2009年7月13日 (月)

●ホームレス自らを語る 第33回 気後れする性格が災いして/磯部さん(仮名・42歳)

0907  子どもの頃からおとなしくて、気後れする性格で、人前に出たり、人とうまくやっていくことが苦手なんです。よくイジメに遭って、暴力を振るわれたりもしました。ですから、学校が嫌いでね。小学生の頃から、義務教育の中学校を終えたら、高校には進まないで働こうと決めていました。

 それで中学校を卒業して働くようになりました。といっても、オヤジが工務店を経営していたんで、そこに入って手伝うようになっただけですけどね。その工務店には常雇いの社員が4人いましたから、その町では大きいほうだったと思います。仕事はやはり公共工事が中心でした。

 私が生まれたのは昭和41(1966)年、静岡県のF市です。兄弟は男ばかりの3人兄弟で、私が末っ子でした。学校ではイジメられっ子でしたが、オヤジが工務店を経営していたから、生活は裕福なほうでした。夏休みと冬休みは家族旅行に行くのが恒例で、両親と私たち兄弟の家族5人で、北海道や沖縄に行きました。

 ところが、私が17歳のとき、オヤジの会社が倒産してしまいます。オヤジが運転資金用にマチキン(町金融)から借金をしていて、それが返せなくなったからです。相手がマチキンですから、何をされるかわからないというんで、家族5人でこっそり夜逃げをしてきました。ほんとうに深夜に5人で逃げ出してきたんです。

 逃げた先は東京です。それで小さな家を借りて家族で住んで、オヤジ以下、子どもたち3人で、それぞれ働きに出ました。私はコンクリート打設用のポンプ車を、建築や土木の現場に貸し出す会社で働きました。こういう会社は我々も現場まで行って、打設用パイプの組み立てや、作業終了後の撤去作業をします。パイプは鉄製ですから重くてね。とくに、コンクリート打設後のパイプは、中にコンクリートが詰まっていて、さらに重くなっています。それを急いで担ぎ上げて垂直に立てて、コンクリートが固まる前に流し出さないといけないんです。それが重労働で大変でしたね。

 私がその会社で働くようになって3年目に、会社が不渡りを出して倒産してしまいます。あと少しでバブル経済に突入するという直前の倒産で、運のない話です。

 それからの私は上野の手配師から仕事をもらって、働くようになりました。ようするに日雇いの作業員ですね。建物の解体や土工の仕事が多かったです。

 その頃、2人の兄は家を出て独立し、私だけが両親といっしょに住んでいました。その両親が毎日のようにケンカをするようになって、そのとばっちりが私にもくるんで、たまらなくなって私も家を出ました。当時、東京都の日雇い作業者用の寮というのがあって、そこに入れました。1日2食の賄い付きで、無料という好条件でした。

 それで日雇い作業で稼いだ金は、両親の生活費に全額を渡しました。兄たちは面倒をみようとしないし、無収入の両親を放っておくわけにもいきませんからね。多い月で20万円を超えることもありましたが、平均すると月18万円くらいは渡せたんじゃないでしょうか。

 結婚はしませんでした。この性格ですから、女の人といっしょに暮らすなんて気詰まりで、考えただけでも息苦しくなりますからね。わりと早い時期から、結婚はしないと決めていました。

 あれは私が22か、23歳のときでした。ある晩、突然、激しい腹痛に襲われましてね。七転八倒するような痛みで、救急車で病院に運び込まれました。病名は急性胃炎。原因はストレスでした。寮での集団生活、稼いだ金の全額を両親に渡してしまうことがストレスになっていたようです。

 病院には2ヵ月間入っていました。退院してから、また日雇い作業に復帰しました。こんどは稼いだ金は両親に渡さないで、自分で貯金して管理をするようにしました。寮も出て、ドヤ(簡易宿泊所)を利用するようになりました。

 ところが、それから2年もしないで、バブル(経済)が弾けてしまいました。途端に、日雇いの働き口も少なくなり、みんなで争って奪い合うようになりました。私はそういう争いは苦手ですから、手配師のところには行かないようになったんです。

 そうすると、ドヤに泊まるカネもないですから、自然にホームレスになっていました。昼間はこの浜町公園(中央区)に来て、ボンヤリと景色を見たりしてしています。夜は近くの地下道に段ボールで小さな小屋をつくって寝ています。こんな生活がもう10年以上続いていますね。

 食べるものですか? この先にあるコンビニが賞味期限切れの食品を、ビニール袋に入れて出してくれるんで、それをもらってきて食べています。ただ、難点は毎日出るとは決まっていなくて、もらえない日もあるんです。まあ、贅沢はいえませんが。

 こうなったのも、私の気後れして人前に出たり、人と争そうことのできない性格に原因があったと思います。ただ、私もまだ42歳ですから、このままでいいとは思っていません。早く何とかしないといけないと考えているんです。

