から頼まれると、なかなか断れないらしい。そんな事態が、いつ誰に降りかかるか分からない。友達や金。たったそれだけの問題が一流大学の優秀な人間を簡単に狂わせる。天国と地獄、それはほんの少しのボタンの掛け違いでしかない。
 改めて吉原ソープで働く男の裏事情に、借金問題が多いことを感じた。

 金の問題で離婚し、犯罪を犯し、逃げ回る。その末に吉原でのし上がる野望を抱いた者の一握りが金の亡者となり、女の体を利用し、弱い立場のボーイをこき使い、鼻息荒く金だけを追い求める。すべては金のためだ。
 ボーイ達は金持ちになろうとしぶとく生き抜いていく。「金がなけりゃ稼げばいい。それが男の人生だ」と、彼らの背中が語っていた。
 地獄の底をはい回る野郎どもを見ていると、そう思えてくるのだった。(イッセイ遊児)

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年7月17日 (木)

ホテルニュージャパン火災後の廃墟・第18回 汚れた枕の山

Photo 無造作に積み上げられた枕は、ところどころ黒く汚れていた。当時、感じたのはジトッとした湿気とカビ臭さだった。ただ改めて写真を見ると、ネズミなどの糞尿で汚れたものもあったように思う。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2008年7月16日 (水)

竹島問題はアメリカが何とか言え

竹島(独島)問題がまた大騒ぎになりつつある。日本人と韓国人。反韓日本人と反日韓国人は満を持して100万の言葉で互いをののしり合うけれど他国にいけば一緒くたなのは旅行するだけでわかる。ついでに言えばどちらも「チャイニーズ?」と聞かれる運命。本来お隣同士だから仲良くすればいいのだ。それが日比谷公園程度の広さの岩(島?)でいがみ合うのはバカげている。
とはいえ領土問題なのだから双方とも簡単に譲るわけにもいくまい。国家は国土と国民あってこそ。だから領土の確定が死ぬほど大事という概念はわかるので。

古文書などの世界を除けば竹島(独島)がどちらのものかとの争いは次の2点であろう。

【その1】
1904年8月 第一次日韓協約調印
1905年1月 日本が閣議で竹島を「本邦所属」と決定
1905年11月 第二次日韓協約調印。大韓帝国(韓国)は外交権を失う

要するに1905年11月以降は韓国に外交権はない。しかし日本が竹島領有を公にしたのは約10ヶ月前だから「私の領土だ」と韓国が思えばいえたはずである。
しかしすでに第一次日韓協約で韓国の外交権はかなり制約されていた。その条文は「韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ、外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ」である。
では韓国が「総テ其意見ヲ詢」わなければならなかった「外交顧問」の「外国人」とは誰かというとアメリカ駐在日本公使館のスチーブンス顧問。アメリカが日本の韓国に対する「優越的支配を承認」したのは05年の桂・タフト協定だから、04年段階で日本はアメリカ(およびイギリス)の顔色をうかがったというのが定説だ。
このスチーブンスさんが一説には初代統監伊藤博文すら戸惑うほどの「親日」であり、竹島がどうこうと韓国側に立って抗議するような人物でなかったのは明らかだ。なお彼は後に韓国人によって殺害されている。

【その2】
1945年9月 降伏文書に調印して連合国軍による占領統治始まる
1946年1月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の覚書で竹島は「日本の範囲から除かれる地域」であるとされる。と同時に連合国の「最終的決定」ではないともある
1950年6月 朝鮮戦争勃発
   11月 朝鮮戦争に中国人民義勇軍(実態はほぼ人民解放軍)参戦。盛り返しつつあった連合軍(実態はほぼ米軍)が押し返される
1951年6月以降 戦線膠着
   9月 サンフランシスコ講和条約調印
1952年1月 李承晩ラインの設定に伴い今日的な意味での竹島問題浮上
   4月 サンフランシスコ講和条約発効。日本が独立を回復

今度は【その1】とは逆に日本が外交権を持たない間に李承晩大韓民国(韓国)大統領が先手を打った格好である。通称GHQ覚書は二つの側面を持つ。一つは日本の間接統治を事実上決定する法規の面。もう一つは最高機関である極東委員会の決定とまではいえない面。GHQは組織上極東委員会の下部にある。
前者の面から日本の竹島領有権は事実上「日本の範囲から除かれ」た。そしてサ条約が発効するまでついにこの覚書が別の覚書によって覆されはしなかった。

ではサ条約自体はどうか。韓国は招待されなかったので絶対とはいえないものの、それでもここに何らかの言及があれば後々の根拠ぐらいはなったはずだ。しかし何も書かれていない。忘れちゃったというテンションではなく故意に触れなかったとみるのがどうやら有力である。
触れたくない理由は明白で朝鮮戦争でアメリカは李承晩とともに戦っていたから彼が嫌がる記載は避けたかった。と同時にサ条約自体がアメリカが朝鮮戦争を体験して日本を占領下に置くより独立させた方が有利とみてのものだから日本側が難色を示す決定もできなかったのであろう。
今日からみればサ条約より前に戦線は膠着していたとなるが当時はどう転ぶかわからない緊迫感に包まれていたわけでアメリカとしては「触れない」というのが一番の安全策だったと推察される。

そのすき間を縫ったのが李ラインである。私自身は李ライン自体を不当と思っている。さりながら李承晩の政治的カンはある意味天晴れだとも思う。このタイミングでしか打てないばくちだった。

さて連合国軍最高司令官総司令部といっても実質はマッカーサー(=アメリカ)総司令部である。そこが覚書を出して否定する覚書を出さなかった。サ条約がアメリカ主導だったのは明白だ。

というわけで【その1】【その2】ともにアメリカが何らかの関与をしていたといえる。とくに【その2】はダブルトークをした……じゃないか。ダブルトークと思わせないよう隠したのか。結構な責任があるのではないか。何か発言しても罰は当たらないよね。

ところで。近々アメリカ在韓国大使に就任するのはキャサリン・スチーブンスさん。反米感情高まる韓国で「スチーブンス」で大丈夫か。なんて。(編集長)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

«ゲーム廃人にっき:ペルソナ4