 といっても、この不況で仕事はないし、うっかり手配師の口車にのせらると、タコ部屋(暴力飯場)に送られたりしますからね。最近の手配師には信用できないのが多いんです。ここから脱出するにはどうすればいいのか、その方法がわからないんですよ。(神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

ホームレス自らを語る 第32回 父親がヤクザの組長だった/三上裕志さん(仮名・45歳)

 生まれは青森県の弘前です。うちのオヤジはヤクザの組長をしていました。構成員20人ほどの、弘前では中堅クラスの組でした。
 オレは3人兄弟の長男で、下の2人が女でしたから、組の跡目を継ぐのは当然のようにして育てられました。小さいころは、オレ自身でもそう思っていましたね。
 子どもの目から見たオヤジは、文句なしにカッコよかったです。自宅が組事務所も兼ねていましたから、若い衆が幾人も住み込んでいて、家では下にも置かれないし、街を歩けば若い衆を従えて肩で風を切りで、ホントにカッコよかったです。
 ただ、オヤジとかヤクザを憧れの目で見ていたのも、小学校の低学年まででしたね。高学年になると、オレの周りに友だちが寄り付かなくなりました。たぶん、その親たちがヤクザの子と遊ぶのを嫌って、遊ばせなかったからだろうと思います。
 それに敵対する組との抗争が激しくなって、相手の組から殴り込みをかけられるということが幾度かありました。そんなときの闘いぶりは、ヤクザ映画のようにカッコいいものではなくて、生と死を争って血みどろになる凄惨なものでした。
 そんなことが重なると、だんだんにヤクザというものに疑問を感じるようになって、組の跡目など継ぎたくなくなっていました。ヤクザを嫌いになっていたんです。
 それで小、中学校は地元の学校に通いましたが、高校は東京の立川にあった都立高校に進学しました。オヤジには猛反対されましたが、20歳までは違う世間を見せてくれということで説得しました。でも、オレの気持ちのなかでは、20歳になっても弘前に戻るつもりはありませんでしたけどね。

 立川の高校では、はじめのうち言葉の訛りをからかわれたりして、少し辛い思いをしました。でも、半年もすると打ち解けて、あとは愉しい高校生活でした。何しろ、ヤクザの子と後ろ指を指すのはいないし、親の束縛からも解放されて愉しい3年間でした。
 ところで、オレには許婚がいましてね。相手はオレのオヤジと兄弟分の関係にあった人の娘です。彼女とオレは同じ年に生まれ、そのときに親同士で将来2人を結婚させると約束したんです。オレたち2人も、そのつもりでいました。
 その彼女が中学生のときに、白血病を発病させます。当時は不治の病でした。医者からも助からないだろうと言われました。自分の周りで、そんなドラマのようなことが起こるなんて信じられずにショックでした。
 その後、オレは東京に出てしまいますが、夏休みや冬休みには必ず帰省して、彼女を見舞いました。でも、行くたびに痩せ衰えていくばかりで、そんな彼女を励まし勇気づけるのは辛かったですね。それでも彼女はいつかは元気になって退院し、オレと結婚すると信じていたようです。
 彼女が亡くなったのは17歳のときでした。弘前から危篤だという連絡が入り、生まれてはじめての飛行機に乗って帰りました。それで彼女の臨終に間に合いました。きれいな死に顔でしたね。(三上さんは両眼にいっぱいの涙を浮かべ、しばらく口を噤んだ)
 ……17歳で人生を終えてしまうなんて、彼女があまりにも可哀想でね。オレにとっても辛い話で、これまで人にはあまり話したことがなかったんです。話してみると、やっぱり悲しくて辛くなりますね。
 その後、オレは結婚しないで、ずっと独身でした。あんなかたちで許婚を失うと、どうしてもそれを引きずってしまうんですね。

 高校を卒業して、弘前には帰らずに、こっちで就職しました。川口(埼玉県)にあった工業用ガスメーカーの大手の工場に入社して、ガス製造の現場で働きました。ガスの製造ですから、1つ間違えると大爆発につながる非常に危険な職場でした。
 実際に爆発事故が起こったこともあります。オレたちが作業をしていた同じ工場建屋にあった無人の製造装置が爆発した事故で、装置から 300メートルくらい離れていたのに、耳をつんざくような轟音と、身体が持っていかれそうな爆風が吹き抜けましたからね。幸いケガ人はありませんでしたが、工場の屋根はふっ飛んで、周辺はメチャメチャでした。
 オレがその工場に就職して2年目。19歳のときに、オヤジが突然亡くなります。原因は心臓発作でした。
 それでオレの跡目相続の問題が持ち上がりました。だけど、オレにはもうヤクザの世界に戻る気持ちはありませんでしたからね。オレは固辞し続けました。それでも組頭がしょっちゅう上京してきては、組を継ぐように説得するんです。彼が諦めて断念するまでに3年もかかりましたよ。しつこいのはヤクザの身上ですけどね。3年目にして、何とかヤクザの世界と縁を切ることができました。

 そのうちにガス製造工場を辞めてしまいます。26歳くらいのときだったでしょうか。何となく工場勤めがイヤになったんですね。
 それからは日雇い労働、トビや土工の仕事をしています。仕事があって懐の暖かいときは、カプセル(ホテル)か、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まり、仕事にあぶれて懐の寂しいときは、適当に野宿でもする暮らしですね。といっても、これまでに野宿をしたのは数えるほどですけどね。
 いまはこんなホームレスですが、19歳のときにヤクザの世界に戻っていたら、どんな人生が待っていたんでしょうね。どちらが幸せな人生だったのかはわかりませんが……。(聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月11日 (土)

Brendaがゆく!/日本でのコミュニケーション

昔の私だったら、道ばたとかで会った人と会話とかはしなかった。

微妙にイライラしてることが多いので。

知らない人とはなすのとかもすごい苦手だし。

しかし、ヨーロッパの暮らしの中では、うぜーよぉ~ってほどに、まわりがベラベラ、ベラベラ、ベラベラ、ベラベラ、天気のこととか、社会への害のない不満などを話しかけてきたり、井戸端会議していたり。

アタクシ、合理主義的には、会話に参加したい訳ではなく、その土地の言語を研くためにこのような場合は、あえて英語ではなくその土地の言語で自分もいいたいことをニコニコと(ここ重要!)しゃべることにしている。こうすれば、無駄な会話などない。しゃべりかたを学べる。言語学的に、しゃべりかたというのはこのような実践でしかもちろん学べんのだ。しかもネイティブ達と、無料で、願っても叶ってもないと思えば、日本では迷惑と思えるような会話も楽しめると言う訳だ。

じゃ、日本ではどうか?
話す理由がないよな。

がしかし、生活の習慣とはとてもいい意味で身に付いている物だと感じた。

先日の記事の中で書いた内容からのつづきであるが、

雨のスーパーの軒先で、天気を嘆くおばさんがいれば自然にそれに同調して会話ができる。むしろそんなことが新鮮で楽しいとさえ思える。この土地の人と会話をしている自分が嬉しい。

どこかいったさきで、わからないことがあり戸惑ったことがあればその場にいる人にきくのが一番素直で早い解決策ではないか。そんなことを相手が優しく受け入れてくれれば自然と感謝と感動が生まれる。(寿司屋での話)

日本人特有の微妙にこもった感じでそれ(会話)をするのではなく、いつものヨーロッパ的な感覚で話せば人には受け入れられるのだと感じた。(超個人的な感覚で読者諸君には理解しがたいと思うが)

あたしは、調子込んでいると思われるのがいやだから、そういう外人的な物を隠しているというのも今まではあったし。

とにかく、振る舞い(行動様式)が日本では全然違うところがネックとなって。
躊躇している自分がたくさんあったわけだ。

しかし、いつもどおりに普通に話せば日本でもいい感じになりますよって話。
これは、道ばただけの話だがな。

Brendaさんのブログはこちら→http://ameblo.jp/brenda0/

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月10日 (金)

告知――鎌田慧×竹信三恵子 トークセッション――

 一貫して労働現場を歩きつづけてきたルポライター、鎌田慧さん。現代日本の悲惨な状況を、歴史的な考察をふくめて描き出した新著『いま、逆攻のとき』(大月書店)の刊行を記念して、トークセッションを開催いたします。
 ゲストにお招きするのは、今年「貧困ジャーナリズム大賞」を受賞し、近著『ルポ 雇用劣化不況』も話題の竹信三恵子さん(朝日新聞編集委員)です。長きにわたって労働現場から日本社会を見つめてきた2人のジャーナリストが、いま何が問題なのか、これからの働き方はどうあるべきなのか、豊富な取材経験をもとに語り合います。
 小泉改革が吹き荒れ、国民の熱狂の中で労働者の首を絞める法案が成立いるなかでも、その危険性を指摘し続けた2人のトークセッションは必見です。

◆トークセッション名◆
『いま、逆攻のとき-使い捨て社会を越える』刊行記念
鎌田 慧×竹信三恵子
  現代の日本で働くということ
 
   

◆日時◆
2009年7月23日(木)18:30~

◆会場◆
ジュンク堂書店新宿店、8階喫茶。

◆入場料◆
1,000円(1ドリンクつき)

◆受付◆
7Fカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店新宿店 TEL.03-5363-1300

◆講師紹介◆
鎌田 慧(かまた・さとし)
ルポライター。主な著書に、『自動車絶望工場』(講談社文庫、1983年)、『反骨のジャーナリスト』(岩波新書、2002年)、『痛憤の現場を歩く』(金曜日、2005年)、『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)、『橋の上の「殺意」』(平凡社、2009年)など。

竹信三恵子(たけのぶ・みえこ)
朝日新聞編集委員。主な著書に、『日本株式会社の女たち』(朝日新聞社、1994年)、『女の人生選び』(はまの出版、1999年)、『ワークシェアリングの実像』(岩波書店、2002年)、『ルポ 雇用劣化不況』(岩波新書、2009年)など。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 9日 (木)

靖国神社/第19回 激突★奉納プロレス(上)

 寒さをこらえながら見てきた夜桜能から2日後の4月7日。日本の伝統文化から一転して、血と汗がほとぼしる野郎たち(女子もあるので厳密ではないが)の祭典『大和神州ちから祭り』へ行ってきた。この日の観客は約4300人だったそうだが、私には2000人くらいに感じられた。奉納相撲と違ってチケット制だからずいぶんな収益になったのだろうといやしくも考えてしまった。
 さて、格闘技の中ではプロレスが一番好きな私だが、生で見たことはないし、どちらかというと女子プロのほうが好きなので、奉納プロレスが復活をしたことは知ってはいたものの後回しにしていた。
 格闘技というと、総合格闘技(PRIDEなど)、ボクシング、柔道、空手……と挙げていけばきりがないが、なぜプロレスが好きかというと、ヒールがいかにも悪役だというアピールをするところと、なんともいえない茶番ぽさが好きなのだ。茶番というとレスラーには申し訳ないが、弱点を痛めつけたあと大げさに痛がってみたり、カウントをとられ9……と言ったところで起きあがったり。なんというか一つひとつが大げさなところがおかしいから好きなのだ。
 私の個人的な理由はここまでにしておくとして、当日は、夜桜能での寒い体験を思い出し厚着をして出かけた。暖冬のはずが3月から寒くなり、4月はまだ寒い。ピザまんをほお張りながら九段坂をあがり、一目散に相撲場へ向かった。17時開始だったので間に合うように行ったのだが、なんか騒がしい。
 どういうことだろう……と思いながら会場へ入っていくと、緑のコスチュームに緑のかぶり物(どうみてもガチャピン)をした人と、寅さんのような格好をした人の闘いが行われていた。
「人」としたのは、パンフレットを見るまで彼らの名前がわからなかったからだ。とりあえずゴングが鳴るまで観戦。その後、急いでパンフレット(1000円)を購入。さっそく誰なのかを調べると、緑の人はGha-Cha-Pingというらしく、アイルランドの児童養護施設で育った19歳。プロレスラーとしてファイトマネーを稼いで自分の育った施設に寄付をすることが夢だそうだ。いい奴だ。
 対する寅さんは、車冬次郎。プロレス界にフラリと現れたフーテンレスラーだそうだ。得意技は帝釈天落とし、葛飾柴又固め。どんな技なのか全く想像がつかない。一体どんな技なんだと悶々としていると、火入れ式が始まる。オープニング前に太鼓演奏があり、現在放映中のNHK大河ドラマ『風林火山』でも演奏している葛飾諏訪太鼓が叩いていた。

 17時18分、奉納第一試合は、プロレスリングSUN(ファーストオンステージの女子部興行名)。高橋奈苗(得意技:ナナラッカ、シャイニングヒザアッパー)、Hikaru(ラナキラーH、タワーハッカーボム)対前村早紀(花マル・どっかん、さきトンネル)、夏樹☆たいよう(たいようちゃん☆ボム)の試合。この4人は、SUNのメンバーで仲間内で戦うという形式。私の好きな女子プロの試合が見れるなんてうれしさひとしおだったが、結果はHikaruのLanakila-H→エビ固めで勝利。12分でケリが付いてしまった。
 17時33分第二試合。浪口修、高西翔太対菊池毅、谷口周平(プロレスリング・ノア所属)。前者は、今回の奉納プロレスを主催しているZERO1-MAX(ファーストオンステージの興行名)所属。両者血まみれになりながらも、浪口にジャーマンスープレックスをかました菊池の勝利。これも13分でかたがついた。
 17時49分第三試合佐々木義人(ZERO1)、関本大介(大日本プロレス)対澤宗紀(バトラーツ)、門馬秀貴(和術慧舟会)。佐々木、関本両選手がリング角に立ち上がり、両手持ったベルトを持ち上げるパフォーマンスをするのだが、何か原始的で捕った獲物を持ち上げ喜んでいるようにも見え笑ってしまった。がしかし、遠目で見た佐々木選手の顔はかなり私の好みではあった。
 この試合も佐々木がラリアット→エビ固めを澤にくらわせ勝利。これも18分程度で終わってしまった。
 基本的に30分1本勝負なのだが、かなり早く終わる。疲れるからなのか、やはりダメージがあるからなのか。どちらもなんだろうが、手に汗握る五分五分の試合だと、特に早く決着がついてしまうように感じる。ヤジは飛ばさないが、血湧き肉躍る状態になったところで終わってしまう。「ようやくのってきたのに!」と思ったところで次の試合になるので、気を取り直すことはできるのだが、精神的によくない。(奥津裕美)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 7日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/当ってしまった人身事故

○月×日
 人身事故に当ってしまった。
 中央線はいつものことだから、私達乗務員にとっていつかは誰かに必ず当る。よって、私に当ったからといって何の不思議もないのだ。といってもね……。
 発生は6月28日の13時55分。天候は小雨。東京から中央特快高尾行きに乗務していた。通過駅である武蔵小金井に差し掛かると、突然オットットットと身体が前につんのめるような体勢になりながら、急停車した。
 「急停車して申し訳ございません。原因を調べます。少々お待ち下さい」と早速アナウンス。
 「まさかアレじゃないだろうな」と咄嗟に思った。と、やっぱりその通り、「まさかのアレ」であった。
 「さぁ困った。こりゃ大変だ。あぁ、嫌だヤダよ~」と少し焦ったが、こんな時こそ職責をこえて一致協力してやれば大丈夫なのだと、半ば開き直りなのである。といってもね……。
 運転士によると、40~50代の女性がホームから飛び込んだのだという。電車は先頭車両1両がホームからはみ出し、残りの9両がホームにかかっている状態で停止していた。乗車率は約40%、乗車人数は約700人であった。
 「お知らせいたします。只今、この電車で人身事故が発生いたしました。負傷者の救出のためにしばらく運転を見合わせます。詳しい状況は分かり次第お知らせいたします。お客様におかれましては、電車から外に出ないようにお願いいたします。どうぞこのままでお待ち下さい。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」と、今書けばこうなるが、私の場合は実際のところ「人身事故です。負傷者を救出します。止まります。すみません、すみません」ぐらいにしか放送はしていない。しかも、落ち着きを失っているからか、いつもより早口になり、お客さまには何をいっているのかさっぱり分からないというか、ただまくし立てているだけのような放送であったのだろう。
 東京方の後方を見ると東小金井を発車した後続の電車がすぐそこの駅間に止まっていた。運転士が発報した防護無線(併発事故防止のため、他列車を緊急停止させる無線)により、後続や隣接線等の列車は全て抑止されているのだ。
 そんなこんなで、知らせを受けた駅員3人が駆け付けてくれ、線路に降り、中腰になりながら車体下の負傷者を探すと、「いたぞ」と叫んだのは私の乗務員室からすぐ先の2両目の所だった。
 私はこの時、駅構内の事故でよかったと思った。駅間であれば、いずれ誰かが応援に来るにしても最初は運転士と2人きりなのだから。
 いずれにせよ、私も救助に行かなければならない。私は車両に搭載してある事故対応用のバッグをおもむろに取り出すと、防護服上下とマスク、ゴム手袋(いずれも細菌感染予防のため)を着用し、準備完了。
 すると、14時04分、指令から、同ホームの向かい側2番線の使用が可能のため、後続の列車から2番対応で運転を再開する旨の無線が入いる。従って、本電車のお客さま救済のため(長時間の缶詰状態を避けること)、ホームから外れている先頭車両のみを締切り扱い(ドアの開かない状態)にして、お客さまには後の車両へ移動してもらい、2番線に後続の電車が来る旨を案内して、残り9両のホーム側全ドアを開扉した。
 早くも、警察数人と消防隊員10人近くが到着。そして、私も現場へ直行。
 負傷者は、「大丈夫ですか~」と声を掛けるまでもない状態だった。更にいえば、男女の識別すら困難で、これが人間か、である。かわいそうに……。
 負傷者を安全な場所へ移動させるために車体下に潜るのはせいぜい3人位で十分。それはプロである救急隊にお任せすればいい。こんな所に10何人も必要なしと判断して、私は乗務員室に戻る。結局、私は殆ど何もしていない。見ているだけであった。
 14時25分、指令から再び無線連絡が入いる。本電車を回送にする通告だった。2番線には既に何本かの下り電車が来ているのに乗り換えないお客さま、また、車内は蒸し風呂状態で非常に暑いにもかかわらず(これは、車体下には1500ボルトもある機器類があり、救助の際に触れてしまうと死亡事故に至る危険性があるため、電車はパンタグラフを降ろし、停電状態にするので、空調もストップする)全く降りようとしないお客さま全員を降車させ、全ドアの閉扉。
 同33分、救助作業終了。
 同43分、最終的な安全確認がとれ、本電車の抑止解除。
 同49分、運転士と打ち合わせ、運転再開。現場54分延。
 あとは、警察による現場検証と駅員らによる遺留品の捜索、といっても、ズバリ、肉片などの後始末と消毒だが、発車した私が関知することではない。
 乗務を終え、事故報告書などを作成し終え、一息つくと、「それにしても」という感情が噴き出してくる。
 自殺した人への同情や憐れみなど微塵も湧いてこないのだった。それは何も知らない他人だからであろうか。ただただ気持ちが悪いだけである。人身事故は国鉄時代を含めるとこれで5度目だが、もう二度とごめんだ、見たくはない。と同時に、小さな怒りすら覚える。人に迷惑をかけて死ぬんじゃないよ、といいたい。世の中には生きたくても生きられない人も大勢いる。すぐに挫けないで頑張って生きてもらいたい。もっともっと年をとるまで生きろよ。誰だっていつかは死ぬんだから……。
 しかしながら、死体処理までする仕事というのは、私達の他にあるのだろうか。合掌。(斎藤典雄)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年7月 6日 (月)

書店の風格/第36回 八文字屋本店

 びっくりした。
 八文字屋本店のある山形県は、記者の故郷である。幼少の頃から、父の車で街まで(市街地に行くことを「街に出る」という)遊びに行くと、必ず寄っていた八文字屋。なぜか大きなゴリラのフーセン人形がにこやかに出迎えてくれる八文字屋。専用駐車場に車が殺到するので、いつも「大沼デパート」に車をとめて徒歩で向かっていた八文字屋…。こんなに近くにあったから、気づかなかった。あなたがこんなに老舗だったなんて。

 八文字屋の創業は元禄時代。なんと300年もの歴史を持つ。紅花商人が東京で「八文字屋本」と呼ばれる類の浮世草子を仕入れてきて貸本を行った、というのが発祥らしい。山形、という名がつかぬ頃から、地域の文化の発信地として頑張ってきた本屋さんだ。

 店内は一階と二階にわかれていて、入ると棚は入り口に対して縦置きのものが多く、吹き抜けになっている部分があるため実際よりもかなり広く感じる。まず雑誌と新刊文芸が並ぶ王道の配置だ。他店に比べてシンプルでアットホームなところがないのは、POPを全く置かないから。そっけないと見るか、目線がごちゃごちゃしないで正解と見るか。本読みなら断然後者だろう。奥へと進むと左側は新書から文庫へのグラデーション、右側は一般書から専門書へのグラデーションが美しい。無駄のない構成が店内をいっそう広く見せることに成功している。本当は東京の中規模チェーン店ほどの面積もない本屋さんなのだが、洗練された品揃えが、それを感じさせない。

 二階はコミックと参考書のコーナーだ。そう、ワカモノ向けなのである。中央の吹き抜けをぐるっと囲んで展開される棚の向こうには併設されたカフェスペースがあり、購入した本をゆっくり読めるようになっている。高校生の頃、なぜか赤本を買い込んでいたことが昨日のように思い出される。受験期に赤本がこれでもかと平積みされる壮観さは、関東圏の書店ではあまり見かけられないけれど、ワカモノが日本全国どこにでも飛ぶ地方書店にとってはごくありふれた光景なのかもしれない。しかし、八文字屋に並んでいると、「参考書」もきちんとディスプレイすべき「商品」なのでは、と思えてきてしまう。
 あのころは、赤本も飽きずに眺めたものだった。本屋さんで売っているものは、全部が読み物であった。受験生なのをいいことに、受けもしない大学の赤本を何冊も買ったものだ。そんな衝動買い、きっと八文字屋でしかできないと思う。(奥山)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第33回 最近の香典返しは、どうなっておるのか?

 香典返しの種類といえば、

●茶
●海苔
●乾物
●タオル

が主流だ。

上の4品の共通点を挙げると、
1、軽い(弔問客が持って帰るのによい)
2、賞味期間が長い、または食物ではない(返品がきく)
3、単価のバリエーションがある(値段に差をつけやすい)

 どれもお返しものに不可欠な適性だ。
 とくにタオルやシーツは近親者に贈られ、「かたみわけ」の意味合いが強い。遺品として代表的な反物になぞらえているからだ。しかしこのラインナップ、評判が悪いことも確かだ。「葬式のお茶はどれもまずい」とよく言われる。そんな先入観を覆すほどの美味いお茶が出れば別だろうが、きっとそんなものは出ない。

 なお、田舎になると香典返しの種類は一変する。

●酒
●砂糖

と、利便性よりも重いもの、かさばるものをお返しものとして重宝する傾向が現れてくる。

 ちなみに都市部では逆に、軽いもの、かさばらないものが重宝され、その究極例がカタログギフトだ。

 先だって行ったフューネラルビジネスフェアでは、カタログギフトの紹介も多かった。印象に残ったのが「沙羅」。2500円から50000円までバリエーションがあり、カタログのデザインも落ち着いている。仏事を醸す繊細な色合いだ。中身も比較的落ち着いたものが取り揃えられてあり、実用的なものももちろんあるがスタイリッシュなデザインだ。もちろんファミリー向けの品物もある。25000円のカタログには自転車まである(!)。反返しだとしても40000、いや50000円を香典として持っていかなければならないが。ごく近い親戚の葬儀に夫婦で参列したときくらいしかお目にかかれない額だ。でも香典持って行って自転車もらえるなんて、なんだかお得な気がしてしまう。もらうのが楽しみな香典返しなんて、滅多にない。

 他にも挨拶状サービスあり、喪中葉書サービスあり、送品サービスあり…カタログギフト業界は激戦区のもよう。そんななかでもデザインの面で一歩出ているように感じる「沙羅」。当日返しは地元のしきたりに倣っても、あと返しはこだわって、じっくり選んでみては。(小松)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年7月 4日 (土)

Brendaが行く!/日本の暮らしはどんな感じか?と言えば

日本にいます。

私としてはすごくバランスのいい感覚ですごしています(今のところ3日目)

その理由は、やっぱり少し休んでから来ているので精神的に余裕があるところかしら。

あとは、この間の長い滞在で結構免疫ができたかな。

普通の日本人らしく過ごしているし。

おのぼりさん的な感動はあるものの、どぎまぎはあまりせずに落ち着いて行動できるし。
一番幸せな感覚である。

現在のところ顕著に感じるのは下記の点
・ ショッピングが危険と思えるほど楽しいのがこの国の難点。笑
・ どうしてここまでメシがうまそうなのか?実際にうまい
・ 天気が最悪
・ あたしの知る限りの世界的(せま~)な範囲ではバカンス前のうきうき感で一杯なこの時期なのにこの国にはそれはない様子

日本人に対する感動
・ 雨の日にスーパーに行った。ヨーロッパ的感覚でやむとおもったので傘持たずに行ってしまった。ここは日本の梅雨だった。こういう面は自分でも歯がゆい。スーパーの前で傘も持たずに長靴も履かずに来たことを後悔していると、同じ場所でスーパーの開店を待つおばさんと天気の会話になった。素朴なおばさんが「お宅はこの近くなの?あたしの傘を貸してあげるから家まで行ってとって来なさいよ」って。あ~優しい人だなって思って日本人のおばさんもすごくいい味出している人もいるなと。

・ 寿司屋において。正直初めての寿司屋ではどういう風に食べるのが一番いいのか悩んだ。どういうものがこの店の売りかということと、歯に衣着せぬ勢いで書くが、アタクシにとっては迷惑なことに、外見からは安い服を着ている上に化粧もしていないのに金持ちと思われる。そのことからアタクシのような外見の者がおまかせでと初めての店で言ってその上日本に住んでいないことは会話からバレるので、会計の時に値段が・・・。アタクシの近しい友人は料亭関係のことに詳しいので、あの世界がどのように料金を決めるかアタクシはよく知っている。ただし、すべての店がそのようなわけではないもちろん。最初は、知らない人は誰かわからないので警戒するのと同じこと。

ま、アタクシは会計の値段を知らないことが多いが自身の品格の問題から、そういうことを大変気にしている。弟に忠告される「衣食足りて礼節を知る」だっけか。男目線での注意にはよく耳を傾けている。アタクシのポリシーから言えば、どうせごちそうしていただくことがわかっているのであれば、相手に迷惑のかからないよう、その食事がお互いにとって心地よい会食の場となるようエレガンスとGraceを駆使するのが女の役目。(日本人の女の感覚のそれとは随分ズレてるとは思うが)

そこで、隣に座っていたおばさんにマスターに聞こえないように聞いてみた「あの、あの、すみません。このお店初めてきたんですけど、どういうふうに頼むのが一番おすすめですか、おまかせがいいですかこの店は?」と聞いたところ。あっけらか~んとどのようにするか教えてくださって。好きな物を頼むのが一番いいと。そして「こんなふうに若い人に聞かれたら教えてあげたくなっちゃうわよね~」と。優しい人だ。しかも何を食べると健康にいいとか、マスターの仕込んだ物の中でも特においしいものとかも教えてくださった。いい人だ。

なんとなく、わかってきたことがある。
日本人の多くの人たちとも豊かなコミュニケーションをとる方法。

次回はその詳細を書く。
はっきり言って参考にならないので、読みたい人だけに読んでいただきたい。

Brendaさんのブログはこちらhttp://ameblo.jp/brenda0/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 3日 (金)

アフガン終わりなき戦場/第19回 先進国の匂いがする街で(下)

 バグラム空軍基地は、ソ連侵攻時代に建設されたアフガニスタン最大の基地で、RCイースト(東部戦線)の拠点だ。また、アフガニスタンに駐留する兵士たちの生活の場でもある。
 駐留米軍を統括する司令官もこの基地にいる。私が訪れる数日前の5月、デビッド・マキャナン司令官が更迭され、首が挿げ替えられた。新任は統合参謀方部筆頭部長のスタンリー・マクリスタル中将になった。前任のマキャナンはオバマ大統領の2万1000人の増派に加え、もう1万人増兵を主張していた。オバマ大統領との戦略の違いがトップ交代の理由だと言われているが、真相は知る由も無い。何より、ここで働く兵士たちには何の影響も及ぼさないように見えた。

 喫煙所で煙草を吸っていると、3人連れの兵士が話しかけてきた。
「あんたどこからだい?」
「日本だ」
「じゃあ、アニメの『鋼の錬金術師』は知っているか?」
 白人の兵士がニヤニヤしながら聞いてくる。日本人だと言えばこの手の話題が来るのは承知の上だが、アフガニスタンとはミスマッチだ。
「アニメは少しだけ見た。マンガは読んでるよ」
「あれは面白いんだよな。母親を無くした少年二人のアドベンチャー。大好きだよ」
『鋼の錬金術師』では、軍事大国のアメストリスが宗教を篤く信じるイシュバール人の国を滅ぼすというエピソードが入っている。アメストリスの兵士の中には虐殺の罪悪感に苛まれ、自殺しようとしたり脱走する者もいた。イシュバール人の男「スカー」は戦後、復讐のために軍の中核をなした国家錬金術師を次々と暗殺していく。
 私にはアフガン侵攻やイラク戦争のオマージュに思えたのだが、アメリカ軍兵士が同作を好きだとは意外だった。
「ほら、こいつ。こいつはマンガ・アーティストなんだぜ。日本人にちょっと見てもらえよ」
 そう言って、白人兵士は横のノッポの黒人を私の前に押し出した。私の顔よりも高い肩の上に照れたような顔がのっている。私よりも少し若いだろうか。
ノッポは恥ずかしいよ、なんて言いながらポケットからipod touchを取り出した。
 画面の上をごぼうのような2本の指がスライドすると、アメリカ風ではない、日本風の絵がでてきた。さっ、さっと指を繰り、私に絵を見せる。随分と眼の大きな女の子のマンガだ。

 まるでアメリカに旅行にきたみたいだな・・・
 そう思っていると、スピーカーから大音量で何やら命令が出された。音が割れているのと、早口なので何を言っているか分からない。
 3人組が何も言わず喫煙所を離れて、基地のメインロードの端に並んだ。
 5分も立たないうちに、メインロードは兵士たちでいっぱいになった。2キロ以上はあるかという道が、先が見えないくらいまでに人の道になった。
「何が始まるんだい?」
「葬列だよ。今日殺されたんだ」
 どこからかラッパを持った楽団が現れ、ラッパを鳴らした。
「敬礼」の号令がかけられると、一列に並んだ兵士たちはドラマのように「ザッ」と音を鳴らして敬礼をした。
 兵士たちの隙間から盗み見ると、オープンカーにされた軍用車の荷台に星条旗をかけられた棺が見えた。
 1台、2台、3台。
 車が兵士たちを隔てて、私の前を通過していく。
 再度号令がかけられると、こんどは音もなく兵士たちが額から右手を下ろした。
 すると、終わるいなや、さっきの白人兵士が話しかけてきた。
「おい、アニメのDVDとか持ってないか? もう基地で売ってるのは全部見ちゃったんだよ」
 持っていないと答えると、邪魔しなた、と言って笑いながら歩いていった。
 ノッポの兵士をつかまえて、葬列について聞いてみた。
「まあ、週に2回か3回はあるね。東部戦線で死んだやつはみんなこの基地に運ばれて、それから本国に送られるんだよ」
 ノッポはニヤニヤしながら喋っている。ニヤニヤするのが照れ隠しなのかもしれない。
「こういうのって悲しくない?」
「そうでもないよ。慣れっこさ。それより、俺のマンガどうだった?」
 あいまいに答えて、私はホテル・カリフォルニアに引き上げた。途中、スーパー・マーケットでノン・アルコール・ビールを買った。アルコールは置いてなかった。

 基地での日常とはどういうものだろうか。外で殺し合いをしたと思ったら、基地に戻るとマンガの話が始まる。ノン・アルコール・ビールで乾杯して、アニメのDVDを見る。朝起きると、また殺し合いだ。
 悲しくなったり、切なくなったりしないのだろうか。
 数字は無常に結果を表している。陸軍だけで昨年は133人が自殺をした。
 外に出ると、日は完全に落ちていた。街灯が静かに基地に点々と光を落としている。光源加減か、彼らの内にあるものか、歩くもの皆皆真っ黒い影絵のように見えた。(白川徹)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«ホームレス自らを語る 第31回 この生活も愉しい/山口さん(73歳)